BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

江戸時代「警策」論議(5)

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 お釈迦様の意をくんで、面山さんが新しく考案したという「禅杖」。その用法がここから示されるのだけど、面山さんは「行杖」と「受杖」、つまり警策・・じゃなくて禅杖を手にしそれを行ずる者と、坐禅していてそれを受ける者、という両方の面から説明している。まずは「行杖」の方から。

 禅杖を行ずる者は、眠っている人を見たら、静かにそこまで歩いて行って、杖の先をその人の方の上に当て撫でるのである(原文「肩上を揩摩すべし」)。そうして眠った者が目を覚ましたら、合掌して禅杖に感謝するのである。もしまた眠ってしまったら、もう一度杖の先でその人の肩をささえてあげるのだ。そこで目覚めたら、また合掌して禅杖に謝意を表すのである。それでもまたまた眠ってしまったら、三度目には杖の先で肩を軽く打つのである(原文「軽打すべし」)。だがそのときは振り上げる杖の高さは一尺を超えてはいけない。で、目が覚めたら合掌して禅杖に感謝するのである。

 というわけ。いやありがたいですね、もし言葉を添えるなら、「もしもし、眠ってましたよ」「大丈夫ですか、軽くぽんといきましょうか」てなぐあいかな。
 しかも三度めにいよいよ打つ段になっても「一尺以上振り上げるな」と釘を刺す。このあたりなかなか配慮が細かい。そう言えば私なんかの経験でも、打つ前に思いっきり振りかぶっていた人いたもんなあ。
 面山さん、この「行杖」作法にちょっと付け加えている。

 お釈迦様が言っている。「もし、高位の和尚や阿闍梨が眠っていたとしても、その時は起こしてあげなければいけない。それは法を大切にするからである(原文「法を恭敬するが故に」)」と。
 だから堂頭(修行道場の道主)や尊宿の場合でも、禅杖を行ずるべきである。それこそ仏制に従うことであるのだから。
 また、もし三度禅杖を行じてもそれでもまだ眠る者があったら、それ以上禅杖を行じてはならない。だがその際、眠る者が自分は宿業が重いからこんなに睡眠欲が強いのだと考えて、特に痛打を願う者があったら、その時はこの限りでない。

 数日前のことだけど、グループメンバーから、単頭位はじめ尊宿位にある者が警策を求めてよいだろうか、という質問あったけど、このあたりが参考になるかも知れませんね。
 ここでちょと立ち止まって考えてみたいことがある。一応決まりに従って尊宿でも覚醒してあげた方がよいのか、尊敬すべき立場にある人だから遠慮した方がいいのか、と迷うことある。ここに見える「法を恭敬するが故に」という言い方に注意したい。この決まりを「仏法」とするならば、高位の尊宿に遠慮してしまうのは「世法」ということになる。こう考えるとやはり世法よりも仏法優先ということでしょうね。しかしこうした説明の仕方、面山さんのていねいさと、法に対する誠実さが際立っている。世に言う「婆々面山」の真骨頂はこのへんだと思う。決して“バアちゃんのようにおせっかい”ということではないんですね。

※画像は面山さんの肖像。面山瑞方(めんざん・ずいほう。1683-1769)の肖像画。目下ご紹介中の『建康普説』は83歳の時の刊行でした。