BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

久我尚寛師関係資料の意義 その1

 愛知県豊橋市・龍拈寺。

 ここに初期梅花流の一翼を担った久我尚寛師範が住していた。
 2015年4月13日、ここを訪ね翌14日までの両日、梅花流初期を探る資料調査を行なった。総研梅プロ事業の一環、同所属のM氏も同行。

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 久我師のことは梅花流初期の詠讃曲の作詞者として、また『梅花流指導要訣』の著者として、梅花流胎動期を牽引する一人であったという予想は持っていた。加えて『龍拈寺報』や『久我尚寛遺歌集』に収められた写真および行実年譜などから、それなりの人物像をイメージし、さらには静岡・見性寺で拝見した大賀渓生宛て赤松月船書翰等からそのイメージに勝手な肉付けまでしていた。だから失礼な言い方になるが(そしてあとで後悔することになるのだが)自分としてはこの人は「つかんだ」という予断があった。

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 だが今回の調査行でそうした予断の浅かったこと、正直なところ期待薄だったこと、そうした自分の不明を心から恥じた。その上で久我師の梅花流における業績の大きさをほんとうの意味で勉強し直さなければいけないと心に銘じた。久我師の業績の意義を述べてゆく初めにあたって、まず自分の浅はかさを謝罪して、これからの作業に臨みたい。

 

 龍拈寺本堂下階の収蔵室より出された来た梅花関係資料、その詳細な分析はこれからだが、ざっと概観した印象は次の通り。

 一、手書きガリ版刷りの資料が多い。単純なことだが、それだけに未刊行の資料が多く、具体的には後に印刷刊行されるものの草案原稿や、会議の議事録、構想のメモなどで、すでに知られている活字刊行資料の前段階の事情を知ることが出来る。

 二、「梅花流正法教会」関係資料が充実。この資料は梅花流の中でも基本となるものだが、じつはこれまでの調査ではあまり出てこなかった。それはこの教会自体、曹洞宗の外郭団体であり、これが宗務庁組織内に位置づけられてからの情報はある程度たどることが出来たが、それ以前のものは刊行された名簿があるくらいで、活動状況や規約の成立経緯についてはよく解らなかった。それが久我師の手によって関係資料がまとめられている。

 三、初期梅花流の状況把握に努めた久我師の蒐集資料。『梅花流指導要訣』に見られるように、久我師は初期梅花流草創期にあたって、梅花流の成立史の叙述、曹洞宗教学および曹洞宗布教における梅花流の位置づけを担った人と思われる。そのため、これに関連する当時の資料が豊富に集められ、また久我師自身がどのように考証し、その成立史を作成してきたか、その過程をたどることができる。

 四、初期の作詞・作曲の状況がわかる。たとえば「追善供養」「二祖讃仰」など、現行の曲・歌詞とは違うものが手書き原稿で複数ある。見てみると、これらは公募(あるいは対象限定か)に応じて提出されたもののようで、現行の曲の成立過程を知ることができる。

 五、歌詞解説の状況がわかる。久我師の担当した歌詞解説の草案原稿や関連資料がまとめられており、その成作過程を知ることが出来る。

 六、他の師範たちとの交流状況がわかる。久我師と交流のあった複数の師範たちの書翰が保管されており、それぞれ梅花流の詠讃曲や規約の成立に係わる内容を持っている。またそこで話題に上る師範ことなどから、当時の師範たちの間柄を知ることが出来る。

 まだいくつか上げることが出来そうだが、まずはここまでにしてこの後は個別の分析に進むことにしたい。

 このたびの調査行に際して、龍拈寺ご山内の皆様は大変お世話になった。また初めに龍拈寺様とのご縁を取り結んでくれたのは愛知県梅花流師範・河合俊英先生だった。関係各位に心から感謝申し上げる。

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 じつはこの調査行、とんでもない失敗をした。二日間かけて打ち込んだ目録データをPCの操作ミスで消してしまったのである。痛恨のミス。資料の殆どを拝借できたのでよかったようなものの、場合が場合なら切腹ものだった。