BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【世読】No.9「硬派の王道」

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 和語としての「かたじけない」の説明には、恭・辱の字が充てられ、「高貴なものに対して下賤なことを恐れ屈する気持ちを表す」とある。恐れ多い、面目ない等にならんで、分に過ぎた厚意を受けてありがたくうれしい、とある。ここには「私のように低い身分のものがこんなにたくさんいただいちゃってもうしわけないけどありがたい」という、いわば「ほんとはラッキー」というプラスのニュアンスがある。
 これに対して『世説故事苑』の言うところは、「いや私にそんなご恩を受ける資格はありません、とんでもないやめてください」というマイナスのニュアンスだ。この二つのニュアンスの分岐点は「ラッキー」があるかないかである。
 ここで思い当たるのが『正法眼蔵随聞記』に見える道元の言葉。
 たとえば巻三のある夜話ではこんなことを話している。

 唐の太宗の時、魏徴奏していわく、「土民、帝を謗することあり」。帝のいわく、「寡人、仁ありて人に謗せられば愁いとなすべからず。仁無くして人に褒められばこれを愁うべし」。
 俗なおかくのごとし。僧はもっともこの志あるべし。慈悲あり道心ありて愚痴の人に謗せられ譏(そし)らるるは、くるしかるべからず。無道心にして人に有道と思われん、これをよくよく慎むべし。

 自らに徳あってそれが人に伝わらずに非難されることなど気にしない、しかし自らに取るところ無くして人がそれもわからずに褒められるようなことあればそれは厳にいましむべきこと。『世説故事苑』に言う「辱」の意味はまさにこれだろう。「ラッキー」などという心の浮わつきはつけいる隙も無い。

 道元はまた言葉を換えてこのことに触れている。同じく『正法眼蔵随聞記』巻三の一節。

 真実、内徳なくして人に貴びらるべからず。この国の人は真実の内徳をば探りえず、外相をもて人を貴ぶほどに、無道心の学人はすなわち悪しざまに引きなされて、魔の眷属となるなり。

 鎌倉時代道元の言葉は、現代の「この国の人」にもあてはまりそうだ。その人の内実を見透せず、外面だけでちやほやする。それを実のない人間はうかうかとその気になって、あれこれと翻弄され、どっぷりと誤った境涯に落ち込んでそこに住む連中と同化してしまう。
 このあたり子登もなかなか硬派ですね。