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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

飛鳥寛栗「六章 声楽家 権藤圓立」『それは仏教唱歌から始まった-戦前仏教洋楽事情-』199912、星雲社

ときには毎日一本 梅花考

ふとしたことから内容もわからず購入。

権藤圓立と梅花流の出逢いのくだりがあった。
著者は龍谷大出身。大谷派。仏教音楽では業績あり。同著者による『日本仏教洋楽資料年表 』あり。

 

著者は大正4年(1915)生まれ。同じ時代を生きた仏教音楽関係者について平易に、しかし豊富な資料に基づいて記述している。

本書の中、直接梅花流に関わるのは権藤一人だが、その記載の中、曹洞宗教学局編『布教指導叢書』や『曹洞宗報』などを引用している。著者の博引渉猟の一端を伺わせる。

 

>権藤と藤井

権藤圓立
宮崎県延岡市船倉町(現中央町) 真宗大谷派光勝寺権藤圓海の六男
明治24年(1891)1月29日誕生
延岡中学から東京音楽院受験課に入学
そこで藤井清水(作曲家・日本民謡の楽譜化に貢献)と出会い生涯の親交のきっかけ
大正4年(1915)権藤、東京音楽学校卒業(声楽専攻)(藤井は翌5年卒業、作曲専攻)
後、山梨県師範学校、兵役後、福岡県田川郡立田川高等女学校、佐賀県立鹿島高等女学校、武雄高等女学校に勤務。(その頃、藤井は九州の小倉高等女学校に勤務)
 
>野口雨情との出逢い

大正10年(1921) 藤井、大阪市北区の私立北区市民会館(館長・志賀志那人)の要請で大阪へ。管弦楽団・合唱団を組織し音楽活動を始め、権藤に大阪転出を呼びかける。
大正11年(1922)4月 権藤大阪へ。大阪市北区中津町応徳寺に仮寓、府立高津中学校に勤務。藤井、志賀らとともに「楽浪園」結成。
大正11年(1922)11月 楽浪園事業として野口雨情を招いて「童謡民謡講習会」開催。
野口雨情、「音楽による社会教化」という理想に共鳴し、楽浪園の活動に参加。

>楽浪園の三羽烏

野口(作詞)・藤井(作曲)・権藤(歌唱)の楽浪園三羽烏による講演演奏活動開始。
大正12年(1923)10月 月刊楽浪園通信『うたのくに』発行開始 創刊1号に権藤「繁影その折々」収録。

>芸術教育協会の結成

大正13年(1924)4月 楽浪園、一層の発展をめざし「芸術教育協会」結成 月刊誌『芸術と教育』発行 地方へは「講演と演奏の会」
大正14年(1925) 芸術教育協会主催で、大津市にて夏季湖畔大学 講師、本居長世北村西望・小原圀芳・暁烏敏

三羽烏東京に集まる

大正14年(1925)暮 東京住の野口雨情の勧めにより権藤、上京。
大正15年(1926)3月 藤井、上京。三羽烏とも東京へ。親交深まる。正月交換会「堂々巡り」は昭和18年まで続く。

>孤独の権藤圓立

昭和3年(1928) 文部省宗務局に事務所を置く「仏教音楽協会」創設。「仏教聖歌」を発表、その普及を事業とする全国的組織。江崎小秋が「日本仏教童謡協会」を提唱したときも3人(野口・藤井・権藤)は支援。
権藤はラジオ放送、レコード吹き込み、演奏会と多忙。また刑務所教誨の一助に歌唱指導が有効と考えていた。巣鴨刑務所、川越少年刑務所において実施。
昭和6年(1931)より 浅草浅草寺内にある仏教青年伝道館の日曜講演の歌唱指導、墨田電話局の交換主たちへの歌唱指導。葬祭業東京博善社での歌唱指導。
満州事変
※日支事変
昭和16年(1941) 肺炎をこじらせ、心臓病を併発して病養生活に入る。
昭和18年(1943) 野口、東京を離れ宇都宮へ疎開
昭和19年(1944) 藤井急死。
昭和20年(1945) 野口死去。

>戦後の権藤圓立

昭和23年(1948) 健康を取り戻した権藤は、清水脩・長田恒雄・本多鐵麿・伊藤完夫・吉川孝一・岩崎成章ら東京の詩人・作曲家たちと浅草本願寺に事務所を置く「日本宗教音楽協会」を結成。5月19日「山科の道」等を発表し『讃仏歌集』を続刊。
伊藤精次が尽力した戦前の「仏教音楽協会」にも関わり、藪田義雄作詞・松島彝作曲「極楽小荘厳」の発表にも参画。
昭和24年(1949) 大谷派の新声明制定委員会にも関わり、蓮如上人450回遠忌法要記念に「正信讃」法要を東西合同の音楽法要と制定する協議会の委員に入る。
昭和29年(1954) 曹洞宗梅花講顧問を委嘱される。『梅花流詠歌和讃教典 参』刊行
昭和32年(1957) 盛岡報恩寺で全国詠讃歌大会開催。このとき千余名の参加者による三宝御和讃の奉唱、一仏両祖の大唱和があって、異常に高揚した雰囲気を醸したと後に述懐。

>仏教文学研究会結成

大谷派仏教音楽の動向に関する機関誌『梵音』の同人。
昭和31年(1956)より 清水洪・武宮礼一・道端良秀・菊池性善らと協力すること多くなり、上洛の機会増える。
昭和36年(1961)初夏頃 菊池良一・小林智昭・佐藤亮雄・新間進一・武石彰夫・高森宏之らとともに、仏教文学を中心にした研究会に参加。「声明の意義および名義」「声明概説」等の発表。
昭和36年(1961)11月 妻急死。
昭和37年(1962)4月1日 「仏教文学研究会」として正式に会則決定。『仏教文学研究』発刊。その2号に「平曲の成立についての一考察」寄稿。 

>晩年の権藤圓立

昭和39年(1964)7月1日 大谷派教学研究所刊『教化研究』第44号に「声明の未来」寄稿。
晩年 大谷派勤行の研究に意を用い、「昭和法要式」「同朋奉讃式第1・第2」「大谷派勤行集」の編集などに関わる。
昭和43年(1968)10月 心筋梗塞で急逝。※仏教音楽創生期の、ただ一人の寺院出身声楽家