仏事習俗
これも禅家より出たり。禅家に朝の上堂を早参と云い、暮に看経するを晩参と云い、不時に説法するを小参と云う。総じて和尚に拝謁して法を問うを参ずると云う。 今俗に彼(かしこ)に到るを参すると云い、参(まいる)と云うこれに依ってなり。参の字義はまじわる…
挨、拶、いずれも一対一で禅僧が相対した時、相手の禅機をはかるところから生まれた語。この本編の解説は、ときに一見意味の通じにくい仕草や言葉を交わすこともある禅問答を踏まえているものだ。 落語「蒟蒻問答」は、禅問答のちんぷんかんぷんさをパロディ…
これ禅家の語なり。禅家に一機一言にて来者の胸中を試むるを挨拶と云う。俗に客に対談するを挨拶と云はこれに依ってなり。 ○『碧巌集』三に曰く。「玉は火を将(も)って試み、金は石を将って試み、釼は毛を将って試み、杖は水を将って試み、衲僧門下に至って…
三国時代、呉の人孟宗は筍好きの母親のために冬山の竹藪に筍を求めに入る。しかし雪の中に筍はない。落胆と悲しみに天を仰ぐ孟宗に感じて、天が筍を与えたと伝えられる。 こと大切な人のために少しでもよい食材を用意したい、そのためにできる限りの手を尽く…
客を饗応(もてなす)を奔走と云う。奔り廻りて供具等を弁する意なり。馳走と云うも同じ。 ○『書』の「武成」に云く。「駿(すみやか)に奔走して籩豆(へんとう:食物を盛る器)を執る。」
はたして『世説故事苑』選者の子登は知っていたかどうか、禅宗で「珍重」と言えばまっさきに思い浮かぶのが法戦式の場面だろう。結制安居のクライマックス。座中より選ばれた首座和尚相手に、血気盛んな修行僧達が語気も鋭く次々と法問を挑んでくる。それを…
この画像は全国曹洞宗青年会般若のHPよりいただきました。営利目的の二次利用ではありませんのでご容赦下さい。 『要覧』に曰く。「釈氏相い見(まみ)えて将に退かんとする時、即ち口に珍重と云う。」○『僧史略』に曰く。「去るに臨んで辞(ことば)して珍重と…
本編の語源について手近な辞書類からコメントするという前回のやり口はお手軽なんだけれども毎回ワンパターンに流れそうでどうも居心地が悪い。で今回はもうちょっとナナメからと思ったのだがちょっとおもしろいことに気がついたので、とりあえず導入は前回…
これに二説あり。『古今集』の歌に「残りなく 散るぞメデタキ桜花 ありて世の中 はてのうければ」新歌には、『寄子歌述懐』に「思ふこと なげぶし聲にうたうなり メデタヤ松の 下にむれいて」[西三條逍遥院内符實隆]。メデタシと読める古歌も希なりとかや…
この度の本編は「むずかしい」の語源に関わるものだったが、一読された方の中には「おや?」と思われた方も少なくないだろう。私もその一人である。 亀のことを蔵六と呼ぶのは一般に知られていて、蔵六池などという名称もあちこちに見かける。もとは仏典由来…
俗に六借(むつかし)の字を用ゆ、然れどもこの字義、古来審らかならざることなり。有る人の言えるを聞くに、俗語ムツカシと云うは、『雑阿含経』の説に、亀の六つを蔵すと云うより起これり。しかれば具(つぶさ)には六蔵(むつかくし)と云うべし。ムツカシは中…
アップするのが義務のように感じてせっせと次を考える。 アップしない期間が続くとサボっているみたいで罪悪感にさいなまれる。 このどちらもイヤなので気が向いた時に更新すればいいや~と思いつついるのだが このところ「最近どうしたの?」「もうお終い?…
この義群書の中諸説一ならず。『輟耕録』の釈備(つぶさ)なり。故に今これを出す。○『輟耕録』曰く、「『神異経』に曰く、「北方大荒の中に獣有り、(よう)と名く。この獣人の家に入りて咋(かむ)ときは人疾(やめり)。黄帝これを殺したまう。これより人疾むこと…
本編の「息災とは災(わざわい)を息(やむる)と云う義なり」という「義」が真言家のものだとすれば、この義に近い禅家の言葉に「無事是貴人」というものがある。 字面をなぞれば、何事もなく無事に過ごすことこそ貴人のありかた、とでも言えるだろうか。だがこ…
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以前行なっていたweb読書会、新しいテキストに換えて再開します。 今回取りあげたテキストは『世説故事苑』です。書誌を以下に示しておきましょう。 全5巻(5冊) 著者 子登 出版 正徳6年(1716) というわけで前回の『和漢真俗仏事編』と同じ編著者・子…
本編の編著者・子登とは密教系修験者じゃないだろうかと以前に目星をつけていた。修験者はまた仏教-神道の双方にわたるほぼオールマイティな教養を持っている。で、この人の場合は、神道よりは仏教の方に、仏教の中では密教に、より肩入れが強い。今回の項…
テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号61 『神国決疑編』に曰く、伊勢の神官には仏法を避けるとす。しかれども実に避け斥(きら)うに非ず。ただ祭祀の場に臨んで屏息(へいそく・いきをおさむ)するのみ。神宮の秘記の中、内典…
水道配管工の友人が言っていた。「段取り八分。したくがばっちりだったら仕事のほとんどはできたようなもんだ」と。小規模ながらいくつかの事業経験をしてきて、その言のたしかさもうなづける。 仕事の支度、食事の支度、旅の支度。 では本編に掲げた桜にせ…
死に支度いたせいたせと桜かな 一茶 テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号61 支度とは、本尊供養具の支具(しぐ)いかほどと度(はかり)こしらゆる意(こころ)なり。この文字の出処を繹(たづぬ)るに、『集経』十三(三十二…
与えられた定命業をまっとうせず、不慮にして夭死してしまうことを非業の死と言うなら、それは普通のことではない。それゆえに非日常的なことであり不合理なことでもあり、絶対的少数なことであるはずだ。 しかし七年前の三月十一日に起こった出来事はその不…
テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号61 非業の死とは夭死(ようし・わかじに)を云う。閻浮の人寿の定業に非ざれば、非業の死と云う。 その本説を出さば、『金剛寿命陀羅尼経』に曰く、その時世尊、東方に向かって弾指し、一切…
子供の頃、誕生日と云えば友達を呼んでささやかな会食をしたり、親から玩具をもらって喜んだりという思い出がある。自分が子の親になってつくづく思うのだが、あれは親が子供の喜ぶ顔を見たくて行う家庭行事だったのだなとふり返っている。 そんな俗っぽいこ…
テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号61 俗に毎年の誕生日の賀をなすあり。 按ずるに、秘軌にこの法、出でたり。『金剛寿命陀羅尼念誦法』に曰く、もしよく三長斎月(正・五・九月なり)或いは自らの本生日(誕生日なり)に於い…
なべて生き物は年経ることによって成熟するものだ、と若い頃は思っていた。だがまわりを見回し自分を省みてどうもそうではないということが明らかになってきた。複数の経験から「なれ」を装う術は多くの人が見につけてゆくが、いったん切羽詰まった場面にな…
テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号60 たとひ白髪の老僧なりとも、無徳なれば小僧に同じ。これを白髪の年少と云う。『行持鈔』に云く、律の中に、阿難、衆を摂するに無法なるを、迦葉見て呵して「年少」と呼ぶ。阿難、問うて…
かつて、近くのお寺でぼや火事があり、お見舞いに伺った。庫裏には方丈様がおいでになり、そのお寺の総代さんが二人ほどいて、事の対処に相談中のようすだった。表書きに「祝融見舞い」としたためた赤のし紙の清酒二升を床の間に捧げ、このたびは大変なこと…
火災あれば鐘を打って人を集むること律に出たり。『五部律』に云く。もし野火来たらば、まさに揵稚(けんち、鐘なり)を打って唱令せよ。
仏教で薬と言えばすぐ思い出されるのが薬師如来。あの左手にもつ薬壺について12世紀の真言密教書『要尊法』中に次のように見える。「法界定印上有藥壺。壺内有十二大願妙藥放十二光照。施主身遇此光者除病延命」(大正蔵78、194c) ここにある十二種の大願…
テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号60 『事鈔』に『善見律』を引いて云く、医師と作(な)ならば吉羅を得て、出家の五衆ために薬を合わすことを得る。もしくは和尚、父母の寺に在りて疾病せば、弟子、また薬を合わせることを…