よこみち【真読】№7 「召しませ初もの」
目に青葉 山ほととぎす 初鰹
よこみちに逸れる前にコメントしておきたい。
本編の「初穂」の由来のこと。本編では『倭姫命世記』を主な典拠にしてるのだけど、こうした説明をしている例が存外に少ない。現在、代表的な神道・民俗関係の辞書類と思しい『神道辞典』(國學院大學日本文化研究所編・弘文堂・1994)、『神道史大辞典』(薗田稔・橋本政宣編・吉川弘文館・2004)、『日本民俗大辞典』(吉川弘文館・2000)には、それぞれ立項されているが『倭姫命世記』にはまったく触れていない。これを引いている例としては『図解・神道としきたり事典』(茂木貞純監修・PHP研究所・2014)がそれ。いずれにしてもそれほど広く人口に膾炙しているとは言えないようだ。
このことは『真俗仏事編』の特徴の一つかもしれない。ベストセラーかつロングセラーなんだけど、時としてその所説は独特の異彩を放っている、ということだろうか。ま、まだ始まったばかりなので、他の項目の時も少し注意しておこう。
というわけで「初穂」のよこみちへ。
冒頭の「初鰹」。江戸時代以来ひとつの画題として成り立つほどに流行していた。季節の味覚の先取りは、通人・江戸ッ子の「粋」ということだろうか。
鰹に限らず「初もの」をありがたく思うDNAは私にもあって、つい数日前なじみの居酒屋で、ちょうど春の出物ということでいただいた「ひろっこ鍋」は美味かった。
ただこの初もの好きというのも、江戸人好みの「粋」を通り越して、あまりに騒ぎ立てるのはかえって「無粋」にも見える。自分としてはボジョレーヌーボーの人気など、ついて行けないもののひとつ。
思うのだが、秋田人がひろっこを喜び、江戸っ子が初鰹を珍重する心情と、舶来もののたいして味わいのない若いワインに盛り上がる心理というのは、基本的なところで違うのかもしれない。最前ついDNAなんて言ってしまったが、ボジョレーにしろバレンタインにしろクリスマスにしろ、外来種はやはり在来種と違うよなあ。とと、「初」ものからも逸れちまいそうなので、もとへ。
「衣」を作るには、先ず「刀」をもって布を裁つ、だから「初」というのは、昔、いくらやっても上手くならない書を教えてくれたおばちゃん先生が初めて教えてくれた。
そんな「初」の字義に気のついたことがある。「初穂」「初もの」など今見てきたところは、それぞれが「新しい」という共通項を持つこと。
ところが字引によると「初」には「ふるごと」という意味もあるという。たとえば『儀礼』の注によると「初、なお故のごとし」と、また『礼記』の注では「初、故事を謂う」と記されている。「初事」とは、昔からのしきたりのことだそうで、そう言えば、初代や初祖という名称も、「はじめ」という意味合いはありながら「古い」という含意もありそう。
こうなると「初」とは「新」と「古」の両義的な意味ともいえようか。
でも「初=ショ」とは、やはり漢語的意味なんだろうか。
「初」=「ウイ」あるいは「ソメ」となれば、漢語をもとにしながらも若干ニュアンスの違いをただよわせるように思う。
ある友人が、待望の第一子(女児)誕生の際、「初子」と名づけて「ういこ」と読ませていたのはいかにも可愛らしく思った。
「うい」とは、「うい孫(初めての孫)」「うい琴(初めてならう琴)」などと「うぶい」に通じる気がする。「ういの女」とは、かつてポルトガル宣教師が日本へのキリスト教布教のために編纂した日本語-ポルトガル語のための『日葡辞書』にも載る由緒古い言葉。出来たのは17世紀の初めだ。意味するところはお察しの通り処女ということ。
「ういやつじゃ」とくれば、「愛い」なんだけど、どこかしら「初い」にも通じる気がする。未経験なためにウブで可愛い、そんな語感。
「そめ」という言葉も同じようにどこかいい匂いのする語感。「見初める」「馴れ初め」など、男女間のしっとりした関係をほのかに感じさせる。この二人の映画も、年齢を超えてほの甘い情景を醸し出す boy meets girl のなれそめを映していた。
こんな和語的表現の背景に横たわっているのが、情愛ということ。むろん漢語の「初夜」は、日本で使われているその言葉と同じ意だから、ことさらに和語と情愛の結びつきを強調することもないのだけど、いろいろ見ているとやはり和語としての「初」にはそのあたりの「匂い」を感じる。
たとえば「初もの」という言葉自体、処女や童貞を隠喩しているとは、ごく一般的な国語辞書にも記されていること。日本語というのは常用表現の裡に男女のむつみごとが暗喩されていることがしばしばあると思うのだがいかがだろう(あるいは世界共通かもしれないけどね)。これって、いやらしいと言うよりも、フラットな意味で人間の基本的な部分だとも思う。
当の「初穂」もまたご同様で「他人に先んじて、ある女性を手に入れたりすること」という隠喩の例もあるとか。ものの本によると、江島其磧作の浮世草子『魂胆色遊懐男(こんたんいろあびふところおとこ)』の一段「奥様は機嫌のよい栄花枕」に「此うまき所を我ら、初尾(=初穂)してのけんと」というくだりが紹介されている。「初もの食い」は時には倫理道徳に抵触するというよい見本でもあるね。
ただしこの「初穂(初尾)」が色事に転換されている例は、浮世草子や川柳など江戸時代の町人文化の中では見いだすことが出来るけど、果たしてそれより以前、他には広げて考えられるのだろうか。 前掲の『日葡辞書』では「どんな物でも、初物、最初の果実など」とあって、懐男のような不心得者むきの説明はなされていない。念のために『時代別国語大辞典・室町時代編』を覧ても、そのテの解釈は記載されていなかった。
もっともこれを近世町人文化が流行するとともに「初穂」の意味が拡大してきた、と受け止めるのは早計だろうな。もともと含意されていたものが成文化されるようになったと言うことかもしれないし、だとすれば印刷技術や、あるいは文芸発信の担い手がどう変わってきたか、などの問題も関わってくるだろう。
今のところは「初ものもなかなかいいね」というセリフを、かすかな笑みとともに受け入れる寛容な世の中にしてくれた先人たちの営為に、感謝しておこうかな。
う~む、このところよこみちに逸れると、話がこっち系に偏ってきたような気がするな。自重しとこ。