BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

正法日本建設運動 - 戦後曹洞宗教団の布教教化方針について(1)

 このところ曹洞宗梅花流について、特にその草創期周辺に関する文章をいく度か挙げている。

 この作業まだしばらく続くのだけれども、その時代を考える時、ぜひとも理解しておかなければならないことがある。それが昭和27年に開始される曹洞宗における「正法日本建設運動」である。

 これについて管見の限り、その概略を説明した記事や参考書はまだない。

 じつはこれについて考えるところを昨年(2014)4月16日に、曹洞宗檀信徒会館における「梅花流特派師範協議会」の席上で、1時間半ほど述べさせていただき、その後のいきさつから講義録の体裁で小冊子化する運びとなり、先般脱稿し、現在製本作業中である。おそらくこの4月くらいには刊行されると思うが、現在継続している大賀亮谿師範の言説などを考える場合には、上記に関する理解が欠かせない。

 そこで刊行に先んずることになるが、この度成稿したものから「正法日本建設運動」に関する箇所を抜き出し、こちらに挙げておこうと思う。

 小冊子のタイトルは『戦後日本社会における曹洞宗教団と「梅花流正法教会」‐中間報告‐』というものだが、これから抄出する内容は、おおむね後半部分に当たる。おそらくこの冊子は詠道課から非売品として刊行されると思うが、少数の梅花関係者に配布する程度の部数しか刷られないだろうから、このブログの方があるいは広汎性はあるかもしれない。

 以下、冊子の頁数で言えば約35頁分を、いく度かに分けてアップしてゆく。

 

 

 『戦後日本社会における曹洞宗教団と「梅花流正法教会」‐中間報告‐』より

 

 二 曹洞宗教団における「正法日本建設運動」と梅花流

 

 先ほどまでは雑誌『大乗禅』を主な資料として、終戦時当時から昭和二十六年頃までの状況を見てきました。今度はそれ以降の曹洞宗教団の状況を見て行こうと思います。
 ここからは「日本建設」という言葉が重要なキーワードとなります。すでに先ほどの話の中で、『大乗禅』昭和二十四年一月号の巻頭言「梅花の賦」をご紹介した時に、「戦後の日本を建て直そうというのは、終戦直後からの日本国の悲願であり、またこの呼びかけに応じた各仏教教団の目標でもありました」と述べました。このことを考えてみたいと思います。
 終戦間もない昭和二十年の七・八月合併号『曹洞宗報』の巻頭に、「戦争終結に伴うふ新生日本建設に順應の戦後対策処理を決議‐第五十五次臨時宗会」という標題を掲げて、高階瓏仙管長による二つの教示が載せられています。その二つめは次のようなものです。

   教示
衲茲ニ第五十五次曹洞宗時宗会開会ノ式ヲ挙グ
議員各位ハ戦争終結新日本建設ニ即応シ宗門ノ本義ヲ体シ各種ノ施策及案件ニ就キ克ク協賛ノ任ヲ竭セリ衲深ク之ヲ欣ブ惟フニ今ヤ皇国平和建設ニ邁進セントスルトキ宗門ノ総力ヲ結集シテ本来ノ使命ニ自覚シ荊棘ノ道ヲ進ム国民ヲシテ確乎タル信念ト禅的修練トヲ與フベキノ秋ナリ各位宜シク両祖ノ児孫トシテ幾多ノ苦難ト試練トヲ打開シテ教化ノ重任ヲ完ウセムコトヲ望ム
 昭和二十年九月五日
管長 高階瓏仙(宗報・二〇〇九 この文章中四桁の数字は、上二桁が昭和の年次、下二桁が月次となる。二〇〇九は昭和20年9月のこと。以下これに従う)

 ここに見える「新生日本建設」とは、戦後日本の国家的課題でありました。天皇の「人間宣言」として知られる「新日本建設ニ関スル詔書」が正式に発布されたのは翌昭和二十一年の一月一日付けでしたが、国は終戦後程なくして各仏教教団に対し、この課題への対応を求めていたことがわかるのです。
 『大乗禅』の検討からこの話題に触れた時、昭和二十一年から二十二年当時の「新日本建設」に関わる記事を列挙しましたが、このことは同時期の『大法輪』、『中外日報』を閲覧しても同様に多くの例を指摘することが出来、またそれも曹洞宗禅宗に限らず、仏教教団各宗に共通する傾向であったことがわかります。 
 この「新日本建設」という課題は、戦後の数年間だけではなく、曹洞宗教団にとっては、昭和二十七年という年を迎えるに当たって、再び新たな意味で認識されたものでした。それについて当時の資料を検討してみたいと思います。
 先ず熊澤泰禅禅師が、昭和二十七年一月に、『傘松』誌上に掲げた次の年頭の挨拶を見てみます。

    壬辰の春を迎えて 
                             不老閣主(熊澤泰禅)
 正に目出たく昭和二十七年の新春を迎え得たことは、まことに御同慶の至りである。講和会議も了えて、祖国日本が一応、独立国としての本来の姿を、とりもどした最初の春という意味においても、この新春には、一段と感慨深いものがある。また、本年度は愈々、我が高祖大師の七百回忌御正当の年であるという点において、われわれ宗門人には、これまた一入の感慨である。(後略)(傘松・二七〇一)

 そして熊澤禅師作の「昭和壬辰元旦偶感」と題する詩の一つに「令辰心境改 法運発開時 雪屋守高節 吉祥梅一枝」が載せられています。前章の終わりに、昭和二十七年とは、

  一、前年に締結された講和条約が発効され、日本の名目上の独立が実現する年。
  二、道元禅師七百回大遠忌の年。

以上二つの点において重要な意味がある、ということを述べました。熊澤禅師の年頭挨拶は、その意味を充分に受け止めたものであり、またこれがいわば独白ではなく「大本山永平寺貫首の言葉」であることを思うと、こうした認識が宗門全体へ及ぼせる影響も当然考慮しなければならないでしょう。またここに登場する「吉祥梅一枝」という語も、上来の事情を考え合わせる時、早くに「梅花禅」という言葉で、占領下日本の窮乏を堪え忍ぶようメッセージを放った熊澤禅師であればこそ、言外の思いが察せられます。
 日本国家の独立と、曹洞宗開祖である道元禅師の大遠忌の時節が重なる、この偶然を大きな意義のあることとして受け止める、それはひとり熊澤禅師だけではなく、当時の曹洞宗教団指導部も同様だったようです。そしてそれは終戦以来課せられていた「新日本建設」という課題とともに意識されていたのでした。(続)