よこみち【真読】№42「花の首飾り」
このたびの「華鬘」を読んで思うことは、ごく当たり前のことだけれど、「最初はとても素朴だったんだな」ということ。
いくつもの典拠を挙げているが、いずれも野の草花を集めて、これを結び合わせ、つなぎ合わせて作る「花飾り」がその原型だった。もちろん、編者子登が『守護国界経』の所説を引いて、金属製の華鬘もまた本説に適うとはいうものの、オリジナルが自然の花であることは変わらない。
このことは№.41「蓋」でも、『菩薩本行経』に見える「草蓋」の例がこれと同じだった。
こうして見ると、〈荘厳仏具〉というといかにもイカメシイのだが、草花の装飾だと思うと、なにかとても慕わしいものに思えてくる。
いったい装飾というものが、様式美の方向へ走り出してゆくと、その美しさはともかく、どんどん〈ニンゲン〉から遠ざかってゆくのはいたしかたないのだろうか。
華鬘のベースになっている〈花〉についてみると、
ペイズリー
ミル・フルール
さらには中国
日本など
これはおまけ
およそ洋の東西を問わず、装飾性と様式美を追い求めてきた足跡は歴然としている。
でこの足跡を見つめていると、もうひとつ気づくのは、装飾というものが、当初のその人(あるいは神仏)をきれいに飾って上げたいという〈きもち〉に発していたはずなのに、いつしかその〈きもち〉とは離れた〈美〉の追求に走り出していたということ。これまたあらためて言うほどのこともなく、みなが気づいていることだと思うのだけど、いまこの【真読】の立場であえて確認しておきたいのは、それが「荘厳具」の上でも同じことが言えるということだ。
このことは荘厳具に限らず、仏教事相方面の解釈に触れる時しばしば思うことでもある。荘厳具が成立当初の意味合いよりもその造形の巧みさを競うようになり、彫塑の技術、素材の貴重さを求めて行くうちに、「意味合い」は置き去りにされてしまう。
野の草花ならばどのような人でもそれを支度出来るのに、数百万から数千万という荘厳具ではとても一般の人々の及ぶところではない。
そんなことを思うと、今回のようなオリジナルの素朴さに出逢うと、なんだかちょっと安心する。