BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】 №17 「だからお寺にも神さまはいるってば」

 とある酒席の談話のこと。相手は70代半ばのもと中学校の校長先生。

「いやあ、こないだおらほの寺さいったばたまげでしまった。なんと本堂の廊下さ神さま置いであったしものな」

 注:ネイティブ言語では意味が通じにくいと思われるので適宜翻訳いたします。

「いや、このあいだわたしの菩提寺に行ったらびっくりしました。本堂の廊下に神さまを祀っていたんですよ」

 注:この人、在職時代はほとんど寺参りなどしたことがなく、退職を契機にお寺の役員になったとかで、めずらしく菩提寺詣りをしたのだそうである。ちなみに廊下の神さまとは七福神だったらしい。

「そうですか、でもそれはよくあることですよ。種類はいろいろかも知れませんが、たいがいのお寺さんで神さまを祀っているもんですよ」

「ええ、だってそれじゃ神仏混淆でしょう。いいんですかそれで」

 注1:念のためネイティブでは次のように云う。ンニャ、シタバッテホイダバ神仏混淆ダシベ。イヤッタシカ、ホイデ。

 注2:酒もまだ回り始め、ほろ酔い程度だったので語気の荒げることはなかったが、言っている内容は詰問調であった。

「いやいや、先生、昔からそういうものですよ」

 注:たいがいの校長先生は、退職してからも先生と呼ばれるのを好むので、こう呼ぶ。

「なんと、やっぱりこういう田舎だからですかなあ(歎息)」

 さてこんなことがよくある。そのたびに内心は閉口して、外見はえへらっと笑顔を作る。

 お寺は仏教、神社は神道。それは小学校の社会の教科書にあるお話。もちろん基本はそこだが、現実には複数の神さまを祀っているお寺が当たり前だし、仏教に縁の深い神社があることも珍しくない(たとえば「お薬師様」「お不動様」という神さまの社がよくあるけど、いずれも薬師如来不動明王という仏さま)。「学校の先生もの知らず」とはよく言ったもので、お寺に来て七福神でもお稲荷様でも祀っているところへお賽銭上げて神妙にお祈りしてくれる農家の人達の方が、よっぽど経験的知識のレベルが高い。

 なかには明治維新期の「神仏分離令」よろしく、どうしても小学校社会科の常識に従わせたい人までいるから困る。

 せっかくキリスト教と仏教の間をパロディにしたものがあるんだから、

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 仏教と神道のあいだももう少し「実態に即して」柔軟に考えたらいいのにと思うんだけどな。

 現場のお寺さんはもっとやわらかいですよね。実際にそれぞれいろんな神さまあるんだから。でも中にはやっぱりおカタイ人がいて、

「うちの宗祖は佛菩薩以外の神祇を拝してはいけないと言っているんだから、われわれの寺院に伝わる神像などは夾雑物以外の何物でもない。これは長い歴史の上で檀信徒の求めに応じてシカタナク祀るに到ったものだ」という和尚さんもいる。どちらかというとちゃんと修行もし、勉強だってしっかりやっているという人にこんなひとがいる。やれやれ。

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 こういう人とは話が合わないから、一緒にお酒呑みたくない。

 じつはこの手の話、これまでそれこそオカタイ書き物にしてきたので、展開しようと思えばなんぼでもできるけど、やわらかめを信条とする「よこみち」ではやりたくない。それでもというもの好きなお方は以下をどうぞ。

 http://ci.nii.ac.jp/naid/40007029199

 http://ci.nii.ac.jp/naid/40017264371

 http://ci.nii.ac.jp/naid/40001682317

 こんなのでよければまだまだあるので、適当にググってくださいませ。

 

 で目下の問題。本編で登場する質問者もちょっと似ているんですよね、うえのお歴々に。

 「日本は神さまの国だから寺の中に社があるのかい?」

と。これに答えて本編では『釈氏要覧』に引かれる『四分律』の典拠や、中国の例などを紹介している。つまり神を寺院に招き入れているのは日本だけじゃないぞ、仏教の本家本元、インドや中国だってそうなんだぞ、と言うことだ。

 それはそれでいいのだけれど、日本の場合は、それぞれの神さまに応じていろんな信仰が背景にありそうだ。その辺のところは、このあと本編に登場する実際の神さまたちのところで考えていこう。