BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

高田道見と赤松月船

『跳龍』昭和51年4月号
「心の花は咲きそろう」
三宝御和讃解説(上)」赤松月船

(前略)この三宝御和讃は、高田道見老師のお作をもととして、専門委員会の方々が手をつくして、補正の上、こういう形に完成したものであります。
 今から六十年前、三宝唱歌として、オルガンを弾いてうたったものであります。当時高田老師は、瑞応寺僧堂の堂頭師家であり、東京の芝愛宕町に仏教殿(ママ)を経営して、仏教一般について、平明にして行届いた解説を旨とした新聞雑誌、並びに仏書の刊行をなさっておられました。
 夏の間は瑞応寺にお帰りになり、秋冬春は、仏教殿(ママ)においでなりましたが、どちらにも十四、五人の随身がおりました。暁天坐禅と朝課は、どんなに執筆が忙しくても欠かされたことはなく、若い間に勉強しておかなくてはいけないというので、檀務の時間を案配して、必ず講本をして下さった。どちらにおいでになっても粥、飯粥の食事、唯一の贅沢というのが「うどん」と「餅」を召し上がることでした。私は、瑞応寺時代は方丈行者、仏教館にあっては、編集のお手伝いをして、前後五年間お世話になりました。
 お亡くなりになって何年かたった時、追悼法要を洞上記者団主催のもと、大本山総持寺出張所で、栗山泰音禅師を導師に仰いで営んだ際栗山禅師の懐旧記に、「高田さんはもともと基礎的な学問をなさったお方ではなく、仏教をわかりやすく解説して、世の中に伝えたいという熱意から、勉強をしながら筆を執り、筆を執りながら勉強をなさった。全く精進努力の固まりのような人であった」栗山禅師は宗門のジャーナリストとしては、先覚のお方であり、学識といい、文章の確実で新鮮であったこと、そのエッセイ集「自選集」を拝見するたびに、今なお脈々として感銘の迫るものがある。高田老師は、禅師のもとに行って、文章上のいろいろな点で指導をお受けになったようで、栗山禅師のその時のお話の中にも、例話をいくつかお上げになっていた記憶がある。