BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

【真読】(『和漢真俗仏事編』読書会) №1 「念珠を摺って祈る」巻一〈祈祷部〉コマ番号9

「念珠を摺って祈る」巻一〈祈祷部〉コマ番号9
 古説に、鳥羽僧正覚宥、大法修行の時、伴僧に修行の竟(おわ)れるを知らしめんとて、行法の了(おわ)りに摺りしとなり。また一心精誠を表せんとして摺(す)るとも云(い)へり。

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⊿念珠(数珠)のことは巻五〈雑記部〉に「数珠起因」「数珠種類」「数珠標識」「数珠功徳」等、あらためて詳しく採り上げられるが、ここで話題になっているのは「数珠を摺る」こと。
 現在の仏教関係の辞書類を見ると、その珠の数や素材、これを用いる功徳、「爪繰る」という用法などについて述べるものが多いが、これを「摺る」意味について触れているものはあまり見ない。「念珠を摺る」とは、法要中に僧侶が両手に掛けた念珠をジャラジャラと音を出してこすりあわせることだろう。
 数珠関連記事を巻五にまとめた『真俗仏事編』(以下、『真俗』と略記)が、あえてその意味について巻一〈祈祷部〉で採り上げたのも、その内容上の違いをふまえてのことだと思う。
 鳥羽僧正覚宥とは、おそらく『鳥獣人物戯画』の作者として知られる平安時代後期の天台僧・覚猷(かくゆう・1053-1140)のことだろう。一緒に法要に参加している僧に、行法の終わりを知らせる合図としてこれを行なったという。
 いま一つは一心精誠、これは「心を込めてひたむきに誠実に」というくらいの意味。いわば修行中の行法を一生懸命に勤めているということを表すものということ。
 私(管理人)の所属する曹洞宗を始めた道元は、禅寺の衆寮にあっては「人に相対するときに数珠を掛けてはいけない」などとその持用に批判的な言葉もあるが、実際には仏教僧侶は念珠を掛け、法要中にジャラジャラやっている場面を見かけることが多い(浄土真宗では摺ることはしないとも聞く)。僧侶仲間でこの話題になったとき、「あれは一種の演出じゃないかな」と云うものもあったが、この考えは『真俗』の第二説に近い。
 いずれにしても「れっきとした典拠」は『真俗』には示されていない。曹洞宗でもこれについてあまり聞いたことがないが、いかがだろう。他宗の場合はどのように説明されているのか教えていただければありがたい。

※この読書会は http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 をテキストにしています。