葛黒火まつりかまくら その4 「ごんごろう考」
火まつりかまくらに関することで、よくわからないことの一つが「ごんごろう」である。
夜、点火したご神木を囲み、子ども達を中心に集まった人々が大きな声で、「おー、かまくらのごんごろー!」と叫ぶ。火が消えるまで何度もこれが繰り返される。一体これは何か。
「葛黒火まつりかまくら」について、その由緒に関わる文献は何も知られていない。
1989年、地元の竜森小学校児童が集落の言い伝えをアレンジして『かまくらのごんごろう』という絵本を作成した。その中では、ごんごろうはよそからやって来て集落に住み着いたもので、悪事を働いたので村人が懲らしめ、それ以来、改心して村につくすようになった、としている。子ども達の創作もあろうけれど、集落の伝承が反映されていないとは言えない。実際に村人に「ごんごろう」について聞いてみると、みな知らないというばかりで、手がかりになりそうな話はまだ聞いていない。
だがまったく荒唐無稽とは言い切れぬのが「ごんごろう」。
江戸時代の秋田風俗を描画した『秋田風俗絵巻』の「道祖神祭」のようすを見ると、四方に雪の壁を建てて、子ども達が火振りをしている場面がある。金森正也(『「秋田風俗絵巻」を読む』)の紹介によれば、この史料と連動している『風俗問状答』に、「この日は左義長をする。これを鎌倉という」と記されてあり、道祖神祭は、「鎌倉」とも呼ばれていたことがわかる。そしてこの雪の壁に建てられた旗には「鎌倉大明神」と記されている。(左義長については改めてとりあげる)
じつはこの絵、秋田県内に残るかまくら行事のルーツを考える時によく引き合いに出されるもので、今が最初ではない。かまくら・左義長行事のよく伝承されている礼として、竹打ちで知られる六郷のかまくら行事があるが、そこで用いられる「天筆」は独特のものである。五色の細長い色幡に、「奉納鎌倉大明神天筆和合楽地福円満楽天下太平楽・・」と書き、幟のように各家屋敷の外に飾り、その後、竹打ちの会場ともなるどんと焼きの場所まで運ばれるのである。
この天筆の意味合い、まだ詳細に調べたわけではないが、その書き様から、この世の安楽を祈願する対称としての神、と考えてよさそうである。
そして六郷かまくらのリポートブログに、この写真が載っていた。
こうなると葛黒との関連を考えないわけにいかない。
いわば「ごんごろう」はいくつかのバリェーションが考えられる「かまくら行事」共通の謎とも言える。
葛黒の場合、「かまくらのごんごろう」に、「鎌倉権五郎」の文字を充てている例はまだ知られていない。ましてや歴史上の人物である、鎌倉権五郎景政が意識されているわけでもない。後三年の役のヒーロー・権五郎を、鎌倉大明神に比定する考えもあるが、はたしてどうか。
歴史上の鎌倉景政を当てはめるにはまだまだ立証が不足している。なぜ小正月行事なのか、鎌倉大明神=景政という関係が成り立つか、他県の左義長行事にも同様に登場するか、など解明されていない要点は少なくない。
歌舞伎演目の人気者だったから、ということも言われるが、これもまた不審。
並み居る人気者の中から、なぜ景政なのか。たとえば葛黒のような山村集落で芝居の人気役者がどれだけ知られていたか。
もっともこれに該当するある考えを持ったことがあった。
小猿部上流地域には、七日市村肝煎・長崎七左衛門に関わる治水潅漑工事跡が多い。堰工事の中でも岩盤に溝を堀り、あるいは隧道を通す技術(あるいは技術指導)は地元集落民だけでは難しいだろう。江戸中後期、小猿部上流の山林資源が、阿仁鉱山の薪炭材供給地となっていたことを想起する。七日市と阿仁のつながりがここにある。鉱山業に従事する技術者のそれは、治水潅漑工事にも応用できたのではないか。阿仁は佐竹藩のドル箱であったという。鉱山町には歓楽の施設もあった。芝居のかかることもあったろう。阿仁から加勢してくる治水工事の技術者達が、歌舞伎芝居の情報提供者だった可能性はないか。と。
だがこれはちがう。今ではこの考えは撤回している。わざわざこうして書いているのは、私以外にこの考えを地元新聞に発表している人がいたのを後で知ったからだ。その記事に影響された人もあるかもしれない。だからここで自分の反省も込めて、その考えに釘を刺しておきたい。
理由は単純である。葛黒以外の地域に見える「鎌倉」の事例を、この考えで説明するのはきわめて無理があるからである。
さてふりだし。
「かまくらのごんごろう」とは誰か、あるいは何か。
腰を据えて考えてみなくてはならない。