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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№59「いかがわしいジャンル」

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 前にも話題にしたけど、霊魂とか死後の世界というジャンルを嫌いなお坊さんがいる。
 いわく「タマシイなどあるはずがない」
 いわく「死後の世界などを気にかけているヒマがあったら、今日この時のいのちをせいいっぱい生きてみろ」
 だいたい、こういう人達は仏教や曹洞宗なんかの「基本的な」読み物や学習を修めた人が多い。語弊を気にかけず言っちゃえば「初歩的な」でもあるのだけど。
 この手のジャンルに対して批判的な発現をしている釈迦や祖師の言葉のみを金科玉条に掲げて、霊魂や死後の世界など「非科学的」「前近代的」「邪教的」とレッテルを貼ってしまう。
「あのう、でもあなたはお檀家さんのお葬式やご法事やっているんでしょ。それはどうやって説明なさるんですか?」と聞くと、
「それは死別の悲しみを癒してあげるための行為だ」と言う。
「亡くなってしまった人はもう何もなくなったと言うことですか?」
「そんなのあたりまえだろう」
「じゃ、お位牌や卒塔婆には、亡くなった人の霊位が宿っていいるなどと説明したりするのを聞くことがあるのですけど、あれは・・」
「そんな“霊が宿る”なんて言い方が正しい仏教であるわけないだろう。あれは死者の人格をそこに託しているだけだ」
「そのう、“死者の人格をそこに託している”という言い方そのものが、“霊が宿る”ということになるのじゃないでしょうか」
「なに言っておるんだお前はっ!」

 こういう不毛なやりとりを何度くり返してきたことか。言うまでもなくこの「仏事習俗アラカルト」は、そんな人とは真逆の立場、どっぷり〈霊魂とか死後の世界〉にはまっていますので、あらためてどうぞよろしく。
 で、今回の本編「位牌」。こうした問題についてとても端的な表現があった。たとえば「虞主」の説明、
「すなわち虞は、その神気の返ることを度して、ここにおいて祭り、以てこれを安ず。かつ木主を為(つくっ)てこれに托す。もって憑り依らしめり。ゆえにこれを虞主という」
 神気とは、簡単に言えば「タマシイ」あるいは霊魂でもいい。これを木製の具に「托し」「憑り依らしめり」というわけだ。
 儒教というと、ともすると孔子の『論語』に代表されるように、人倫の思想というイメージが強く、さっき話題にしたような「いかがわしいジャンル」には無縁のように思われるけど、どっこい、儒葬儀礼などを調べてゆくと、そっちのジャンルにしっかりと根を下ろした「宗教」であることがよくわかる。

 たまにインド仏教を専攻している若い研究者と話すことがあるけど、いわゆるこの「ジャンル」というのは、釈迦の時代でもごくふつうにあって、ほかならぬ釈迦自身もその中に身を置いていた一人であるのだから、「釈迦は霊魂を否定した」みたいな言い方をする学者たちっていうのは、ほんの一片のことしか知らずに、全部がそれだと勘違いしているようなもんですよ、とうれしいことを言う。こんな考えがもっともっと一般化してくれば、さきほどご紹介したようなお坊さんたちも減ってくるのになあ。