BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

【真読】 №136「業報は聖者も免れず」 巻六〈雑記部之余〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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 『増一阿含』に云く、大目連、乞食に出て梵志に囲まれ、瓦石を以て骨肉を打たるる。これ往業に依てなり。
 それより還りみれば、舎利弗、風の疾いを以て先だって入滅す。三界の諸天、涙を堕すこと雨の如し。ゆえに知んぬ。業よく随逐して聖に至ても免れず(『行持鈔』)。

よこみち【真読】 №135「ゆれる思い出」

 小学校の頃、なにか不始末をやらかして「罰として一週間の便所掃除!」などと先生に叱られる・・そんな場面が記憶がある。
 「罰」として成り立つということは、一般にはイヤな、耐えがたいことだからだと思うが、そんなイヤなことをさせられるのが「便所掃除」だったのに、今回の本編の趣旨では「懺罪の人」が「罪咎を滅す」る妙法だというのである。おそらくそんな典拠のことなどつゆ知らずに、学校では便所掃除が罰だったのだろう。ただもしかすると、罪犯の人が懺罪のために便所掃除するという手段がどこかで行われていて、それが今に伝わっているという気もする。
 本編で紹介している雪竇禅師に代表されると思うが、禅僧には便所掃除に熱心な人がしばしばいたようだ。すでにFBにメッセージ寄せて下さった紫山師もその一人。
 私が見聞した中でおもしろいと思ったのは高田道見師と赤松月船師。赤松師がまだ18歳の頃、はじめて修行の身となった道場が愛媛の瑞応寺。時の堂頭老師は東京から三顧の礼で迎えられた高田師であった。年若い雲水・赤松が高田堂頭の世話係となった。高田師は大変まめな方で、毎日、自分の使用している堂頭用便所は自分でせっせと掃除していたらしい。ほんとはそれこそ行者(あんじゃ)と呼ばれる役の赤松の仕事なのだが、当時の赤松どちらかといえば手抜きしたがりだったようで、堂頭老師が好きでやっているならそれでいいじゃんという具合で、ただ後ろからその掃除する様子をぽけっと見ていたらしい。高田師は着物の裾をはしょり、たすきを掛けて、ごしごし掃除する。ときに大股を開くと、真後ろから眺めていた赤松の目の前に、ゆるんだ褌のわきからぶらぶらと見え隠れする堂頭老師の分身。赤松師、その様子をずっと後になって回顧している。
 曹洞宗梅花流にいまに歌われる『三宝御和讃』ゆかりの二人である。
 ほほえましくもあり、憎めなくもあり。

「たましい」その1 柳田邦男『『犠牲』への手紙』(文藝春秋、1998年)

 (2)「たましい」を探し求めて‐毎日新聞に答えて
 ‐本をまとめた原動力は
柳田 河合隼雄さんが「人間は物語らないとわからないところがある」といっています。私も息子も人間存在の暗闇を見てしまったような気がします。息子を亡くした私がもう一度再生していくためには物語を作るしかなかった。私のような書くことが業となっている人間は書くことで再生していくしかないのです。息子を失った喪失感、挫折感、悲しみをかかえながらどう生きていくか、それは息子のたましいを紡いでみて、息子の人生に納得できてはじめて、再出発できるのです。亡くなってから二年の歳月をかけて、ようやく自分の中に息子のたましいの色や形が少しはよみがえってきたような気がします。
 ‐たましいを物語として紡ぐとは。
柳田 大江健三郎さんの中短編連作集『僕が本当に若かった頃』(講談社)のなかに、簡単にいうと次のように解釈できる「火をめぐらす鳥」という短編があります。たましいは目で見ることはできない。たましいは楽器のようなもので、それ自体はふだんは音を出さす胸の奥で眠ったような状態にあるけれど、外から訪れたものによって刺激を受けると、美しい音が出て。このたましいは美しい色だなとか悲しい色だと周りの人々も記憶するし、奏でたたましい自身も記憶する。音を奏でたとき、秘められた生い立ち、人生が凝縮されてくるというのです。洋二郎の文集や本、ビデオをたどりながら書いたのは、外から洋二郎のたましいに語りかけてはじめて、洋二郎のたましいが音を奏でてくれるに違いないという思いからでした。それは、私にとって洋二郎のたましいを求め、もう一度手に具体的につかみたいという心の旅だったと思います。
 ‐実際には洋二郎さんは骨髄ではなく腎臓を提供されました。
柳田 本を書いてたましいは胸の中にすっと入ってきましたが、同時にもっと俗っぽい意味でも洋二郎がまだ生きているんだなという、じわっと温かい気持ちがします。また、日本医科大学多摩永山病院の救命救急センターで洋二郎の担当をして下さった冨岡讓二医師が、救命センターでも死の看取りは大切だと気づかれて、QOL(クオリティ・オブ・ライフ、生命・生活の質)に対してQOD(クオリティ・オブ・デス)という新しいキーワードで、死にゆく人の「死の質」、つまり「よりよい死」を確保することの重要性に気づいて学会で発表されました。そして、たとえば、救命がもはや無理とわかったら、ベッドサイドを家族に解放するとか、、よりよい看取りの演出をするといった具体的な提言をしました。洋二郎がこの世に生きていたという証しをつかもうとする家族の努力は医師にも伝わり、よりよい医療につながっていくんですね。
毎日新聞 1995年9月14日)pp71-71

 講演 体験と物語

質問1 柳田先生の『犠牲』は拝読させていただいて、凄い本だと存じ上げます。今日のお話も、ご子息の脳死のことも含めて、生と死のぎりぎりのところをいろいろお話になって、第二人称の死のこともよくわかりましたけれど、私が知りたいのは、それでは人間は死んだらどうなるのか、要するに死後の世界というか、霊界と申しますか、魂の問題といいますか、それを先生はどういうふうにお考えになっていらっしゃるのかということなんです。先生、これはなかなか凄い難しい問題で、よくある答えは、人は「死んじゃったら何にもないんだからないよ」と片付けるたぐいで、ある検事総長は、『人間は死んだらごみになる』という本を堂々と出したりしています。もう一つの回答というのは、「とにかく死んで帰ってきた人がいないんだからわからないよ」というものです。で、そういうことだったらわれわれはみな知っているわけなんですけれど、そうじゃなくて、要するに死後の世界、もうちょっといえば、失礼なんですけれども、いまご令息はどういうふうになさっていらっしゃるかというようなことを含めて、おさしつかえなかったら、お教えいただければありがたいと思います。
柳田 死後の世界を考えるときに、多くの人は、あの世に行って極楽か天国で生きるか、あるいは輪廻の考え方で何かに生まれ変わるか、その確信をえようとするんですけれども、私はそういう形では考えないんです。死んだあとのことはわからないって思っているんです。わからないというのは、私たちの発想というのは、いま持っている知識と論理、あるいは科学的な推論、そういう範囲でしか考えていないんですけれど、そういう世界だけではわからない世界がたぶんあるんだろうなということは思っているんですね。死後の世界というのはおそらく私たちが持っている知識だけではわからない世界なんだろうと。ですから臨死体験であの世に行ってきたとか、すでに死んでいる人に出逢ったという人の話を、私は必ずしも否定しません。
 宗教は一つ答えを出してくれるわけですけれど、私はクリスチャンでも、仏教徒でもないんです。さりとて、無宗教でもない。仏教の「色即是空」の考えに共鳴しています。原始神道的な考えにも共鳴するものがあります。何か凄く怖い大きな存在がどこかにあるという感じは持っているんです。ですがそれは、必ずしも信仰とか宗教とかじゃないかもしれない。
 私自身は人の魂がどこへ行くんだろうかということについては、わかる範囲内で考えることですが、人の心の中に生き続けると考えているんです。人のいのちには、生物学的な命と精神的ないのちがあり、その精神的ないのちというのはもちろん、霊的なもの、社会的なものすべて含めていっているのですが、精神的ないのちというのは、その人固有の生物学的な命が絶えても生きつづけるし、どこに生きつづけるかというと、その人と関係性を持った人の中に生き続ける。息子は私自身の中に生きていますし、私の家族の中にも生きてるし、たまたま私が本を書いたことによって、身近な人たちもいろんな意味で理解して、そういう人たちの中でも生きつづけているし、また、全くそれまで関係がなかった多くの読者も、何か少しずつ共有してくれているという意味で、その中に生きつづけています。死後の世界が何かという答えにはならないかもしれませんが、死んだあとはどうなるかというと、死んだあとは人々の心の中に生きるということだけはどうもありそうだと私は思っているんです。それゆえに私は息子のために建てた墓碑に自筆の「いのち 永遠にして」の文字を刻みましたし、『犠牲』の巻頭にも、その言葉を掲げました。そのことが私が作家活動をしているうえでは、とても重要な意味を持っていまして、何かを書いて人に伝えるということ、それは自分の精神的ないのちあるいはたましいというものをどんどん柔軟で大きく膨らませて身近な人たちや多くの読者の心の中で生きつづけていこうとする作業なのだと思っております。
 もう一つ考えているのは、過去というものは現在の中にしかないのと同じように、未来というものも現在の中にしかないということです。いい換えるなら、自分の死後の世界は現在の自分の心の中にあるということです。自分の死後の世界をどのように想い描くか、どのようによりよく想い描くか。そのこと自体が自分の未来そのものなのかもしれないと思うのです。それゆえに信仰の意味もあり、また死を前にした人がよりよく一日一日を送ろうとする意味もあるのではないかと思います。
(1996年6月9日、東京四谷上智大学、日本ユングクラブ総会)pp156-159

  書いたこと書けないこと

 柳田 魂というと日本人は少しやばいなという感覚をこの昭和史の中で持ったんですね。大和魂とか撃ちてし已まんとかで世界制覇できるとか負けないとか。魂という言葉をそういう形で使いすぎたために、戦後はその反動で、精神とか魂は横にのけて、西洋合理主義でいこうと科学技術を取り入れ、今度は科学が跋扈して科学主義にまでなった。半世紀が過ぎてハッと気がついたら大事な心とか精神性というものを排除してしまっていたんですね。
 それは医学の場面で典型的に現れています。病気の原因と治療対策を考えるときに科学とか技術でわかる範囲でした議論されなくなったんです。人間の心とか精神性は科学で分析できないから医学では扱いかねると土俵の外に出してしまった。
 だけど人間の生命というのは生物学的な命だけではなくて精神性を持った「いのち」という部分をも含んでいるんです。その精神性の核にあるのが大和魂のような意味ではなく人間が個性として持っている「魂」ではないかと僕は思うんです。これは臨床心理学者の河合隼雄先生の考え方に全面的に影響を受けています。
 ‐それは信仰のほうにいかないものですか。
柳田 必ずしも信仰に関係ないです。人によっては信仰につながっているかもしれないし、信仰そのものかもしれないけど。pp278-279

 ‐死後の世界は信じますか?
柳田 通俗的な死後の世界は信じていないです。僕は宗教は持っていないから。でも、精神的ないのち、あるいはたましいは人の心の中で、あるいは木や石や風のなかで、生きつづけると信じてます。その意味でいのちは永遠だと思います。
 ‐でも『犠牲』を読むと、柳田さんは宗教へ行っちゃうんじゃないかなと僕は内心心配していたんです(笑)
柳田 読者の中には僕がクリスチャンじゃないかと誤解している人もいるみたいですけど、違うんです。先ほども言いましたように、僕は人格者ではありません。仏教には親近感を覚えます。とくに「修証義」(ママ)にある「色即是空。空即是色」の言葉には共鳴しています。自分だけの宗教は持っているかもしれません。生意気ですね。でも世間的な意味では、宗教には行かないと思います。pp291-293

【真読】 №135「厠を浄むる功徳」 巻六〈雑記部之余〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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 『虚空蔵経』に曰く、もし懺罪の人あらんに、厠を治すること八百日すれば、よく罪咎を滅す(要覧)。雪竇(せっちょう)禅師、霊隠寺の厠を掃除する役お司りしもこれに依ってなり。義堂の『空華文集』に出づ。

よこみち【真読】 №134「ドライとウェット」

ときどきその解説に違和感を感じる所のある『真俗仏事篇』だが、今回のテーマがそうだった。
 いわく、「寄付とはあづける義にして、与ふる義にはあらず」。
 これまで寄付とは布施とほぼ同意で、したがって「喜捨」ということだと思っていた。たとえば寺院に何かがしかの金品を寄付する。それは喜捨、文字通り「喜んで捨てたもの」であるから、それがどう使われようと関知すべきではない。すでにその所有権は放棄したのだから、寄付した当人はその後何の関わりも持たないのがほんとう。と、そう思っていた。だがここでは与えるのではなく、あずけるのだという。このニュアンスだと「信託」「預託」という用語に近いことになる。これであれば、寄付者は自分の金品を預けた上で、それが自分の利益になるように運用されているかどうか監視する権利が保障されているように思える。ふむ、寄付とはそういうことだったのか?
 併せて思えば「義捐金」という言葉。いまでは義援という表記が一般化しているようだが、「義」は公のために力を尽くすこと、「捐」は棄てることとあり、これは喜捨の意に同じわけだ。
 違和感はさらに続く。本編が『優婆塞戒経』を引いて説明するくだり。寄付しちゃいけない四つを定めていること。老人、遠処、悪人、大力。これらについても、高齢者福祉やら悪人正機説やらの立場から突っ込みどころありありと思うのだが、寄付の原義はそうだと言われるとうっと詰まってしまう。もっとも私自身、寄付を古代インド語に遡って検討したりする素養がないのでごく上っ面の思いでしかないのだけど。
 そんな浅はかな所からあえて述べてみたいのだけど、もしかすると、ドライな寄付からウェットな寄付へという変化が生じたんじゃないだろうか。それを日本人的と言ってよいのか、あるいはもっと別のファクターなのかよくわからないけど、たしかにそんな展開がありそうに思うのだがどうだろう。
 東南アジアの仏教信仰に厚いと言われる各国の托鉢僧とそれに寄進する信者の場面を映像で見ることがある。寄進を受ける僧たちの態度は得てして無表情、とまでは言わないにしても、そっけないなという風情である。しかし信者たちはそんな態度を一向に意に介することもなく寄進を続ける。日本であれば、寄進を受けた僧侶は心から感謝の意を表すことが多いように見受けられる。もっともその言葉は定められた偈文に依っていたりはするが。
 そこに見えるドライとウェットの差に、なにか同じ匂いを感じるのだ。
 むろん上座部の僧侶達が感謝の意を持っていないと言おうとするのではない。私がなんとなくあやしいなと思っているのは、寄付という行為にまつわるなにやらちょっとだけ過剰な精神性のことだ。ここに良し悪しの問題を持ち込むつもりもない。ただやはりそこには日本仏教の、あるいは日本の特性があるのじゃないだろうか。
 とかく日本仏教を世界の仏教と比較する時、戒律遵守のいいかげんさがクローズアップされることが多いが、そんな「情的」な面の問題も取り上げてみてはいかがだろう。

【真読】 №134「寄付」 巻六〈雑記部之余〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号57

 今、什器など寺院に納むるを寄付と云う。按ずるに寄付の文字、『優婆塞戒経』に出たり。しかるに経の寄付の字義はあづける義にして、与ふる義にあらず。然れば今、寄付と云うは器財を寺にあずけおきて三宝の用に備える意なるか。(次下に引く経文を見て暁すべし)
 ○『優婆塞戒経』に云く、仏言たまわく、善男子、優婆塞戒を受ける者は、先ず世事を学びて、既に学通達して、法の如くに財を求むるに、もし財物を得れば、まさに父母・妻子・眷属に供すべし。その余は蔵積して用をまつべし。
 (次の)四処には寄付すべからず。
 一には老人。謂く、年老の人、死日漸く近し。ゆえに所有の財物まさに彼に寄付すべからず。
 二には遠処。謂く、道路隔遠の処、緩急のとき要用あれども取討に及び難し。ゆえに所有の財物まさに寄付すべからず。
 三には悪人。謂く、不善の人は稟性凶悪にして、もし財物を見れば貪奪の心を生ぜんことを恐るる。ゆえにまさに彼に寄付すべからず。
 四には大力。謂く、豪強の人、勢力を倚持して、もし財物を見れば貪奪の心を生ぜんことを恐るる。ゆえにまさに彼に寄付すべからず。

高田道見と赤松月船 1

楢崎一光「第八 二十六世高田道見大和尚」『瑞応寺の今昔』仏国山瑞應寺

 (第二十六世竹内方丈の)後任として迎えられたのが、高田道見方丈で、明治38年5月21日の晋山開堂でありました。高田方丈は当時四十八歳。すでに東京において大変な教化活動をしておられ、その名は広く宗門内外に行き亘っていたわけですから、当山には三顧の礼をもって迎えられたということであります。それは、すでに明治18年頃から、東京芝の青松寺北野元峰禅師の格別の庇護の下に仏教館を創設し、仏教青年会を主催し、通仏教の新聞雑誌を刊行するなどの事業を軌道に乗せておられた時でしたので、東京と四国を兼務往復するという条件で就任せられたわけであります。

 二十六世 高田道見大和尚

 僧堂も心機一転、師家高田道見、准師家楢崎孝如、という体制で発足したのです。高田方丈の徳風を慕い、雲集する修行僧は宗派を越えて多士済々であったといわれます。
 当山鎮守金比羅様は日清・日露戦争中、祈願する参詣者で近郷に広く信仰を集めていましたが、戦争終結を期して平和の梵鐘を発願され、三百貫の大梵鐘奉納を住職最初の事業とされました。殿前の境内を拡張し、鐘楼を建て、各家より小銭などを集めるなどして檀信徒総掛かりで、しかも寺内潜竜池の下で鋳造されたということです。日時を要しましたが、見事な出来映えで、無事撞き始めを行ったのが明治41年11月12日、秋の大祭もまれにみる盛儀であったと伝えられております。一撞き撞くごとに犠牲者の冥福を念じ、平和を祈るという浄行を檀信徒に勧めるとともに、当時四国霊場巡拝者が、年間数万人といわれていましたが、その巡拝者にも、この花尾山に立ち寄ってお参りして頂いて、一鐘梵音の功徳を積まれるよう広く宣教せられたのであります。余談ながら、この名鐘も昭和20年、戦争に協力ということで供出し四阪島精錬所で溶けてしまったわけです。
 続いて翌明治42年には、観音講を組織し檀信徒の信仰を鼓吹するとともに檀信徒規程を作り、葬祭基準を作るという画期的な檀信徒教化につとめられるとともに、山門の内規、例えば仏事禁酒など有名ですが、門風を一段と刷新されました。有名な法王教会を設立し自ら法王子と称して釈尊一仏本尊を主唱し法王経典を編纂し、和讃を作り楽器を用いて伝道せらるる等これまた画期的な家風でありました。
 住職10年を期して大正4年大授戒会を啓建し、教授師に水野利中老師、引請師臺俊道老師を請し、説教には後住になられた松浦百英老師をはじめ、田中、吉川、高島老師方がフルナの弁舌をもって戒場を魅了し、戒弟も遠く関東、鎮西より蟻集して未曾有の盛会であったと伝えています。
 住職十八年間でありますが僧堂も大正7年には佐伯道隆老師を迎えていよいよ充実し、夏冬両度の安居のために寺格を宗門最高の常恒会に昇格して門風を宣揚せられました。その祝賀式は大正9年7月2日で、檀信徒は勿論、全国各地からも絶大な賛辞を受けられたわけです。
 住職就任以来、縁に応じ化をたすけ戒を授け、また瑞應僧堂に衲子を掬養し、街房に居して居士白衣を揀弁す、古きを温ねてしかも常に新たなる接化であり、圓明の見地、等身の著述、けだし仏国門下の出色なりとたたえられています。大正12年4月16日午後6時30分、刻々と死期の迫られるとき自ら病状を記し感懐を録して臨終寸前に及ぶが如きまた最後に合掌して釈尊称名幾遍、枕頭一同を顧視して、「もうお別れ」といって圓寂せられるという生死遊戯自在の御一代であり、後人の追慕して止まないところであります。