BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

【真読】 №133「父母を寺に養う」 巻六〈雑記部之余〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

f:id:ryusen301:20171112095608p:plain

テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号57

 僧に貧銭の父母あって寺に養はるるあり。三宝物を費やすゆえに、たとい親なりとも罪を結せんかと疑う者あり。
 僧はなお孝養を知るべし。なんぞ疑はん。今『行持鈔』の説を出す、これを読みてその趣を知るべし。
 ○『善見律』に曰く、「父母、貧銭ならば、寺内に在りて供養せよ」。
 ○また『僧祇律』に引いて云く、「もし父母、貧銭ならば、まさに寺中に至るべし。もし信有る者は、自ら恣に与えて、乏しきこと無きことを得せしむべし」。
 ○『五百問』に曰く、「父母、盲(めし)いしもしくは病んで、人の供給すること無くば、乞食して半を与えることを得すべし。自らよく紡績し衣食を与えば、罪を犯す」。(已上の二部の説は、父母、我が財了るに、寺に養わるるは、三宝物を貪るの罪ありと)
 ○『五分律』に云く、「畢陵伽、父母貧窮にして衣食を以て供養す。仏の言たまわく、“もし人、百年の中、右の肩に父を担い、左の肩に母を担い、上に於いて大小便利せしめ、世の珍奇の衣服を極めて供養するも、なお須臾の恩を、報ずることあたわず。今よりゆるす、比丘、心を尽くして父母を供養することを。しからざれば重罪を得る”」。

よこみち【真読】№132「暮らしのおなやみ解決します」

日常的な仏事の疑問回答集というスタイルの『真俗仏事篇』において、今回のような話題はやや異質だった。吠える犬を制する・・。
 こんなおよそ「仏事」とは遠い話題もしばしば出てくるところがこの本のおもしろいところなのだが、こんなところにオモシロサを感じてしまう私のような人たちにオススメしたい本がある。それは『修験深秘行法符呪集』という。タイトル通り修験道のもので、さまざまな行法万般にわたる護符作成法や呪法儀礼を集めたものだ。れっきとした仏教儀式に関わるものはむろんだが、あやしげでおもしろげなものも数多い。いくつかのその項目を挙げてみよう。
 火傷を治す呪
 酒の口を開ける加持
 悪酒を善くする符
 死霊教化の事
 狐の荒れ啼き亘る時立てる符形
 鼬(いたち)道を切る時立てる符
 鼠(ねずみ)退治の符
 鼠衣装等を喰う時立てる符
 盗人調伏の事
 悪人来を除(さ)ける符呪
 疱瘡を除(よ)けの符
 歯痛を治す法
 魚骨咽喉に立つ時抜く呪
 田蟲食損の祈祷札
 衆人愛敬の大事
 恋合の呪
 離別の法
 求子の大事
 難産護符
 小児の夜泣きを留める加持法
 etc.
 という具合である。まさに生活全般にわたる便利百科のような観がある。ご関心の御仁はぜひ実際に本書を手に取ってご覧いただきたい。
 と全くここで内容に触れないのも不親切だと思うので、一つだけご紹介しよう。それは「離別法」である。この秘法、男女間に関することらしい。別れたいがなかなか別れられない場合に、あとくされ無くきれいに別れるためのもののようだ。以下、秘法の紹介である。

 男より女を離別せんと思はば、女の着物の襟に本人の知らざるようにしてこの符を入れ置くべし。女より男を離別せんと思はば、男の着物の襟に入れ置くべし。
 この符を書くには、二又川の水にて、未だ別れざる所、まさに別れんとする所の水を以て書くべし。またこの符を書く墨へ、茗荷と山鳥の尾を黒焼きにして加え用いるなり。
 加持には観音経、心経、金輪の呪、荒神の呪を以てよくよく祈願するなり。

以上が本文。そして護符の書き様は次のようなものだ。

f:id:ryusen301:20171102114641p:plain

 二股に分かれる川の、その別れ際の処の水を用いて墨を摺りその墨液にて書くのだそうな。「我れ思ふ、君の心ぞ離れつる。君も思はじ、我れも思はじ」なるほどねえ。

 実際にこの問題でお悩みの方もあるだろう。ものは試し。ぜひとも実行してはどうだろう。そしてその首尾ついてもぜひ教えてくださるとありがたい。

 ただし、もしも間柄が一層複雑になったとしても、このサイトおよび管理人は一切の責任を負わないことをお断りしておく。

【真読】 №132「吠える犬を制する法」 巻六〈雑記部之余〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号57

 俗説に、狗が吠えかかる時、手を握って向かえば犬退く、これ犬を畏(おど)す術と云う。
 按ずるにこれもまた秘軌より出てて俗に伝ふるか。『大元帥軌』中(十三葉)云く、「もし犬、人を吠えば、手を以てこれに指し、すなわち地に於いて獅子吼王の虎を捉ふるを画け。犬、すなわち性を失って去る」。

よこみち【真読】No.131「猫を虐待する僧侶に関する件についての一考察」

www.youtube.com

  お寺と猫とくれば「山寺の和尚さん」がすぐに思い出される。

 さて、と調べてみるとやはり探求好きな方は世に少なくないようで、たちまちあれこれの情報にネット検索は導いてくれた。

 いわく、早期和製ジャズがオリジナル。

 いわく、江戸期の禅僧・白隠のもとで気が触れてしまった鳥道なる僧の狂態をうたったもの。

 など、手近の検索サイトですぐヒットするのでお好きな方は探してみたらいいだろう。

 で、だれかの二番煎じはきらいな当「よこみち」としては、このネタどう料理しようか。

 どうも「和尚」というモノは一般の方々からすると一種変わった存在のように思えるのだろうか。

 猫を虐待する山寺の和尚さん、カボチャのタネを蒔くお山の和尚さん、子どもたちが家路につく頃になると鐘が鳴る山のお寺。こうして見ると〈山〉〈寺院〉〈僧侶〉というのは一つのカテゴリーの中に収まっていることがわかる。そしてもう一つここに共通するのは多くの場合〈イジリの対象〉ということだ。

 一見、俗世というものから距離を置いたように見える仏僧の世界(あくまで一見だが)。そこでは愛欲、飲食、放楽etcへの志向がのきなみ反対方向を向いていると思われている。そんな〈禁欲〉を看板に掲げていると思われている仏僧たちが、〈ホンネはそんなんじゃないでしょ〉とイジられてるのが「山寺の和尚さん」の姿なのだろう。

 今の芸人達がときどき「もっとイジってちょうだい」と言うのを聞くが、大げさに言えば自己承認欲求みたいなものだろう。揶揄の対象であってもかまわないから私をハブらないで、という心情。里を離れて「山のお寺」にすむ「和尚さん」たちも、だれかに相手にしてほしいと望む気持ちは一緒なのだろう。「かまいたい・かまわれたい」は古今僧俗を問わぬことのようだ。そんな欲求を満たすための動物を〈愛玩〉動物とはよくぞ名づけたものだと思う。

 かわいそうなのは袋におし込められた猫であることは何も変わっていないのだけど。

 

 

【真読】 №131「猫を蓄うことを禁ず」 巻六〈雑記部之余〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号56

 猫を飼うは殺生の咎(とが)をもって戒疏にこれを禁ず。密部には『蘇婆呼童子経』の中に曰く、「猫・狸・羖(ひつじ)・羊を蓄うことなかれ、(乃至)かくの如くの人今世・後世に真言を念誦してもまた成就せず」。

よこみち【真読】№130「ガラスのごとき・・・」

「お坊さんって、女性恐怖症じゃない?」
 と、誰かからはっきり聞いたわけでもないし、そんな文章を読んだという定かな記憶があるわけではないが、でも誰かがきっとしゃべっていそうな気がする。少なくとも今回の本編のような文章に触れると自分などはそういう思いをいっそう強くする。
 ある宗派の話だが、といわゆる一般論だと思って読んでいただきたい。修行僧堂道場の立地環境の話である。人里離れた深山幽谷・・とまではいかなくとも、まわりにはなんにもないひっそりしたところにひっそりと伽藍を構える道場がある。一方、都市部の真ん中、ひょいと出て行けば色とりどりのネオンにぎやかな歓楽街に隣接した道場もある。
 ひっそりした方いわく、「祖師たちの教えの通り、このような深閑とした環境にあってこそ真の修行ができるのだ」。
 にぎやかな方いわく、「世俗の塵埃に囲まれたここにおいて清廉な修行に勤めることこそ、いっそう厳しい環境なのだ」。
 こんなやりとり、僧職にない一般に方々にとっては、じと~っと視線を向けたくなるようなものだろう。
 圧倒的に男性の頭数の多い仏教僧の世界で、釈迦の初めから女人は「悪」の役割を負わされてきた、と言っては言い過ぎだろうか。どうしたわけか本編に見るとおり男僧修行者にとって女性はアンタッチャブルな存在と意味付けられることが少なくない。
 これを読んだ女性からすれば、こんな言い分もありそうだ。「なに言ってんの。あんたなんかをどうして誘惑しなくちゃいけないのよ。自意識過剰なんじゃないの」と。
 男女ほぼ半々くらいに分布しているこの世にあって、もっとフランクでフラットな男女の位置関係が修行の場でも保証されていてよさそうなのに、得てして「女人禁制」なる場が多いのはなぜだろう。
 男僧はそれだけふらつきやすい。修行だなんていきがっても所詮その程度。などなどそんな声が頭をよぎる。男僧の貞操なんてほとんどガラス細工のごときもろさに思えてくる。
 親鸞上人のようなスタンスも一手ではあるだろう。
 昔のように、少々のうそっぽさも含みながら「出家主義」を標榜していた時代なら、強がり続ける向きもあるかもしれないが、いまのご時世、ほぼ結婚していることが当たり前となったこの状況下においては「女人」に対する新たなパラダイムができあがってなくちゃおかしいよな、と思うのだが。
 さてご同輩、いかがなものだろう。

【真読】 №130「霊場に女人を禁ず」 巻六〈雑記部之余〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号56

 問う、「霊場に女人を禁ずるところ多し。その謂い、如何」。
 答えて云く、「密院には殊に女人を禁ずべし。吾が祖の遺誡にも〈僧房に女人を入るるを禁ずべし〉の一條あり。女人の容色を視れば、行者の心乱れて呪力なからしむ。ゆえに秘経に深く誡めたまう。『蘇婆呼童子経』一に云く〈女人、色をよくして巧みに笑み、嬌(なまめかし)く言い、性、衿荘を愛す。行歩妖艶にして、姿態をもって男子を動かし、心迷惑乱せしむ。真言を持する者、むしろ火星を眼中に流入し、双目を失して盲(めしい)て見る所無くしても、乱心を以て女色を観視し、種々の相好美麗によって、分別すること無かれ。念誦の者をして、威力を無からしめん〉と」。
 私に云く、已上は秘経の本説をもって密院に女人を禁ずるゆえんを出せり。総じて僧房に女人を入るる過(とが)は、『行持鈔』に弁ずるがごとし。