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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

大賀亮谿師範 その2

 大賀亮谿(渓の字を用いている場合もある)師が静岡県・見性寺の五世であることは「その1」で述べた。生卒年は明治32年~昭和35年。後席を嗣いで六世となったのは実子である大賀渓生師。生卒年は昭和4年~平成26年、世寿85歳。じつは私が静岡県第一宗務所を梅花特派巡回に訪れた初日、10月20日が渓生師の遷化の日であった。現在は渓生師の三女に当たる清月尼老師が守塔を勤められている。

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 今回、見性寺様を訪れた時、こちらと有縁の龍興寺方丈さんと龍雲院堂頭さんが同行してくださったが、お寺に入る前に龍興寺さんが「まずあっち見ていいですか」と案内されたのが、境内に建つ小さな建物だった。何かの倉庫かと思ってのぞくと、渓生師の仕事部屋兼書庫となっていたもので、二間×三間くらいの室内にぎっしりの書冊があった。資料調査には先ずここから、と配慮してくださったのである。聞くところによると、渓生師は住職業の旁ら、高校教師をしておられ、また文芸活動に活躍されていたようで、あまたの文学小説、また投稿や編集などで参加されていたと思しい各種文芸誌、さらにはご自身で主管されていたという『樹林』という名の文芸誌バックナンバーが多数所蔵されていた。とくに注意されたのは『樹林』で、そこには渓生師の手によって、道元の行歴、思想についての論究や、道元禅師和歌についての解説などが展開されていた。
 その建物の蔵書を調べた後、お寺の事務室から寺誌類、保管されていた書翰等から貴重な成果を見つけたのだが、見性寺拝登前には失礼ながら念頭になかった渓生師の存在に大きな興味を抱いた。渓生師ご自身はさほど梅花については一生懸命でなかったという清月師の話であったが、『樹林』や寺誌に見る限り、渓生師はかなり丹念にご本師・亮谿師の梅花に関わる業績をまとめている。また道元禅師の思想についても特に文学的側面からの造詣が深いように感じた。そして『道元禅師和歌』の解説も先行する他の参考文献に頼らないもので、しかも『正法眼蔵』等、道元の他の著作に関するかなりしっかりした理解を踏まえたもののようである(※たとえば「春は花」一首については、杉尾玄有氏の発想にかなり近い。この点を含め、渓生師の道元禅師和歌理解に就てはあらためて考えてみたい)。さらに書翰の一通から分かったことだが、赤松月船師が、亮谿師亡き後の渓生に宛てた手紙の中で、渓生師に対し、見性寺は他の人に任せて、梅花流のために作詞活動に専念してほしい旨を要請している。そしてそのことを安田博道師にも話しておくから、と記している。結局、大賀渓生師の名前は、梅花流の中央舞台には上って来ないままになったが、安田師が解説に秀でた人だと認め、また赤松師が梅花は詠唱だけではダメで本格的な宗旨の点で「あの方のような骨組みのたしかな人でなければ」ならぬと評した、大賀亮谿師の命脈を、この人は継承していると感じた。

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 この渓生師が、ご本師であり見性寺先代である亮谿師について、綴った次の文章を紹介したい。

「先代と梅花流」 大賀渓生

 先代が床に就いたのは、昭和三十五年七月下旬だった。勤め先の上司に教えられた。先代は古い庫裡の東の間に臥床していた。胃潰瘍で清見寺の青木医師に診て貰っていると言った。症状は一進一退だが、概して落ち着いていた。部屋に風も入らずこれでは暑いだろうからと言って、電気扇風機を清水次郎長通りの店で買い求めた。住職が臥床したことはすぐに寺の役員にも知れ、まともに差し込む朝日を避けるために、東側の畑に支柱を立て、日覆いを掛けてくれたりした。ところが、ある日、寺に戻ってみると、母があたふたしている。部屋に行ってみると。一間半ほどの三尺廊下に赤黒いものが、一面に広がっていた。父はすっかり青ざめ、ぐったりと布団に倒れ込んでいた。そのとき私は血便なのか、吐血したものかもわからなかった。今にして思うと、病名から言って、吐血したものに違いない。それにしても夥しい量であった。それを母は雑巾で包んで金盥にあけたり、廊下を拭きながらバケツに流し込んでいた。しかし、不思議と変な臭いはしなかった。
 どうして、こんなにひどくなるまで放置しておいたのだろうか。尤も若い頃、山の草刈りをして一休みするとき、いかにも疲れた様子で座敷に仰向きに寝ていることがあった。胃腸が弱かったではないか。そして、「西式健康法はこれがいいと言っている」と言った。
 後年(平成四年)、『見性寺誌』を編むために父の「梅花日録」をまとめていた頃、臥床の記事が何度か目に付いた。最初は、昭和三十二年四月一日の項に、「舞鶴市桂林寺にて終日就床」とある。同じ月の十六日「午後より胃悪く就床」、二十二日岐阜県下より帰って「帰山就床」。ずっと無くて三十三年四月二十日梅花流全国大会後に「過労のため就床」、五月二十四日「長岡市昌福寺先住忌、寒く休む」、二十六日「同寺毎日粥」。六月二十一日「終日休養」。秋になって、越本山から帰った十月十四日「四大不調休養」とある。そして、我慢できなくなったのか十七日「河村医師初診」、一週間後「寒イ腹痛イ帰途もバス不食」、二日後の二十六日、島田に出かけ「長徳寺本葬、渡辺(本通五丁目の印刷所)ニテ休ム」。二十八日、「本寺宗徳院開山忌不行」、二十九~三十日「就床」とあり、十一月八日には「一寸加減悪シ」と書いている。年改まり、四月二十五日~三十一日まで「就床」。
 三十五年にそれでも各地の梅花流の講習、大会等に出掛け、最後の講習は、七月四~五日京都市の宗仙会場だった。寝ている方が多かったのではないか。そして、七月二十日を迎えることになる。こんな体調にも係わらず、各地に飛び回って、梅花流に打ち込んだのはどうしてか。
 先代は酒酔いにまかせてよく浪花節をうなった。素面のときは、日曜に子供会を開きオルガン伴奏をつけて、仏教賛歌を教えた。オルガンは正式のものではないが、両手を使って弾いた。もっと以前演奏をしているスナップ写真もあった。バイオリンが家にあった。新潟から持ってきたものか名古屋で買ったものかは知らない。音楽を好んでいたことは確かだ。宮崎老師の前でご詠歌を唱えたことはすでに書いた。梅花流に入っていく素地はそんなものであろう。もう少し時代との関連で言えば、父は昭和二年より戦争直後まで、興津町役場に勤務していたが、一方で、在郷軍人として、多くの青年を戦場に送り、内地防衛の役割を担っていた。そのため、公職追放の憂目に会った。
 父は四十八歳だった。役場で俸給を得られなければ、何とか寺の関係で働くことはできないかと考え続けただろう。混乱した時代相の中で、坐禅ということ考えなかったようだ。例えば、園芸試験場の研修生が、坐禅をさせて欲しいと頼みに来たことがあった。それに父はすぐに賛同したが、自分では座らず、本堂の一隅に達磨様の掛け軸を掛けて、その前で坐禅することを指示しただけであった。
 それよりは、昭和二十四、五年のころ臨済宗の花園流が興津(当時興津町中宿)の龍興寺で練習しており、自身、西国三十三番のご詠歌を老婆連と唱えていたこともあり、ご詠歌で仏教を説くことが、時代に合っていると思ったようだ。そうこうするうちに、道元禅師の七百回の大遠忌を目前にして、曹洞宗でも道元禅師を讃えるご詠歌を創出しようという気運が、洞慶院の仏庵老師を中心にして湧き上がり、父にも呼びかけてきて、節もののお得意な安田博道老師(平成九年二月二十二日寂)らと共にその道に入ることに成った。昭和二十六年のことであった。
 この活動は同年六月に曹洞宗事業として企画され、十月には詠讃歌の歌詞も決まり、唱える節は密厳流を基本とすることになった。流名が「梅花流」と決まったのは十二月であった。昭和二十七年三月には道元禅師七百回報恩詠歌大会が清水市公会堂で開かれ、四月には永平寺で梅花流の奉詠がなされ、各地に梅花流が知られるところとなった。とは言っても、一般には念仏と言われていた。
 父が、講習に出掛けるようになったのは、二十九年一月下旬宮城県を始めとする。以後三十五年の半ばまで、席の温まる間も無く、講習、奉詠大会、検定と各地を飛び回った。これに対して、檀徒総代の米澤要介さんは、私に向かって、「あんたのお父ちゃんが全国を飛び回って忙しく働いてくれるからお寺にとってもいいだよ」と話した。「いいだよ」と言う気持ちは精神的にというよりは経済的な意味だったように思う。いずれにせよ梅花流の活動に積極的に加わって、生きる道を見出したのであった。そして、父がいない留守を母は一人で明るく守ることが出来た。
 母に世話をされながら、父は申し訳ないような表情をしていた。大吐血があったのが八月の始めで、それから、医師は毎日輸血とリンゲルのために見えた。それから二週間も経たないうちに亡くなった。梅花流の十周年記念大会を文京公会堂に迎えることはできなかった。急逝の原因は父の酒好きもからんでいよう。母からこんなことを聞いた。祖父も晩酌を欠かさなかったらしい。父は結婚して入籍したのが二十八歳だが、その時から、晩酌をしたらしい。だから、祖父は婿と一緒に晩酌をしたのでは寺の経済が持たないと言って、夕食前に、グイッとやって後はそそくさと食事を済ませたという。祖父は食道癌だったが、食べられなくなっても、寿司を食べたいと言った。大きいのは咽を通らないので、細巻きを作って食べさせたと、母が言ったのを覚えている。昭和五年に亡くなる。その後、父は大いばりというわけでもなかろうが、酒が飲めた。記憶だが、大黒柱の所に空き瓶を出しておくと、酒屋さんがいつの間にか来て新しい一升瓶と変えてあった。それができなくなると子どもに四合瓶を持たせて近くの居酒屋に買いに行かせた。すると居酒屋のお上さんは、私によくお使いができると言って、鉄砲玉を一つおまけにくれるのであった。それが嬉しくてよく買いに行った。居酒屋もなくなると、今度は母にどぶろくを作らせて飲んだ。薬用アルコールを手に入れて飲んだこともある。酒にまつわる武勇談も沢山あった。梅花流で上京する時も必ず酒は持参した。
 亡くなったのは丁度盆の十三日で、棚経の手伝いに、聖一色の円福寺さん(現新間見性寺住職)が泊まっていて、父を剃髪してくれ旅立ちの装いを整えてくれた。
 五世の遺偈
 鳥飛兎走 六十一年 末後一句 光徹大千

(以上)

 

 もともとあった音楽への関心

 梅花流以前の念仏・ご詠歌の造詣

 戦争殉死者の供養

 新しい時代布教へ向けて平易な形での詠讃歌布教

 などがピックアップできそうだ。

 亮谿師の梅花の足跡は、嗣子・渓生師によって書き留められていたのである。