よこみち【真読】№10 「春と秋は中途ハンパか?」
かつて小田某の作った歌詞に、春と秋は、夏と冬の間に置いたから中途半端なのだというくだりがあった。三十年以上前のこと。ときどきこの歌を耳にする度に、少し引っかかるところあったので、「春秋彼岸」にふれた今回、いい機会だから取り上げておこう。
『塵添壒囊抄(じんてんあいのうしょう)』(以下、『塵添』)という1532年に序文が記された類書がある。仏教や世俗の故事来歴を編集した20巻になる本で、いわば本編『真俗仏事編』の先輩格にあたるもの。
この書の「彼岸事」という項目に、春夏秋冬のいずれが中途半端なのかということに関わる記述がある。ちょっと読んでみよう。
△二季の彼岸をもって善根を作る時節とするは何ぞ。
○それ一年を四季に分つといえども、誠は春秋の二季なり。夏は春の余り、冬は秋の余りなり。されば昼夜の長短を云うも、極長は夏にあれども、春の日長しと云い、極長は冬にあれども、秋夜長しと云うなり。『左伝』にも、二季に分かつがゆえに、「春秋」の名ありと云々。
この春秋二季の間に、彼岸はこれ正時なり。
『経』に云く、「昼夜斉等にして、両岸を比べるに左右均等なるがごとし」と云々。よって比岸と名づく。また日出、日没の両岸、彼の岸と々々と斉(ひと)しきがゆえに彼岸とも書く。時分相応のゆえに、所作成就すと云々。余時においてこの義なし。仏法は正を用ゆ。魔界は違を用ゆ。ゆえに正直の時節に仏法は顕現し、魔界は陰没するなり。ここをもって一年の中に、二季の彼岸をもって、仏法相応の時節とするものなり。
※『左伝』は『春秋左氏伝』。
さて、というわけで、これによれば春と秋こそ「まことの季節」の二つであり、夏と冬はその「あまり」だという。
小田某の歌が世間でいかにもてはやされようとも、われわれ仏教関係者は声高らかに言おうではないか。
「春と秋こそまことの季節。しかして彼岸はその正中!」
「いまこそ仏法相応の時。正直の時節に仏法は顕現し、魔界は陰没するなり!」
と(笑)。