BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

【世読】No.12「嘸(さぞ)」巻一〈倭文用語類〉(web読書会『世説故事苑』)

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この字『字書』に出づと雖も、今俗説に云うサゾの字義曽て有ること無し。これ吾が邦の造り字なり。俤(おもかげ)或いは糀(こうじ)などの類の如し。今俗に嘸(さぞ)と云うは尤もと領承する意なり。尤もと同心し異議なき時サゾと答うる詞なる故に文字口無に従うものを設けたるなり。

 

よこみち【世読】No.11「忖度の風土」

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 かっちりした武家社会の階層意識の反映なのだろうか。
 文書の最後に必ず「そうろう」と附けるのは「いかがおぼしめすぞ、と先様の気をうかがうなり」ということだそうだ。これは「いかがでございましょうか、と相手の機嫌を伺う」というわけだから、たとえこちら側が発信したものであっても、つねに先方の胸中を思い測っているというのが「そうろう」の成立している舞台なのだろう。
 子登はこれを、かつて教えてくれた人の言葉を引いて「日本の」助護辞なり、この辞書を置かなければ文章として成立しない、と言う。相手の意向をつねに忖度していることがこの国の特徴なのだと子登は心得ている。
 明治維新を経て武家制度はなくなり、第二次世界大戦の敗北を経て封建的意識の涵養は教育の中から排除されたかに言われてきたが、いまだに忖度の大切さが強調されているのは、我々の根っこは相変わらずと言うことだろうか。
 そうそう、「そうろう」と言えばいつも思い出すことがある。ある友人とこんな会話をした。
 私「生老病死(しょうろうびょうし)の克服が仏教の根本問題なんだってね」
 友人「ソーローボーシだね」
 私「ん、ちょっと発音違わない?」
 友人「いや、早漏防止が問題なんだよ」
 おあとがよろしいようで。

【世読】No.11 「候(そうろう)」巻一〈倭文用語類〉(web読書会『世説故事苑』)

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『釈名』に「候は護なり。諸事を伺するなりとなり」然れば候はウカガウなり。倭俗の書札に詞の末には必ず候(そうろう)と云うは云下たる事ヶ様(かよう)なり。如何が思召ぞと先様の気をうかがう意なり。『壒囊鈔』にもこの義を叙ぶ。余嘗て人に聞けり、候(そうろう)は日本の助語辞なり。この辞を置かざれば文を成せずと云えり。まことに聞こえたり。

よこみち【世読】No.10「す、スキが・・」

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「追って沙汰あるを待て」
 〈沙汰〉なんて聞くとついこんな時代劇がかったセリフを思い浮かべてしまう。でもあらためて沙汰の着く言葉を挙げてみると、
 刃傷沙汰、裁判沙汰、警察沙汰、色恋沙汰、新聞沙汰、沙汰止み、沙汰無し、音沙汰、御無沙汰、正気の沙汰、キ××イ沙汰、地獄の沙汰も金次第、取りざたするのしないの・・と。存外に多いことがわかる。そのもとを質すと本編で言うように、ものごとの道理を分明ならしめていくことにあるという。
 にしても今回の本編、『杜詩集注』の注釈に始まって、公儀の用語に及び、当世の用例にコメントするという、的確にして簡明なことといったらじつにシャープというほかない。実際に〈沙汰〉について調べてみていざまとめてみようとなると、子登の記述は現行の他の類書よりも頭ひとつ抜け出ている観がある。「群書に多く出ず」という短いコメントも、こりゃかなり読んでるなとうかがわせるに充分だ。そのスキのなさに、今回のよこみちは大いに遅れを取っちまった。

【世読】No.10「無沙汰(ぶさた)」巻一〈倭文用語類〉(web読書会『世説故事苑』)

ご・ぶ・さ・た・ね  ♡

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  沙汰とは『杜詩』に曰く。「江河の濁るを沙汰す。」『集註』に曰く。「沙汰は篩(ふるい)を以て沙(いさご)を貯わえ、その細かなるを去りて、その大なるを存するを汰と曰う」[已上]
  言う心は物の道理を別つこと沙を汰(ゆり)て細かなるを去り、大なるをおさむる如くにす、これを沙汰と謂うと。これに依て公儀の判断を沙汰と云う。[群書に多く出づ]
倭俗世間の人の判断を世間沙汰と云うはきこえたり、風説を沙汰と云うは不可なり。その謂(いわれ)なし。また無沙汰というは上の字義に依るに理非別ざる体をいうなり。故に無礼するを無沙汰するという。善く聞こえたり。

よこみち【世読】No.9「硬派の王道」

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 和語としての「かたじけない」の説明には、恭・辱の字が充てられ、「高貴なものに対して下賤なことを恐れ屈する気持ちを表す」とある。恐れ多い、面目ない等にならんで、分に過ぎた厚意を受けてありがたくうれしい、とある。ここには「私のように低い身分のものがこんなにたくさんいただいちゃってもうしわけないけどありがたい」という、いわば「ほんとはラッキー」というプラスのニュアンスがある。
 これに対して『世説故事苑』の言うところは、「いや私にそんなご恩を受ける資格はありません、とんでもないやめてください」というマイナスのニュアンスだ。この二つのニュアンスの分岐点は「ラッキー」があるかないかである。
 ここで思い当たるのが『正法眼蔵随聞記』に見える道元の言葉。
 たとえば巻三のある夜話ではこんなことを話している。

 唐の太宗の時、魏徴奏していわく、「土民、帝を謗することあり」。帝のいわく、「寡人、仁ありて人に謗せられば愁いとなすべからず。仁無くして人に褒められばこれを愁うべし」。
 俗なおかくのごとし。僧はもっともこの志あるべし。慈悲あり道心ありて愚痴の人に謗せられ譏(そし)らるるは、くるしかるべからず。無道心にして人に有道と思われん、これをよくよく慎むべし。

 自らに徳あってそれが人に伝わらずに非難されることなど気にしない、しかし自らに取るところ無くして人がそれもわからずに褒められるようなことあればそれは厳にいましむべきこと。『世説故事苑』に言う「辱」の意味はまさにこれだろう。「ラッキー」などという心の浮わつきはつけいる隙も無い。

 道元はまた言葉を換えてこのことに触れている。同じく『正法眼蔵随聞記』巻三の一節。

 真実、内徳なくして人に貴びらるべからず。この国の人は真実の内徳をば探りえず、外相をもて人を貴ぶほどに、無道心の学人はすなわち悪しざまに引きなされて、魔の眷属となるなり。

 鎌倉時代道元の言葉は、現代の「この国の人」にもあてはまりそうだ。その人の内実を見透せず、外面だけでちやほやする。それを実のない人間はうかうかとその気になって、あれこれと翻弄され、どっぷりと誤った境涯に落ち込んでそこに住む連中と同化してしまう。
 このあたり子登もなかなか硬派ですね。

【世読】No.9「辱(かたじけなし)」巻一〈倭文用語類〉(web読書会『世説故事苑』)

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 『書言故事』一の注に曰く。「辱は恥なり。徳無きに極めて厚恩を承くるを恥づ。」
○この意は譬えば金子くだされて辱(かたじけない)と云うときは某、御辺に対してケ程厚き志を受くべき恩のおぼえ無き故に辱入(はじいり)たと云う意を辱(かたじけなし)と云う」となり。或いは忝の字を用う。忝は辱なり。訓にて義同じ。