BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

大賀亮谿師範 その3

 かねて梅花流草創期の人物を一人ずつ、そのライフヒストリーを追ってみたいと思っていた。その人がどのような生い立ちの中で梅花と出会い、どのように学び、そしてそれをまわりに発していったのか。「梅花流の誕生」を探ることを課題としているものにとって、一方では梅花流の生まれた歴史・社会的状況から探ること、もう一方では一人ひとりの人間を通して探ること、この双方が不可欠だと思う。
 そして後者の好個の素材が「大賀亮谿師範」である。もっともこう言えるのも静岡県・見性寺の調査によって当該の資料が得られたからだ。
 今回は、亮谿師自身の言葉を見ていくことにする。

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 「その2」で紹介した亮谿師の実子であり弟子として見性寺の後席を嗣いだ渓生師が、亮谿師の梅花に係わる言動を「梅花語録」としてまとめている(大賀渓生編著『見性寺誌』平成4年刊)。そこには昭和32年から同35年に至る、都合8種の梅花関係誌に寄せた亮谿師の文章が編集されている。それをもとに、以下に主な箇所を抜き書きしておこう。

 1 昭和30年早春『静岡梅花』創刊号「行ずるものの喜び」

 詠讃歌の流派は現在相当の数に上っているが、「正法和讃」に示されているように、梅花流は仏仏祖祖正伝の流派と申すことができる。それゆえに之を唱え之を行ずる正法教会の同行会員はこの上なき幸福者である。私どもの一言一句が仏様の金言、祖師の金句、一挙手一投足が仏作仏行であるゆえに自己清浄なり、ここに至って何のわだかまりかあらんやであり、同行会員等しく之を行ぜばまた家内安全なり、天下泰平なり。世の幸をこいねがうものは梅花流を行ずべきである。行じてこそ始めて法の悦び自ら生ずるものである。

⊿この文章で注目したいのは「同行」という言葉である。この時まだ梅花流正法教会という組織の頃であるが、梅花流の活動を「仏作仏行」と意味づけることともに、これを複数の人数で行う〈集団=講〉活動として「同行」という考えを用いている。現行の『同行御和讃』は昭和50年5月に赤松月船の作詞によって発表されるが、大賀の文章は、これに先行する梅花講=同行同修の活動定義として先駆的な役割を持ったと思われる。

 2 昭和31年11月1日号『禅の友』「宗門初の梅花授戒会」

 静岡は梅花流発祥の地とも言われているが、その初祖である梅花流静岡斯道会総裁名誉師範丹羽仏庵老師の一周忌を卜して、正法教会連合会たる静岡斯道会ならびに洞慶院の共催で、故老師報恩詠讃歌授戒会が当流の上級師範を招いて、さる10月6,7,8の三日間、厳粛かつ荘厳裡に修行された。
 戒師洞慶院堂頭丹羽師範、教授師第一宗務所長横割拳芳老師、引請師副所長翠師範、説戒師愛知久我師範、説教師茨城鈴木師範、直壇長静岡大賀師範、詠讃師兼維那静岡安田師範、東京野村師範、補導師神奈川水島師範、静岡二宮支部長、開地教区長その他の県内支部長、師範が参随し、初中後円満裡に円成した。
 戒弟は県下各地の代表者を主に、山形、東京、滋賀、愛知より参加した方もあって、本戒450人、因戒700人という盛況ぶりで、とくに中日は仏庵老師正当であった。本部から派遣の峰岸主事が本部長代理として祝辞をのべられ、会衆一同を激励された。

⊿当時の梅花流活動そして人脈の一端を知る好事例。維那の名手であったという安田博道、説教も巧みであったという久我尚寛、そして直壇長は大賀亮谿師が自ら勤めている。梅花流師範がいわゆる「詠唱畑」ではなく、法堂法要においても秀でた存在であったことがわかる。

 3 昭和32年7月10日発行『京都梅花』「幸福の日暮し」

 私は3年ばかり前に、宮城県の北部のほとんど岩手県に近い、築館という町の通大寺というお寺に、梅花流の講習をかねて検定に行ったことがある。
 昼間は講習を務め、夕方より検定を実施した。この検定場に、老人に混じって19か20歳くらいの娘さんが検定を受けに入って来られ、私は始めより珍しいことだと思った。もちんろん現在では相当若い人、否小学生や幼稚園の子供さんまで入会しているが、3年前は珍しく異彩を放ったのです。いちおう奉詠してもらったが、なかなか上手である。検定が終わると、二三問答したが、これまた感心させられ、有難く感じ、どこへ行ってもお話をしています。
「あなたはどういう動機で入会しましたか」
「べつだん動機はありませんが、母が進めるものですから、入会させて頂き修行させて頂いております」
「いつ頃から入会しましたか」
「六ヶ月ほど前です」
「お母さんはあなたをすすめるのになんと言って勧めましたか」
 娘さんはしばらく無言でしたすると、隣に座っていた五十くらいの会員さんが、代わって言いました。
「このお宅のお母さんはね、ほんとうに偉い方ですよ。次の組で受検されますが、お寺の方丈様(支部長さんのこと)から梅花流のお話を伺って、梅花流はほんとうに有難い、ご開山様のおさとしをじかに唱えさせて頂き、身に行えるのだから、梅花流のお仲間に入れて頂いてよかった。ぜひうちの娘にも習わせて修行させたい、せめてお嫁にゆく前に少しでも身につけさせてやりたい。娘だからどういう家庭に縁があるかも知れないが、どんな荒波にぶつかっても、梅花流を通じて、正しい不動の信仰を持てるなら、方丈様のお話のように、毎日幸福な生活が出来るでしょうといって、この娘さんを入会させたのだそうですよ」と。
 もちろん方丈様のお話が、お母さんを感銘させたことでしょうが、お母さんの信心の力もまた伺われるのです。とかく世の人は外形のことばかりにあくせくして、根本になる土台がうきうきしています。一番根本の土台「心」がしっかりし、正しい信仰に生きなければ、浮いたか瓢箪で、その家庭はぐらつくのです。梅花流を通じて得る正しい信仰生活、それが幸福な日暮というもの、尤もだ。尤もだ。

⊿ここでは亮谿師が、梅花流を行じることは家庭における正しい信仰生活を育むことになり、それが幸福の道だと考えている点に注意したい。昭和27年、曹洞宗・佐々木泰翁宗務総長は「正法日本建設運動」を宗門の教化運動として提唱するが、それより以後数年間はその運動理念のもとに、教団の各布教教化施策が展開する。その運動の三つの標語が「正しい信念・仲よい生活・明るい日本」であった。同年に発足する梅花流もその運動の一環として発足したものと考えているが、ここに見る「梅花流を通じて得る正しい信仰生活、それが幸福な日暮というもの」という表現にその一端を見ることが出来る。後年、亮谿師はこの運動理念と梅花流の実践の深いつながりを説いているが、その頃にこの三つの標語をもとにした「お誓い」が出来ている。

 4 昭和33年5月『静岡梅花』第二号「大会後記(昭和32年)」

 (引用者注:静岡県大会の報告。会場は洞慶院、天気は快晴。以下、前略して途中より)
 予定では、参加数八百名とおされて諸準備をしたが、会場が梅花発祥の地であり、かつ故丹羽仏庵老師の徳を慕い、なお今年新たに開設奉安された西国三十三か所霊場巡拝ならびに愛染湯殿の接待なども手伝ってか、定刻午前九時までには素手に千人を突破し受付係や会場係をあわてさせたのは、うれしい悲鳴であった。
 この大会は、静岡県下四宗務所管内が連合しての第一回でもあるので、前夜より拝宿し、本日の登壇奉詠を待っている支部が、伊豆南端の下田町その多数支部もあって、久住山中は鈴鉦の音が絶えなかったほどで、前夜祭の気が全山に溢れたのであった。
 開会式は特に総本部長代理として理事長の教化部長山田義道老師の臨席を仰ぎ、型の如く始められたが、会衆にひとしお印象を残したのは、30数本の支部旗の入堂であった。(中略)
 そして、教化部長老師の「こんど理事長となり、本部のいろいろの会で、各師範さんたちの意見や詠唱を伺ってみると、梅花流がいかに宗門布教教化の方面に尽力されているかがまざまざとわかり、皆様方の平常の熱心なるご修行が誠に有難く感激しております。私も理事長として一生懸命がんばりますから、皆様方も梅花流を通じて、高祖大師の御意に副い奉るよう、ご修行にお励み下さい」とのご挨拶に一同感激。
 いよいよ司会師範丹羽鉄山師範の手際よき進行により、地元洞慶院支部によって奉詠は開始された。各支部とも世話係の指示をよく守り、閉会予定時刻午後四時までに130組の奉詠は無事円成したので、午後4時半には拝宿の二.三組を残して、きれいさっぱりという大盛況であった。
 これも役員の周到なる準備と、各支部長、各師範諸師の緊密なる連絡と随喜の功徳によるものと感激のほかはない。(後略)

⊿梅花流正法教会発足後5年を経た時点のもの。この頃においても「静岡洞慶院」が「梅花のメッカ」として機能していたことが知れる。〈洞慶院:丹羽仏庵:梅花〉というステイタスの形成過程が伺われる。

 5 昭和34年12月25日印刷『京都梅花』一号「京都府大会に臨みて‐ご詠歌に親しむ‐」

 私が初めて京都府に梅花流の指導にいったのは、昭和29年の9月であった。昭和29年といえば高祖大師七百回忌がすんでから二年後のことである。そのときまで京都府下には、梅花流が入っていなかった。舞鶴市桂林寺竹村全機老師は詠道布教の先覚者で、とくに私には名古屋時代からの恩師であった。その関係から、同寺を会場とした第一回の指導者要請講習会に、講師として小生を招致された。この講習は参加者が予想以上に多く、予期以上の好成績をおさめ、まことに満足だったのである。
 その際、竹村老師、大槻謙孝師(即心寺住職)、塚本尼とともに、天の橋立見学ののち、西国三十三番札所成相寺に拝登し、梅花の曲で同寺のご詠歌を奉詠して、京都府梅花流の発展をお祈りしたのは思い出の種となっている。
 その後、竹村老師のお心尽しで、桂林知源両寺の維那和尚を静岡に留学せしめられ、その翌年、西方寺住職小川義道師は宗務庁講習の帰途、単身興津を訪ねられ、一週間にわたる研究を重ねて帰京された。以来、熱心な伝道は実を結び、いよいよ梅花が咲き始めたのであるが、その蔭には、先輩労宿のご援助と第一線布教者の並々ならぬ苦労が偲ばれるのである。
 いま一つ、京都で思い出すことは、昭和三十年桂林寺における第二回本部派遣講習の後、京都市下京区宗仙寺での講習を終えてから、細川清祐老師のご配慮で、高祖大師荼毘塔に参拝し、大師の三和讃(誕生・修行・入寂。私は三和讃と称する)と、「讃仰の詠讃歌」を奉詠し、七百年の昔、大師の開宗当時のご苦労を偲び奉り、感慨無量なるものがあった。続いて、高祖大師御遺跡を巡拝させて頂いたが、詠讃歌を行ずるものの喜びをひとしお感じたのである。
 爾来、京都府下の梅花流は、先師各位のご理解とご援助により、日に月に進み、会員もとみに増大して、本年のごときは已に全会員を収容するにたる会場たる寺院がないということで、福知山市の公会堂で開かれた。さしもの広い公会堂も階上階下ともに超満員で、役員の出入りにも困難をきたした状況であった。この盛況はちょっと書き尽くせないほどで、発展ぶりが想像されるとともに、いかに詠道布教の大きいことが、身近に感じさせられたのであった。
 この大会に本部講師として参列した私の感想を、ご参考に供したいと思う。
 それは、「習うより馴れよ」、「馴れより親しめ」ということである。
 宗門人として、両祖の御親訓に接せられないものは、宗門人とはいえ、宗門人にあらずと云いたいのである。御親訓に接することはなかなか容易なことではないが、両祖の示し残された種々の御文章を拝読し、之を行じ身に帯して両祖の行持を行持してこそ始めて両祖の御親訓に接せられるものなりと、信ずるのである。
 この接せらるる道に詠讃歌修行道がその一つである。梅花流の御詠歌におきましては今さら申し上げるまでもなく、仏祖正伝の御詠歌であることは忘れてはならない。しれは正法和讃を行じてもよく解ると思う。仏祖正伝の宗義より出でたる御詠歌、それは梅花流のみなりと申しても過言ではないでしょう。梅花流を行ずるもの、大いに優越感を持って行ぜられんことを望んで止まないのである。
 さて、詠讃歌を修行する、行ずると申しましたが、これは唱え奉るでなくて、本旨は「行じ奉る」のである。行ずる精神で唱えるのである。口頭で唱えるのでなく、全身全霊を打ち込んで唱える、否行ずるのである。身に修し心に念じ、口頭よりほとばしる御詠歌、この時仏祖と一枚である。自他の区別なし。この時蓮華台上の大吼獅である。行ずる者も仏、参ずるも仏、此道場仏国土の現成である正法日本であり、正法世界であります。
 それにはまず、習ってお覚えて、また習い、何度も復習してこれに馴れる、馴れさえすれば、詠讃歌も曲も暗記が出来る。暗記したらなおも行ずる。行じて行じ、行じぬいてなお行ずる。行じぬくのである。この時親しみが持ててくる、親しみが出ると有難くなる。「有難い」の行、即ち感謝の生活、合掌の生活となるのです。
 とかく世間には馴れてどの詠讃歌も奉詠するようになると、そろそろ慢心が出てくるもので、慢心が出ると、親しむに程遠いことになるので、大会等で奉詠する時も入賞を目標にしては、詠道を行じたと云えないのである。
 梅花流は正法日本建設を大目標にして参ります。両祖の御親訓に接し、両祖の行持を行持して、正法に親しみ、梅花流に親しんで正法の弘通に励んでこそ、真の宗門人であり、真の正法会員であります。

⊿この文章は三つの意味で重要であると思う。
 一つは、京都における梅花流の初期展開を知る貴重な資料であるという点。
 二つは、繰り返し強調される「行としての梅花流」という主張。後に梅花流で「詠道一如」というテーゼが掲げられ、その後取り下げられるに至ったが、こうした「行」の強調が亮谿師の先導であったのではないかという予想も成り立つかもしれない。
 三つは、梅花流が「正法日本建設」を「大目標」にしているという明かな宣言であるという点。これは「4」にも認められたが、よりはっきりとここに提示されている。

 6 昭和35年5月1日発行『静岡梅花』三・四合併号「第三回県奉詠大会をかえりみて」
 
  (引用者注:悪天候の中開催された大会の報告。以下の文章のみ採り上げ、余は省略する)
 大会の配役も、これは軽これは重と区別することは難しく、どれも皆重大な役目である。駅頭の案内から受付、会場整理、接待など、異体同心、一致協力、随喜の念旺盛でなければ円成するものではないのである。いざ登壇奉詠となると、登詠係、進行係、詠題司、審査員のご苦労一方ならぬものがある。一片の食事一時の様達しもできない。また、奉詠する人は仏様であるのは、作法規範に、「詠讃歌を奉詠するのは仏祖の金口に変わり、己がこれを代唱する妙音菩薩となるのであるから、奉唱の際の我が姿は蓮華台上の尊きみ仏の姿の現来と心得て云々」と示す通りで、お世話する人も粗末には出来ないので、実に気疲れすることでしょう。(後略)

⊿詠唱ばかりでなく、大会運営に係わる全ての業務を疎かにしないとしているところが特徴。

 7 昭和35年5月15日発行『梅花』第一巻第一号「行じぬく修行」

 ここに「歌詞解説シリーズ」が発刊されたのは、師範にとっては鬼に金棒で一層の強みを持ち、まことに喜ばしい次第である。とかく新しいものが発表されると、そればかりに熱中してその本旨を軽んじ勝ちなのが普通である。
 あまた教師の中の模範者である師範が、詠讃歌の解釈理論にのみ日を送り奉詠を軽んずるがごときは、とくに戒むべきである。また之に反し詠讃歌の本旨をも弁ぜずして、之を行じても奉詠の真意より遠ざかって何の益かあらんやである。
 よって、このシリーズにより詠讃歌の趣旨を体し、心に念じ、口に唱え、身に修してこそ、仏作仏行となり、諸仏の行持を行持し、祖師の行持を行持する大法挙揚の人となるのである。それでこそ上四恩に報じ、下三有を資け、上求菩提下化衆生の仏子としての真の行が行ぜられることは、この上もない幸と思わざるをえない。
 私は常に梅花流を詠ずるとき、「奉唱……の御詠歌に」、「奉唱……御和讃に」と詠題を出してもらっているが、之は「奉行……の御詠歌に」、「奉行……御和讃に」と即ち「行持奉る……御詠歌に、御和讃に」と「行じぬく修行である」と深く心に銘じて修すべきものであります。斯く信じ斯く念じて修するところに、身心一如が顕現するものであって、全身全霊が詠歌三昧になって一点の染汚がない、清浄法身である。清浄法身からほとばしる詠讃歌は、即ち両祖の御親訓であり暖皮肉であります。ここにおいて自己と両祖とが一枚である。とりもなおさず祖師行であるので、梅花流が他に優越する所以であります。斯く信じ斯く行ずるとき、現在の自己の尊さがひとしお身にしみるのですが、さて詠讃歌修行となると、まず音声や節回しの善、不善を論じたがるが、音声などの巧拙で自他を卑下するのは、まことに遺憾のことであり、あわれむべきことであります。
 かような人にこそ梅花流詠道の真髄を説き教えかつ救ってやるべきで、それのできるのが師範の師範たり、教範の教範たるべき人であり、真の先達者はこの人なりと深く敬われるものである。
 かるがゆえに詠道修行は、音声のみによって律せらるるものでなく、態度所作をも大いに心して行するのでなければ、威儀即仏法、作法是宗旨の大眼目を没却し、仏作仏行の本旨にもとり、価値なきものと思うのであります。
 よって関係各位は解説シリーズによって、その趣旨を領得し梅花流作法規範によってその意のある所を得悟し以って言行一致の梅花流詠道修行に邁進し、祖道のために祖道を行じ、諸人をして「正しい信仰」を得せしめ「仲良い生活」に入り「明るい社会」の建設に意を注ぎ「正法本建設」に師範としての本来の面目を発揮したいものである。(昭三五、三、下田港会場ニテ)

⊿この文章は、亮谿師の梅花流に対する考えのほぼ全てを叙述したものであり、これ以前の考えを発展しまとめたものとして注目される。梅花流における詠唱・所作のすべてが「仏作仏行」であるという〈1〉、梅花流を通じて正しい信仰生活をするという〈3〉、梅花流の目標が「正法日本建設運動」にあるという〈5〉など、それまでに見えていた亮谿師の梅花流に対する基本的な考え方がまとめられている。この頃「お誓い」が制定されていることを考えると、「お誓い」の精神が、亮谿師の発想をベースにしていたことがうかがえる。

 8 昭和35年6月10日(斯道会主催寺族講習会、静岡市本通浄元寺会場)「追善供養御和讃について」

 (引用者注:出店掲載誌の記載がないのは講習風景録音の原稿化か。安田師範の講習、丹羽禅師の解説講話に続いて、亮谿師による講習が行われた様子。一部のみ以下に紹介する)
 (前略)私がこれ以上、屋上屋を重ねることもないと思うんでありますが、それでもせっかくお見えになって、節とご文章はお覚えになりましても、一行積めば一行……一行以上のご修行を積むのであります。よく新曲を身につけてお帰りになりますと、皆さんが全部先生でありまして、こんどは講員の方々あるいは近所の方々にご伝授頂かなくてはならんのであります。今日は時間の許すかぎり研究していただき、じっくり身につけてお帰り願いたいと思うのであります。でありますから、県連といたしましても、他の計画をせずして、新曲三昧という気持ちで、時間を編成したようなわけでございます。さきほどもお茶を頂いておりながら、ともどもにお話申し上げ伺っておったのですが、どうも始め聞いたときは大したものではない。有難いも序の口でそう大したものではないと思ったが、数と踏むと、いいねえ。この「いいねえ」という言葉は、軽く受け取れば受け取れるですが、私は大変深みのある言葉だと思います。「いいねえ」という言葉は容易に出るものじゃない。それがもう午前中から午後に至って、「いいねえ」になったところに、このご文章の味、それから曲の味が身についてきつつあるのを、感じさせられたのであります。(後略)

⊿講習中の様子がこのように記録されている例は珍しい。引用省略はしているが、具体的なドレミファの階名や言葉の発声などについて臨場感あふれる記録となっている。

 

 以上八件の文章を見てきたが、

 先ず、これを編集した渓生師の、本師の梅花活動に対する深い理解と共感が感じられる。亮谿師の側らにいたからこそ収集できる資料で、また年次順に編集していることから、亮谿師の考えの進展をうかがうことのできる組み立てになっている。全ては渓生師の配慮だろう。

 次に、〈7〉のコメントでも触れたが、梅花流を「行」と捉え、「正法日本建設運動」の具体的実践の一つと捉える考え方が、亮谿師の発想によるものとうかがい知ることが出来る。この二つの特徴は、「詠道一如」や「お誓い」等に見えるように、初期梅花流の基本理念となったものであって、これを形成するために、大賀亮谿師の存在が大きかったことを推定できるものである。