BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

江戸時代「警策」論議(7)

 しめくくりの一段、ここでも面山さんの修行者達に対する細やかな心配りが見える。

 思うに、人は身のまわりの諸事から解放され心が静かなときは、その眠りは軽やかであり、煩瑣な身辺雑事に追われ気持ちの落ち着かぬときは、その眠りは重苦しいものとなる(原文「人人縁省き精静まらば則ち睡もまた軽し、事繁く神馳せば則ち睡もまた重し」)。
 現今の修行道場では午前4時(寅)から午後12時(子)に到るまで、さまざまな行事の多いことは、昔の叢林規則の三倍もある。そのために心身ともに疲れ果てている状態である。だから坐禅の時になって、自分では睡るまいと思ってもどうにもならないのである。そうは言っても眠気を振り払って修証につとめるというのが精進というものである。しっかりと精神を鍛え上げ、堂々と胸襟を開いて、自らの内面・外面ともに清々として何ものにも動かされぬようにしなければならない(原文「宜しく精神を斗藪して胸襟を洞豁し、能く内外をして灑灑落落ならしむべし」)。心を暗く沈み込ませることに耽ったり、落ち着きなく散乱させることに走ったりして、自らの心身が(さまざまな影響のために)翻弄されないようにしなければならない(原文「昏沈に耽嗜し散乱に馳〈馬+甹〉して、心身をして〈氵+盾〉〈氵+盾〉〈氵+屈〉〈氵+屈〉ならしむべし」)。
 その用心の方法は道元様の『普勧坐禅儀』に詳しく説かれている。全山の大衆諸兄よ、できうるならこれについて詳しく参究していただきたい。

 面山さんの言うように、僧堂生活が朝未明から夜更けまで公務・雑務取り混ぜてとにかく「やることが多すぎて」忙しく過ぎてゆくのは今でも同じこと(特に新参者のうちですが)。こうした辺りに目配せが聞いているのも、婆面山ならではというところ。
 文章の後半は原文の言葉がむづかしく、充分訳して切れていないけれど意味は伝わるだろうか。
 およそ叢林と言われる禅宗道場の修行は、自らの心身を深くそして鋭く研ぎ澄ましてゆくのだが、これを外界と隔絶したところで独りそれに没頭するのではなく、集団生活している仲間もろともにその道に邁進するところに特徴があると思う。しかし集団生活はともすればさまざまな人間関係のストレスの温床にもなりかねない。その危うさに対する警鐘が後半部分にひびいいているように感じる。

 以上で、『建康普説』中の「新たに禅杖を製する普説」の紹介を終わる。あらためて原典に接してみたい人は、『日本の禅語録 第18巻 卍山・面山』(講談社)に漢文の原文と、鏡島元隆先生による読み下し文&現代語訳があるのでどうぞ。