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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

吉祥寺の権藤圓立(5)妻・はなよ「ささのはさらさら」

 吉祥寺時代の権藤圓立の足跡をたどろうというこの試み。およその土地勘を把握したあとは圓立の動向に踏み込んでいこうと思うのだが、その前に一つ触れておきたいことがある。圓立の妻、はなよのことである。

 はなよは明治32年に山梨に生まれ、大正13年に圓立と結婚する。圓立の動きを振り返ってもらえばわかるが、結婚後まもなく吉祥寺に出ることになる。

 圓立と出逢う以前、文芸に志し、野口雨情に師事していた。圓立との結婚式の媒酌人は野口であった。吉祥寺に転居してから、野口、藤井清水らとの親交はすでに紹介した通りで、音楽・文芸を通じて、彼らの交流は人間的にも文化的にも親密なものがあったと推察できる。

 はなよは、昭和36年に逝去する。この連載(2)で示したように、

http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/12/18/004002

 その年は、圓立が梅花流に関わり始めて8年目。その年まで、すでに11曲の詠讃歌を梅花流に提供していた。次回にその紹介を予定している没後の雨情への顕彰活動、妻・はなよの臨終。これらと歩を合わせるように圓立と梅花流との関係は続いていたのである。

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 権藤はな。彼女についてはすでにいくつかの先行業績があって、あらためて追加するほどの情報を私は持っていない。よって、その業績を紹介することにしよう。

  以下は<ウェッブ『池田小百合なっとく童謡・唱歌』>によるものある。

  数ある権藤はなよ関係のサイトでももっとも充実しているように思う。池田小百合さんに感謝しつつ、以下を紹介する。


 たなばたさま

作詞 権藤 花代
作曲 下總 皖一

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2010/09/01)


池田小百合『童謡を歌おう 神奈川の童謡33選』より
池田千洋 画


 昔から、毎年七月七日には、一年に一回だけ、織姫が天の川を渡って牛飼いに会いに行くという言い伝えがあります。それで、この日に竹の葉に飾りをつけて、お祭りをしました。七夕は、江戸幕府が年中行事に取り入れてから、寺子屋の習字の手習いと関連して庶民の間に普及しました。当時は、芋の葉の露ですった墨で短冊に願い事を書いたそうです。
 「七夕」の歌は、この「たなばたさま」だけなので、大切に歌い継いで行きたいものです。私、池田小百合が主宰する童謡の会では毎年七月例会で「たなばたさま」を歌っています。

 歌のタイトルは出版物により「たなばたさま」と「たなばた」があります。なぜでしょうか。調べてみることにしました。 まず、教科書を見ましょう。

  【初出のタイトルは「たなばたさま」】
 昭和十六年三月発行の『うたのほん下』国民学校初等科第二学年用に掲載されました。発表の時のタイトルは「たなばたさま」でした。他の曲同様、作詞・作曲者名は書いてありません。


  【初出は「ト長調」「四分の二拍子」】楽譜を詳しく見ましょう。
  ・楽譜のタイトルも「たなばたさま」です。
  ・「ト長調」ヨナ抜き長音階で作られています。調名記号(この曲ではシャープ一つ)が書いてありません。低学年では、固定ド唱法を指導したので、楽譜には、調号(曲の冒頭に示す調子を示す記号)を書きませんでした。
  ・2だけが書いてあります。これは「四分の二拍子」のことです。
  ・一部形式の曲です。16小節でできている。A(8小節)A'(8小節)。
  (註)A'はAの「うらがえし旋律」になっている。「うらがえし旋律」は、上行型旋律に対して下行型旋律であるから、旋律線の面からいうと、全く逆の形で、Aに対してBのような姿であるが、ここをはっきりさせておかないと二部形式の場合、bというものが必ず出てくるが、それがcとかdとかになってまとまりがつかないことになる。一部形式で「うらがえしの旋律」をbとすることは、混乱のもとになる。A'またはa 'と表示するのがよいでしょう。
  ・一番の最後は「キンギンスナ」、二番の最初は「しきのたんざく」となっている。
  ・この曲の山は第三節の「おほしさまきらきら」にあります。曲全体が静かな感じなので、あまり大きな声で歌うと、曲の趣をそこねてしまいます。

  ▼基本のリズム
  ・「タンタン」「タンタタ」「タンウン」だけのやさしいリズムで作られています。

 【教材レコード】 VICTOR A145「國民學校藝能科音樂 うたのほん(下)」
 教材レコードが出ていました。手本として子供たちに聴かせたのでしょう。
 児童斉唱 A面 (一)春が来た(二)さくらさくら(三)國引き(四)軍かん。
       B面 (五)雨ふり(六)花火(七)たなばたさま(八)うさぎ。
  この貴重なレコードは、北海道在住のレコードコレクター北島治夫さんが所有さ れています。

 【国民学校芸能科音楽教科書編纂委員について】
  昭和十五年(1940年)五月、国民学校芸能科音楽教科書編纂委員には、小松耕輔(こうすけ)、松島彜(つね)、井上武士(たけし)、橋本國彦、下總皖一(しもおさかんいち)、小林愛雄(あいゆう)、林柳波(りゅうは)が任命された(翌十六年、橋本は辞任し、城多(きた)又兵衛が加わった)。
  国民学校教科書は、大部分は新作。別に教師用書も作られ、それには教育方針はもちろん、個々の教材の指導についての注意、伴奏譜等を載せた。ここに、軍国教育に副(そ)った解説が巧みに盛り込まれた(堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)による)。

  【戦後】
 昭和二十二年版には掲載されていません。昭和二十四年からは、各出版社の発行する民間の検定教科書が文部省唱歌に変わって、全国の小・中・学校で用いられることに決まりました。では、民間の検定教科書を見ましょう。

  【民間の検定教科書の扱い(二葉図書発行)】
  民間の検定教科書になって初めて「たなばたさま」が掲載された教科書は『おんがくの本 2』 (二葉図書発行)教科書番号〔204〕、使用年度は昭和25年から昭和26年の教科書です(教科書図書館の教科書目録情報データーベースによる)。


  ・小学校二年生の音楽教科書に掲載。著作者・松島彜(つね)ほか二名。
  ・詞 林柳波、曲 不明。
  ・タイトルは「たなばたさま」。歌詞は「サラサラ」「キラキラ」が片仮名。「空から」の「空」が漢字。
  ・楽譜が改訂してある。二番の「タン タタ タンウン」が「たん ざー く」と歌うように変えてあるのが気になります。
  ・♩=126、ヘ長調、四分の四拍子に変えて掲載してある。
  ・アルペジオの伴奏譜が掲載してある。
  ●二葉図書発行の教科書では、林柳波が作詞した事になっています。これはおかしい。作曲者が不明と書いてあるのもおかしなことです。なぜなら林柳波と、二葉図書発行の著作(編集)をした松島彜は、かつて国民学校芸能科音楽教科書編纂委員だったので、下總皖一が作曲者だということを知っているはずです。作曲者を不明としたのは不可解です。さらに、楽譜はだれがなぜ変えたのでしょうか。
  (註)『ウタノホン 上』国民学校初等科第一学年用(文部省)昭和十六年発行に掲載されている「オウマ」は、林柳波 作詞、松島彜 作曲です。林と松島は、親しい関係にあったと考えられます。


 <楽譜改訂の考察>
 二番の「タン タタ タンウン」が「たん ざー く」と歌うように変えてある。改訂したのは、だれでしょうか。なぜ改訂したのでしょうか。さらに、ヘ長調 四分の四拍子に改訂した楽譜について考えてみました。改訂できたのは、松島彜 下總皖一です。
  ・編集者の作曲家松島彜
  松島が改訂したとは考えられません。なぜなら、文部省唱歌「オウマ」の作曲をした時、「タンタタ タンタタ」は「ポックリ ポックリ」と、一拍を半分に割るリズムを勉強する曲として作った。その人が、「たーんざ くー」と歌うようになっていた所を、わざわざ「たん ざー く」とはしないでしょう。
  ・作曲者の下總皖一  
 作曲家は初出の楽譜を変えることはありません。成田爲三は、西條八十が「かなりや」の歌詞を変更しても、楽譜を変えることはありませんでした。しかし、中山晋平のように、どの楽譜も後日歌いやすいように何度も変えている場合もありますが。
   『一ねんせいのおんがく』(教育芸術社)昭和34年発行は、校閲 山田耕筰 下総皖一へ長調、四分の四拍子の楽譜が掲載されている。(二葉発行)と同じです。これは不思議です。(教育芸術社)では「たーんざ くー」と歌うようになっている。

  そのほか考えられる人は、教科書図書館の教科書目録情報データーベースには、著作者は「ほか二名」と書いてあります。この二名は誰でしょうか。楽譜を書き換える事ができるような重要な人物かもしれません。教科書図書館で奥付の複写をしていただきました(2014年9月17日)。すると、二名は牛山充(みつる)と一宮道子でした。
  ・牛山充
 牛山は、「浜辺の歌」で有名です。“林古渓が作った原詩「はまべ」は全四連あったが、学友会誌『音楽』の主宰者・牛山が、三連前半と四連後半をつけ改作した三連を掲載。これが東京音楽学校学生の作曲課題となった。林は、「これでは意味がとおらん」と言って、原詩は早い時期に林のもとで失われた。”これから考えると、牛山が変更してもおかしくない。
  ・一宮道子
  「あまだれぽったん」「おたまじゃくし」「つんつんつくし」などを作詞・作曲した一宮は、日本女子大学で長く教鞭をとっていた教育音楽家。楽譜の改訂はできる。
  ・作詞者と記されている林柳波
 林は、どうでしょうか。林が変えたのでしょうか。林は昭和二十四年に疎開先の小布施から帰京しています。(二葉図書株式会社)に「たなばたさま」を掲載するように言ったとします。しかし、自分が作ったものではないのに、なぜ「詞 林柳波」としたのでしょう。林は「たなばたさま」は権藤花代の作詞と承知していたはずなのに。それとも、初出(『うたのほん 下』)に作詞・作曲者名が書かれていない事をいいことに、自分の作品としたかったのでしょうか。わかりません。疑問です。「たんざく」をひとまとまりの言葉として「たんざーく」と歌う歌い方は、昔からあります。東くめ作詞・瀧廉太郎作曲の「お正月」は、「こま」をひとまとまりの言葉として「こまをー」と歌うように書いてあります。林はそれを知っていて書き直したとしてもおかしくありません。作曲者も知っていたはずですが初出にそろえて曲 不明としました。
  “自分の作品としたかったのでしょうか”という仮説は、かなり大胆かもしれません。
 この事は、後々まで不思議がられ、下總皖一が「たなばたさまの作詞者は権藤花代」とした(昭和三十四年)後も、まだ、「林柳波 作詞」としたり、わからないからと作詞者の名前の所には林柳波 権藤花代の両方を入れておけば無難という出版物も多くみられます。“「たなばたさま」を、自分の作品としたかった”としたら、林の人格が問われ、残念です。著作権意識の薄かった時代ですから、他者の作品に多少の手を入れて自作として発表してしまうことが他にもあったのでしょうか。
 林柳波には「水がめ」という美しい作品があります。坊田かずま作曲の「水がめ」参照

  【春陽堂発行の場合】
  文部省検定済教科書『あたらしいおんがく一ねん』(春陽堂発行)昭和25年発行(教科書研究センター附属教育図書館蔵書。2013年3月27日調査)。
  ・小学校一年生の音楽教科書に掲載。
  ・林柳波 作詞、下總皖一 作曲。
  ・タイトルは「たなばたさま」。歌詞は全部ひらがな。
  ・二番の歌詞は「きれいな いろがみ、」で始まっている。
  ・♩=126、ト長調、四分の二拍子。
 (註)教科書番号〔109〕の奥付の発行年は昭和25年になっているが、使用年度は昭和26年。(教科書図書館の教科書目録情報データーベースによる)。 二番の歌詞が「きれいな いろがみ、」のまま次の教科書番号〔113〕に引き継がれた。使用年度は昭和27年から昭和30年。昭和26年から昭和30年まで「きれいな いろがみ、」で歌われた事になります。
  ●教科書番号〔109〕でも、林柳波が作詞者とされています。これはおかしい。二番の歌詞は「きれいな いろがみ、」で始まっている。林が歌詞を改訂したのです。なぜ、変える必要があったのでしょう。「下總皖一 作曲、♩=126、ト長調、四分の二拍子」これらは、正しく書かれている。林は自分が作詞者であることを正当化したかったのでしょうか。ますます不可解です。


奥付
10 春陽 小音109

著作者・鳥居忠五郎、
中野義見、
小島喜久壽、
岡本敏明
   


  【林柳波 作詞の「たなばたさま」その後】
  『標準 小学生の音楽2』指導書 音楽編集部編(教育出版)昭和30年3月1日発行には、児童用書が三分の二に縮小して掲載してある。
   注目したいのは<歌詞の頁>です。

 <編集について>には、「児童用書に収録できなかった歌詞を、巻末にのせて指導の便をはかった」と書いてあります。 ⇒
   歌詞の頁「たなばたさま」林柳波 作詞。二番の歌詞は「五色の短ざく」で始まっている。林柳波作詞が正当化されてしまっている。

  <伴奏譜の掲載>
  ・林柳波 作詞、下総皖一 作曲
  ・♩=126 美しく、ト長調、四分の二拍子
  ・伴奏譜の右手は、きらきら輝く星をあらわすようなアルペジオ(分散和音の演奏法の一種)で、左手が旋律になっています。説明は次のようです。
  “伴奏は、五音音階の感じを、そこなわないように、箏のアルペジオを思わせる音群が右手にある。これは装飾であって和音としての機能は、はたしていない。なにか、それとなく思わせる程度である。”
 

                                        ▲「たなばたさま」伴奏譜

  ▼児童用教科書『標準 しょうがくせいのおんがく2』(教育出版)

  ・小学二年生の音楽教科書に掲載。
  ・タイトルは「たなばたさま」
  ・「はやしりゅうは さくし、しもふさかんいち さっきょく」と書いてあります。
  ・♩=126、ト長調、四分の二拍子 ・二番の歌詞は「ごしきのたんざく」で始まっている。
  ・子供にも弾ける簡易伴奏譜が掲載してある。


   表紙 武井武雄
   「おどる人形」



   奥付
  昭和31年5月20日発行
  (昭和29年8月20日
   文部省検定済)
 
  監修 加藤成之 
  編著者 池内友次郎 有賀正助 
  宍戸 馨 三浦 規
 
  「17 小音 243」

  定価44円
  


  【タイトルは「たなばた」?】
 昭和三十年頃に、作曲者下總皖一が「たなばた」に変更し、教科書や歌の本に使いました。
  ★タイトルを変更した理由はわかっていません。(調査中2010/08/06)

 【「たなばた」のタイトルの検証】
 文部省検定済教科書『一ねんせいのおんがく』(教育芸術社)昭和34年発行に掲載のタイトルは「たなばた」です。 タイトルの右には「うた ごんどうはなよ、きょく しもふさかんいち」と書いてあります。下總皖一が作詞者を「ごんどうはなよ」としました。
  ・校閲 山田耕筰 下総皖一。著作者・市川都志春・松本民之助・石桁真礼生。
  ・奥付 「27 教藝 小音136」昭和28年8月5日文部省検定済、昭和34年11月5日発行、昭和34年度用定価39円。(教科書研究センター附属教科書図書館所蔵 2010年3月29日調査)
  (註)『一ねんせいのおんがく』〔教芸 小音 131〕使用年度は昭和28年~昭和35年。市川都志春、ほか5名には、作詞者は「ごんどうはなよ」となっている(教科書図書館の教科書目録情報データーベースによる)。


 <楽譜を詳しく見ましょう>


 <楽譜の改訂についての考察>
  ・初出、昭和十六年三月発行の『うたのほん下』国民学校初等科第二学年用に掲載。タイトルは「たなばたさま」、「ト長調」「四分の二拍子」。
  ・『一ねんせいのおんがく』(教育芸術社)に掲載〔教科書番号136〕。 タイトルは「たなばた」、「♩=116」「ヘ長調」「四分の四拍子」に改訂したものが掲載されています。改訂して「ヘ長調」「四分の四拍子」にしたので、タイトルも初出の楽譜と区別するために「たなばた」に変更したのでしょうか? 下總皖一は、「♩=116」「ヘ長調」「四分の四拍子」の「たなばた」を正式な物として残したかったのでしょうか?
  ・しかし、二葉図書発行・教科書番号〔204〕には、すでに「ヘ長調」「四分の四拍子」に改訂したものが、掲載されていて、タイトルは「たなばたさま」なので、この考察はあてはまりません。
  ★昭和28年文部省検定済『一ねんせいのおんがく』(教育芸術社)昭和34年発行対応の教師用指導書に、タイトルを「たなばた」にした理由の何か手がかりがあるのではないか、伴奏譜はどのようなものかと思い調査しましたが、教科書研究センター附属教科書図書館では所蔵していませんでした。(2010/08/05 現在調査中)

 【昭和三十年頃発売のレコードの振付は「たなばた」】
 グラモフォン児童盤キンダーレコードS-77Aは「たなばたさま」で、S-77Bは「ほたる」一枚100円。
 曲 下総皖一/編曲指揮 真鍋理一郎/歌 落合瑶子/斉唱 ポリドール児童合唱団。作詞者名は書いてありません。歌詞カードのタイトルは「たなばたさま」一番の最後は「すなご」で、二番の最初は「五色の」。
 振付は邦千谷。タイトルは「たなばた」となっている。発売は昭和三十年代の初め頃と思われる。この貴重なレコードは、北海道在住のレコードコレクター北島治夫さんが所有されています。レコードレーベルや歌詞カードを送っていただきました。


▲S-77A 「たなばたさま」レコードレーベル

溝の細いグラモフォンのVG盤

昭和三十年代
▲「たなばた」歌詞カード 振付


 【昭和三十六年発行の絵本は「たなばた」】
 昭和三十六年発行の絵本「講談社の絵本ゴールド版 童謡画集(5)」(講談社)掲載のタイトルは「たなばた」で、楽譜は「♩=112」「ト長調」「四分の二拍子」となっています。詩 林柳波 と書いてあります。
 下總皖一は、昭和三十七年七月八日に亡くなりました。何も書き残していないのでタイトルを「たなばた」に変更した理由がわかっていません。

▲「童謡画集(5)」講談社ゴールド版/絵は鈴木寿雄。1961年7月1日刊

                                    


▲たなばた/絵は川島はるよ。「童謡画集(3)」1958年3月25日刊、講談社より



  【権藤花代 作詞の「たなばたさま」】
 同じ昭和三十六年発行でも、ポプラ社の少年少女歌唱曲全集『日本唱歌集(4)』(昭和36年7月10日発行)は、「たなばたさま」のタイトルで、文部省唱歌(権藤花代 作詞 下総皖一 作曲)と記載しています。 美しく♩=126、ト長調、四分の二拍子の楽譜が掲載されています。一番の四行目は「きんぎん すなご」。二番の一行目は「ごしきの たんざく」。
 この本の【監修】下総皖一【編集】真篠将(ましのすすむ 文部省初等中等教育局)・浜野政雄。
 奥付にはJASRACの印(日本音楽著作権協会第51884承認済)がある。


 下總皖一が亡くなり、その後「たなばた」はどうなったでしょうか?

  【昭和44年発行「教育出版」は】
 昭和42年4月10日文部省検定済 『新訂標準 おんがく1』昭和44年1月発行掲載のタイトルは「たなばた」です。
 初出と同じ「♩=126」「ト長調」「四分の二拍子」です。「林柳波 作詞 下総皖一 作曲」と書いてあります。この本は、「池内友次郎・木下保 監修」。
 タイトルは「たなばた」で、二番の歌詞は「ごしきのたんざく」です。楽譜は初出と同じです。タイトルが「たなばた」になっている理由がわかりません。
 

                             ▲『新訂標準 おんがく1』(教育出版) 昭和44年発行に掲載の「たなばた」。

 【歌碑は「たなばた」】
 埼玉県さいたま市浦和区北浦和公園内にある歌碑(昭和53年7月2日建立)は、「たなばた」になっています。歌碑の楽譜は、初出と同じ「ト長調」「四分の二拍子」です。「たなばた」になっている理由がわかりません。


 この公園は、旧制浦和高校(後の埼玉大学)のあった所で、下総皖一は、埼玉県師範学校で学び、卒業後、東京藝術大学教授時代(昭和二十年代の後半から三十年代の初め頃)に埼玉大学でも教鞭をとっていました。
 「下総皖一先生を称える碑」なので、「たなばた」のタイトルの右は、最初に「作曲 下総皖一」と書かれ、その下に「作詞 林柳波 権藤はなよ」と二人の名前が書いてあります。先に作曲者名が書いてある歌碑は珍しい。

  【昭和六十年発行「東京書籍」は】
 昭和五十四年三月三十一日文部省検定済  『改訂あたらしいおんがく1』(東京書籍)は、タイトルは初出と同じ「たなばたさま」で「ト長調」「四分の二拍子」。そして「四分音符=108」になっています。権藤花代・林柳波 作詞、下総皖一 作曲と書いてあります。この教科書は、現在三十代の子育て世代が使いました。

  【平成九年発行「教育芸術社」は】
 平成七年ニ月十五日文部省検定済  『小学生のおんがく1』(教育芸術社)は、タイトルは「たなばたさま」ですが、掲載楽譜が「四分音符=104~112」「ヘ長調」「四分の二拍子」になっています。

  【平成二十一年発行の各教科書は】
 現在の小学校一年生の音楽教科書(教育出版・教育芸術社・東京書籍)は、原曲名「たなばたさま」に戻され歌われています。現在の教科書は、全般にオリジナルを重視した作りになっているからです。
 権藤花代・林柳波 作詞、下総皖一 作曲になっています。一番二番が平仮名で掲載されていて、楽譜はありません。

  【後世に残す「たなばたさま」】
 後世に残すために編集された『日本童謡唱歌大系』Ⅰ(東京書籍)には、「たなばたさま」のタイトルで「♩=126」「ヘ長調」「四分の二拍子」の伴奏譜が掲載されています。「権藤はなよ、林柳波 詩 下総皖一 作曲」と書いてあります。
 注目したいのは、「ヘ長調」の楽譜が掲載されていることです。初出は「ト長調」でした。

 【まだあった「たなばた」の楽譜】
 私、池田小百合は、二年生の教科書対応の指導書を持っています。残念なことに表紙と奥付がなく、出版社と出版年が不明です。共通曲に「春がきた」「雪」「さくらさくら」が選ばれているので、昭和三十三年、昭和四十三年頃の教科書でしょうか。
 タイトルは「たなばた」で、「♩=126」「ト長調」「四分の四拍子」、「権藤花代 林柳波 作詞 下総皖一 作曲」と書いてあります。楽譜の最初に「4」という数字だけが書いてあります。ところが、〔指導用伴奏譜〕は「ヘ長調」「四分の四拍子」です。しかも簡易伴奏譜です。先生は「へ長調」でピアノやオルガンを弾き、子供たちは「ト長調」の楽譜を見て歌った事になります。だれも気がつかなかったのでしょうか。よく見ると、「四拍子の学習」をするための教材として掲載されていることがわかります。「四拍子の打ち方、1強 2弱 3中強 4弱」と書いてあります。

                            ▲「ト長調」「四分の四拍子」の「たなばた」

  【歌詞について】
 「のきば」=家のひさしのそば。
 「きん ぎん 砂子」=金や銀を砂のような粉にした物です。色紙や短冊などにふきつけて模様を描きます。この歌では、星が空にたくさん輝いているという事です。
 「五しきの たんざく」=「五しき(五色)」は、青・赤・黄・白・黒の五つの色。この歌では、いろいろな「たんざく(細長い紙に願い事を書きます)」が、という意味です。

  【権藤はなよ 作詞/林柳波 補作詞となっている理由】
 今までは、一番は権藤はなよ、二番は林柳波が作ったものとされていました。しかし、本当はそうではありませんでした。
 現在は「権藤はなよ 作詞/林柳波 補作詞」と表記するのが一般的です。権藤はなよの詩を柳波が手直ししたと伝えられているからです。
 横山太郎著『童謡大学 童謡へのお誘い』(自由現代社)には次のように書いてあります。
 “林柳波のご息女山田小枝子さんから「父は野口雨情とたいへん親しかった。そんな関係で雨情に師事していた権藤はなよから教科書に掲載してほしいと詩を手渡された。父はさっそく編集委員会の会議にかけたがボツになってしまった。しかし林さんが手直しするならばといわれて補作したようだ。どこをどんな風に補作したかは資料が何も残っていないのでわからない。いずれにしろ権藤はなよの詩が下敷きとなって、柳波の手が加えられたことは事実で、だから権藤はなよ作詞、林柳波補作と表示されるのが正しい」とのご指摘をいただいた。”
 この部分は、あらゆる出版物に使われています。出典を明らかにしておいてほしいと思います。
 ★“どこをどんな風に補作したかは、資料が何も残っていないのでわからない”とは、奇妙な証言です。

 【作詩の経緯】
 上笙一郎編『日本童謡事典』(東京堂出版)には、次のような事が書いてあります。執筆者は小野由紀。
 “作詩の経緯は、はなよが自作を唱歌にしたいと、教科書編集委員である柳波にこれを託し、柳波の修正ののち、今日の形となったという。はなよには『雪こんこお馬』の中に「七夕さん」という童謡があり、これが柳波修正前の原型であろう”
 この注目すべき記載について調査してみることにしました。

  【権藤はな子作「七夕さん」】
 はなよは、権藤はな子童謠集『雪こんこお馬』(凡人會)昭和七年(1932年)九月一日発行を出している。この中に「七夕さん」という童謡があり、これが小野由紀氏が元になった詩と判断しているものです。国立国会図書館所蔵(2010年7月29日に調査)
 

 


 四六判、本文150ページで、収録作品数は七十篇。「雪こんこお馬」という作品のタイトルが童謡集の書名となっている。序文を野口雨情が、後記を小島政一郎が執筆している。 童謡集『雪こんこお馬』で注目すべきページがあります。それは、楽譜が冒頭に掲載されている事です。当時の出版物としては異例のことです。藤井清水(きよみ)は、夫の権藤円立の東京音楽学校時代以来の親友。「七夕さん」は詩だけが掲載されている。

 以下は曲譜が掲載されているもの。
  ・「母さんお里」藤井清水 作曲
  ・「かごめかごめ」坊田かずま 編曲
  ・「うささんのお耳」坊田かずま 編曲
  ・「ないしょ」藤井清水 作曲

 発行所は宮崎県延岡の凡人会で、夫の権藤円立が延岡の出身で、教育家の小島政一郎とは中学時代からの親友だった。小島政一郎が教育についての独自の理念と方法を実践するために主宰していたのが凡人会だった。

 <「七夕さん」の作曲について>
 「七夕さん」は、教員仲間であった坊田かずま(作曲家)のために書いた詩で、作曲され昭和六年(1931年)コロムビアよりSPレコードとして発売された(製造番号26352-A 国立国会図書館所蔵)。レコードのタイトルは「七夕さま」になっている。
                 ▼童謡「七夕さま」  権藤はな子作詞、坊田かずま作曲、仁木他喜雄編曲
                  歌:武井富美子、日本コロムビア交響樂團伴奏  (註)武井富美子は坊田かずまの教え子。  


 坊田かずま作曲の「七夕さま」は、わらべ唄音階で作られている。下總皖一作曲の「たなばたさま」が発表された年の十年前の事です。

 「童謡の作曲家 坊田かずまの会」事務局長の坊田謙治氏から、次のような情報をいただきました(2013年9月15日)。
 「坊田かずまは、広島県安芸郡熊野町の生まれ。当時は安芸郡本庄村といった。権藤はなよの「雪こんこお馬」の作曲をしています。日本の土から生まれた、わらべ唄の採譜、その旋律を基本に童謡の作曲をしています」。教えていただき、ありがとうございました。

 【坊田かずまの略歴

  【野口雨情と林柳波と林きむ子、権藤はなよの関係】  林柳波は、夫人の舞踏家・林きむ子が野口雨情の新作童謡に振り付けをして、その写真付き解説の随筆をしていたことから雨情との面識が生まれ、雨情により童謡の世界に入った人物です。権藤はなよは、柳波の妻(きむ子)と親しかった。
  (註)雑誌『金の星』(金の星社)大正十四年二月号掲載の童謡舞踊「證城寺の狸囃」には、振付 林きむ子と書いてあります。「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の「証城寺の狸囃子」を参照してください。

 【「たなばたさま」は新たに作詞されたものだった】
 権藤花代(本名は伊藤はなよ)の血縁の伊藤まなみさんから、次のような証言をいただきました(2011年9月19日)。
 “昭和十五年に文部省からの依頼で、花代は新たに「たなばたさま」を作詞したのです。『うたのほん下』には「羽根つき」も採用され、『初等科音楽 二』には「かぞへ歌」も採用されております。文部省に出した詩に、林柳波は一字も加筆しておりませんから、補作者ではありません”。
 「たなばたさま」は「七夕さん」とは別に作詞されたもので、文部省からの依頼だったという重要な証言です。「羽根つき」も権藤花代の作詞でした(曲は四ヌキ)。なお、「かぞえ歌」の作詞者は既に「権藤はなよ」と定められています(日本音楽著作権協会資料。作曲者はPD=著作権が消滅した権利者を意味する記号ですが、曲は一般的な数え歌のメロディーです)。

 野口雨情のご子息、野口存彌氏は次のように書いていました。“権藤はなこは昭和三十六年十一月三日に永眠されたが、「たなばた」[池田(註)、正しくは「たなばたさま」だが、野口存彌氏は一貫して「たなばた」と表記している]は戦争中に小学校が国民学校に切り換えられ、新しい教科書が編纂される際、文部省からの依頼で作詞している。作曲者は下總一である。ご家族からは、第二節の三行目が「きらきら おほしさま」となっていたのを教科書の検定委員だった林柳波により現行のように「おほしさま きらきら」にあらためられたと聞いた。原作との異同はそれだけだということであり、補作という場合の一般的常識からみて問題が残るのを感じさせられるのである”(上笙一郎編『日本 童謡のあゆみ』大空社、1997)。

 <「補作」について>
 ★このように見て来ると、言葉を入れ替えただけで林柳波補作とするのは疑問です。両者の証言を検討する必要があります。


  【入れ替えの考察】
  <考察Ⅰ>権藤はなよが文部省に提出した詩は、上部が四音でそろっていた。
  一番「ささのは」「のきばに」「きらきら」「きんぎん」
  二番「ごしきの」「わたしが」「きらきら」「そらから」

        たなばたさま  詩・権藤はなよ

     一、ささのは さらさら
        のきばに ゆれる
        きらきら おほしさま
        きんぎん すなご

     二、ごしきの たんざく
        わたしが かいた
        きらきら おほしさま
        そらから みてる

  <考察Ⅱ>権藤はなよは、一番の最後を「すな」とし、「しきの」と二番が歌い出しやすいように工夫した。
  そのため、「わたしが かいた ごしきの たんざく」とすべきところを倒置法を使い、「ごしきの たんざく わたしが かいた」とした。

  <考察Ⅲ>「きらきら おほしさま」を「おほしさま きらきら」と入れ替えたアイディアは下總皖一で、作曲の時、「おーほしさーまー」と盛り上がりが生まれるようにしたかったからでしょう。入れ替えて成功しています。
  (註) 下總皖一は、『デンシャゴッコ』では、「ちん ちん」という最も人気があった重要な詞を省いて作曲している。

  <考察Ⅳ>権藤はなよの「たなばたさま」の詩に、国民学校芸能科音楽教科書編纂委員の下總皖一が作曲し、編纂委員会が許可して、『うたのほん下』国民学校初等科第二学年用(文部省)昭和十六年三月発行に掲載した。この時、編纂委員会には林柳波、下總皖一もいた。※国民学校芸能科音楽参照

  <考察Ⅴ>『うたのほん下』掲載の「たなばたさま」には作詞・作曲者の名前は書かれていない。

  【権藤はなよの略歴
  ・明治三十二年(1899年)、四月十三日、山梨県北巨摩郡穴山村(現・韮崎市穴山町)に、父・伊藤友重(ともじゅう)、母・やよの次女として生まれました。

  <名前について>
 本名は伊藤はなよ声楽家・権藤円立と結婚して権藤はなよとなる。結婚後は権藤はな子の筆名を使っていた。戦後の出版物は権藤花代という漢字名を使用したものが多い。

  ・大正八年(1919年)、山梨県師範学校(現・山梨大学)本科第一部を卒業し、母校の穴山尋常小学校に奉職した。この大正後期から昭和初期にかけては、童謡運動の全盛期でした。
  ・大正十二年(1923年)、数多くの児童雑誌が出版される中、はなよの文学への強い思いは上京を決意するに至る。妹まつよが私立の音楽学校に入学する際、はなよも文学を志して上京し、出版社に勤務した。住所は西巣鴨町729。出版社に勤めながら千葉省三と野口雨情に師事して童話や童謡詩を作る。以後、雑誌『金の星』『童話』『童話文学』『童魚』などに発表する。
  ・大正十三年(1924年)五月、野口雨情の媒酌により、宮崎県延岡出身の声楽家・権藤円立(ごんどうえんりゅう)と結婚する。結婚式は、はなよの兄の住む甲府で行われた。兄・伊藤生更(いとうせいこう)はアララギ派歌人として知られ、短歌結社「美知思波(みちしば)」を創立している。結婚後、一年余り夫の勤務地である大阪で暮らした。夫の権藤円立(えんりゅう)は、寺院(宮崎県延岡市船倉町「光勝寺」)の生まれで仏教聖歌の普及に力を注いだ。はなよは仏教童謡の作詞も多く手掛けている。
  (註) 野口雨情は、童謡「黄金虫」(中山晋平作曲)を雑誌『金の塔』(大日本佛教コドモ會) 大正十一年(1922年)七月号(第二巻第七号)に発表している。
  ・大正十四年(1925年)12月、上京して、武蔵野村(現在の武蔵野市)吉祥寺に住むことになる。住所は富士見通り1881。野口雨情の家に近かった。野口雨情は大正十三年より吉祥寺に居住し、また権藤円立と東京音楽学校(現・東京芸術大学)時代からの親友である作曲家の藤井清水(きよみ)も大正十五年には吉祥寺に転居して、三家族は親交を深めていった。権藤円立は、野口雨情が情熱を注いでいた新民謡運動の良き協力者でした。藤井清水の伴奏で権藤円立が民謡的歌曲を歌い、野口雨情が講演する、といった形式の演奏旅行は全国に及んだ。芸術教育の推進役でした。
  ・はなよは、昭和二年(1927年)から昭和八年九月まで武蔵野村第一尋常小学校(現・武蔵野市立第一小学校)に勤務した。この間の昭和七年(1932年)九月一日、女流として日本で初めての童謡詩集となる権藤はな子童謡集『雪こんこお馬』(凡人會)を上梓する。


「金の星」大正12年6月号 読者の作品より
 伊藤 華世「雉子が啼いた」

 表紙絵は「夢の國」 岡本帰一作


「金の星」大正13年1月号 傅説童話
 当選作より

 伊藤はなよ『笛吹川』

 表紙絵は「かどで」
 寺内萬治郎作


「金の星」大正14年5月号 読者の作品より
 権藤 はな代「窓」

 表紙絵は「眞晝」 寺内萬治郎作

「金の星」昭和3年3月号

 権藤 はな代
 童話『大空高く』

 表紙絵は「みんなおはひり」
 岡本帰一作


  ・昭和十年(1935年)、兄の伊藤生更が短歌雑誌『美知思波』を創刊。兄に勧められて同人となる。第一巻より、毎月、短歌を出詠。権藤はな子の筆名を用いる。昭和三十年までに詠んだ短歌は千首に及ぶ。吉祥寺、青葉小路827に転居。

  ・昭和十一年(1936年)、短歌結社「美知思波」東京支部設立。短歌会を自宅・権藤家で開催。同人の詠草に対する歌評なども執筆するようになる。
  ・昭和十五年(1940年)、文部省からの依頼を受け、「たなばたさま」を作詞、作曲は下總一。
  ・昭和十六年(1941年)、『うたのほん 下』(文部省)に「たなばたさま」と「羽根つき」が収録される。「羽根つき」の作曲は弘田龍太郎。「羽根つき」は昭和三十六年まで掲載。
  ・昭和十七年(1942年)、『初等科音楽二』(文部省)に「かぞへ歌」が収録される。「かぞへ歌」は昭和三十七年まで掲載。
  ・昭和三十四年(1959年)、『総合小学生の音楽4』(教育出版)に「ねんねんねむの木」が採用される。子守歌の教材として「子もり歌」(日本古謡)、 「ねんねんねむの木」(権藤花代作詞、山中次郎作曲)、「ねんねのお里」(中村雨紅作詞、杉山はせを作曲)と一緒に掲載されている。切り絵は藤代清治。

 
  ・昭和三十五年(1960年)、『作曲家 藤井清水』(呉市昭和地区郷土史研究会編)に収めるための追悼文「臨終前後」、「堂々めぐり」を権藤はなよの名前で執筆。(昭和37年の初版発行を待たずにはなよは他界する)。
 巻末の「藤井清水作曲年表」には権藤はな子作詞の童謡曲として「手毬」「渦巻き」「あの子とこの子」「願かけた」「雲雀の子」「日暮れ」「母さんお里」「ないしょ」「蟻の行列」「お窓」「ここまでおいで」 「狐のお祝言」「合歓の木」「わんわんちゃん」「話してる」「遠いお国」「お寺の銀杏」「お誕生日」の十八曲があげられている。
  ・昭和三十六年(1961年)十一月三日、病気により永眠。享年六十二。夫・権藤円立の生まれ故郷、宮崎県延岡市の「光勝寺」に眠る。
  (註)伊藤まなみさんが作成した「権藤花代 年譜」を参考にしました。

  【故郷に歌碑】
 平成二十五年(2013年)、権藤はなよの故郷、山梨県韮崎市穴山町内に九基の童謡詩碑が建立された。
  (1) たなばたさま (2)ないしょないしょ (3)雲雀の子 (4)願かけた (5)母さんお里 (6)露草とこおろぎ
  (7)かぞへ歌 (8)お月さん (9)雪こんこお馬

  【林柳波の略歴】 『池田小百合なっとく童謡・唱歌』の「うみ」を参照。
 ●竹内貴久雄著『唱歌・童謡100の真実』(YAMAHA)に、“林柳波は、雑誌『赤い鳥』を中心に童謡の作詞家として大正期から活動していました。”と書いてありますが、これはおかしいので調べてみました。
 まず、雑誌『赤い鳥』には林柳波の名前はありません。
 野口雨情が活躍した雑誌『金の船=金の星』の随筆者総索引にも名前はありません。
 権藤はな代は、総索引に、伊藤華世「雉子が啼いた」(投謡)大正12・6(5-6)、伊藤はなよ「笛吹川」(作)大正13・1(6-1)、権藤はな代「窓」(謡)大正14・5(7-5)、「大空高く」(作)昭和3・3(10-3)が掲載されています。
 竹内貴久雄著『唱歌・童謡100の真実』(YAMAHA)に書かれている"林柳波は、雑誌『赤い鳥』を中心に童謡の作詞家として大正期から活動していました。"は間違い。これは、『真実』ではありません。
 私、池田小百合は、この調査に沢山の時間をついやしました。林柳波は、野口雨情同様、雑誌『赤い鳥』では活動をしていませんでした。
 雑誌『コドモノクニ』(東京社)昭和10年第14巻9月号に「ぴよんぴよん兎」(弘田龍太郎 曲)が掲載されていますが、児童文学者の藤田圭雄は「ぴよんぴよんぴよんぴよんぴよんぴよんぴよん」を二回も繰り返していると、評価は低い。
 <林柳波作詞「水がめ」>
 林柳波の詩を紹介します。美しい詩です。坊田かずまが曲を付けています。坊田かずまの故郷、広島県安芸郡熊野町に歌碑が建てられました。 「水がめ」参照

  【下總皖一の読み方
 『野菊のように 下總皖一の生涯』には、「しもおさかんいち」とルビがあります。
 大利根町教育委員会編集、中島睦雄執筆『利根のほとりに エピソード 下總皖一』(大利根町)平成12年発行によると次のようです。
 “下總先生御自身は、シモフサという読み方を否定しておられ、シモオサが正しいのだということを、どこかに書いておられます。随筆の中には「先祖が下總の国から出たのでしょう・・・」と書いておられます。また、自筆楽譜に「K.SIMOSA」(シモーサとモにアクセント)とサインを入れたものがあります。やはりシモオサにこだわっておられたように思います。"

  【下總皖一の略歴
  ・明治三十一年(1898年)三月三十一日、埼玉県北埼玉郡原道村大字砂原75(現・加須市砂原)に二男として生まれる。本名は覚三。姉、兄、弟があった。
  ・明治四十三年(1910年)、12歳 三月、原道村尋常小学校卒業。
  ・明治四十五年(1912年)、14歳 三月、栗橋町尋常高等小学校卒業。四月、埼玉県師範学校(現・埼玉大学)に入学。
  ・大正六年(1917年)、19歳 三月、埼玉県師範学校本科一部を卒業。四月、東京音楽学校(現・東京藝術大学)甲種師範科に入学。
  ・大正九年(1920年)、22歳 三月、東京音楽学校甲種師範科を首席で卒業。記念奨学賞を受賞する。
 四月、新潟県岡女師範学校に赴任。
  ・大正十年(1921年)、23歳 一月、飯尾千代子と結婚。 九月、秋田県立秋田高等女学校へ転任。秋田県師範学校附属小学校にても教鞭をとる。この地で新居を構えた。
  ・大正十一年(1922年)、24歳 四月、岩手県師範学校に転任。ピアノトリオを結成し活発な演奏活動を行なった。
  ・大正十三年(1924年)、26歳 九月、栃木県師範学校に転任。千代子夫人病気がちのため伸枝と改名。下總も覚三改め、皖一を名乗る。本格的に作曲に取り組む。
  ・昭和二年(1927年)、29歳 四月、上京。居を牛込喜久井町に移す。私立成城小学校に勤務。
  ・昭和三年(1928年)、30歳 四月、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)講師、私立帝国音楽学校講師、東京府立第九中学校に勤務。
  ・昭和四年(1929年)、32歳 二月、武蔵野音楽学校講師となる。
  ・昭和六年(1931年)、33歳 四月、私立日本中学に勤務。
  ・昭和七年(1932年)、34歳 三月二十一日、文部省在外研究員として、作曲法研究のためドイツに留学、ベルリンの国立ホッホシューレに入学。パウエル・ヒンデミット教授に師事する。 ・昭和九年(1934年)、36歳 九月三日、二年の留学生活を終えて帰国。母校東京音楽学校講師となる。十二月、助教授となる。
  ・昭和十五年(1940年)、42歳 国民学校芸能科音楽教科書編纂委員となる。
  ・昭和十七年(1942年)、44歳 東京音楽学校教授になる。
  ・昭和二十年(1945年)、47歳 五月二十五日の東京大空襲で楽譜など一切を焼失する。
  ・昭和三十一年(1956年)、58歳 十月、東京藝術大学音楽学部長となる。
  ・昭和三十三年(1958年)、60歳 東京国立文化財研究所芸能部長となる。
  ・昭和三十四年(1959年)、61歳 東京藝術大学音楽学部長を辞任。教授として逝去まで同大学に在籍。
  ・昭和三十七年(1962年)七月八日、64歳 肝臓がんなどの病気で他界する。

  『たなばたさま』の他、『野菊』『蛍』『電車ごっこ』などの作曲をしました。また、「作曲法」「作曲法入門」「楽典」「和声学」などの音楽理論の著書も多く、音楽理論家、教育家としても有名です。

  【下總皖一の本の紹介】  
 

大利根町発行、
大利根町教育委員会編集、
中島睦雄執筆
▲『利根のほとりに エピソード 下總皖一』
平成12年発行 (70ページの「反響」に、
私が主宰している童謡の会が紹介され
ています。ありがとうございます)。
▲『野菊のように 下總皖一の生涯』
平成11年発行


 【小松原優氏の意見】
 大利根町教育委員会編集『利根のほとりに エピソード 下總皖一』(平成十二年三月一日 大利根町発行)執筆・中島睦雄の「たなばたさま」87ページには次のように書いてあります。
  “この歌には、いくつかのエピソードが伝わっています。作詞者が二人いることです。権藤花代という人と、林柳波というお二人です。このような短い詞に、なぜ二人の人がかかわっているのでしょうか。
 ある資料には「この二人が一節ずつ歌詞を作ったものと思われる。」と書かれています。しかし、本当はそうではない、という話を小松原優さんからお聞きしました。
 それは、権藤花代という人が「きらきら お星さま」と作った詞を、林柳波という人が、「お星さま きらきら」とした方が良い、とおっしゃって、それが現在歌われているように固定したのだ、ということです。
 歌詞の中のたった二つの言葉を入れ替えただけで、その人の名も長く記録され、人々の心の中に記録されるという、おもしろい事になったのです”。
 ところが、小松原優著『童謡のふるさと』(関東図書)1999年11月20日発行の212ページには「たなばたさま」の解説がありますが、作曲者の下總皖一の事だけが書いてあり、作詞者には全く触れていません。なぜ書かなかったのか不思議です。
 さらに、「かくれんぼ」222ページには、“作詞は林柳波、作曲は下總皖一です。林柳波は「たなばたさま」、「うみ」、「おうま」などの歌で有名な作詞家で群馬県沼田市生まれです”。と書いてあり、権藤花代の記述が全くありません。

 【「たなばた」の読み方・織女と関係】
 「七夕」は、本来「しちせき」と読みます。「たなばた」と読むのは、日本の「棚機(たなばた)つ女(め)」の言い伝えと関係があります。「棚機つ女」は、海岸に棚(たな)を作り、機(はた)を織りながら、遠くからやってくる神を迎える役目の女の人のこと。この「棚機つ女」と「織女(しょくじょ)」の言い伝えが重なり、「たなばた」と読むようになった。

  【星の伝説・織女をめぐって】
 「七夕」は、中国の星の伝説に由来します。機織りが得意な織女(織姫・おりひめ)と働き者の牛飼い・牽牛(彦星・ひこぼし)は恋におち、結婚します。結婚した二人は毎日が楽しくて、仕事をしなくなりました。織女の父である天帝は怒り、二人を天の川の両岸に引き離しました。でも、あまりに悲しむのを見かねて、七月七日だけ会う事を許したのです。

  【星に願いを・織女にあやかる】
 「七夕」は、竹の枝に願い事を書いた短冊や飾りをつけ、星をまつります。 中国では、手先の器用な織女にならって、裁縫が上手になるように祈る「乞巧奠・きこうでん」という行事があります。  日本では、平安時代の貴族は詩や音楽、江戸時代の寺子屋では習字や読み書きの上達を祈りました。

▲仙台の七夕まつり
記念切手


■神奈川県
平塚市
七夕祭り

(2012年)


  【雨や曇りで星が見えない理由】
 七月七日、七夕の日には、毎年雨や曇りで星が見えません。それには理由があります。七夕やお盆など伝統的な行事は、もともと旧暦(太陰太陽暦)にもとづいて行われていました。しかし、今は新暦(太陽暦)のカレンダーで暮らしています。
 新暦は旧暦に比べ、一ヶ月ぐらい早くなります。旧暦の日付をそのまま新暦に当てはめると、季節感が合わず、行事に必要な花や食べ物などが間に合わない事も起こります。
  七夕は新暦の七月七日だと梅雨の最中です。しかし、七月七日という日付に意味があるので、新暦の同じ日付で行います。すると、雨が降ったり曇ったりで、星が見えない事が多いのです。
 そこで、新暦の日付から一ヶ月遅らせて行事を行う「月遅れ」というやり方が考え出されました。旧暦に対応する新暦の日付は毎年変わり、一ヶ月遅らせても新暦と旧暦とは一致しませんが、季節感は近づきます。
  七月のお盆を「月遅れ」の八月にやるようになったのは、七月では、まだ農作業に忙しかったからという理由もあったようです。
  (参考文献) 関根健一著『ちびまる子ちゃんの春夏秋冬教室』(集英社)

 【七夕まつり】
  全国各地で開かれる七夕まつり。神奈川県平塚市宮城県仙台市などは、みごとな七夕飾りで有名です。平塚市は七月に、仙台市は八月に行われる。

  <湘南ひらつか七夕まつり>
 平塚市は、昭和二十年の大空襲で全市が焼け野原となる壊滅的打撃を受けました。昭和二十六年に商業振興策として第一回の七夕祭りが七月に行われ、現在に至っています。竹飾りコンクール、音楽隊パレードなどの行事があり、期間中は三百五十万人を超す観光客でにぎわいます。
 開催日程は年度により異なる。七月開催の由来は、当時は新暦による開催地がなく注目度が増加することや、飾り物が旧暦の開催地に対し譲渡できる利点がある事などを、平塚市第七・八代市長の戸川貞雄が自著で述べている。ただし、例年梅雨が明けきっていないため雨天になりがちで、観客動員上問題視する向きもある。

 <仙台七夕まつり
 仙台市は、古く仙台藩祖伊達政宗公が、婦女子文化向上のため七夕行事を奨励したともいわれ、また、江戸時代天明三年(1783年)の大飢饉の際に、世直し策として盛大に行われたともいわれています。昭和三年に不景気を吹き飛ばそうと八月六日から三日二夜にわたる七夕が復活しました。しかし、戦況が激しくなり七夕飾りは姿をけしました。
 戦後、昭和二十一年一番町通りの焼け跡に七夕飾りが復活しました。今では商店街振興から観光イベントへと変貌し、竹飾りだけでなくパレードも人気で、日本一のスケールを誇る七夕まつりとなりました。毎年全国から訪れる観光客を楽しませてくれています。


  【「夏の大三角形」を見つけよう】
 東の夜空。こと座のベガと、わし座のアルタイルが天の川を挟んで明るく光っている。ベガが織姫の織女星(しょくじょせい)。アルタイルが彦星の牽牛星(けんぎゅうせい)。ベガとアルタイル、それに、白鳥座のデネブの三つの星を結んだ三角形は、「夏の大三角形」と呼ばれる。
  (参考文献) 関根健一著『ちびまる子ちゃんの春夏秋冬教室』(集英社)

 夏の夜空を子供と見上げて、天の川や織姫・彦星を探す習慣を大切にしたいものです。みんなで「たなばたさま」の歌を歌いましょう。

 文化庁が発表した、親から子 子から孫へ『親子で歌いつごう日本の歌百選』(東京書籍)には、「たなばたさま」は選ばれていません。

 【読売新聞の扱い】
  左記の記事は、2014年7月2日(火曜日)の読売新聞 朝刊に掲載されたものです。
 “林柳波作詞 下総皖一作曲「たなばたさま」”と書いてあります。
 作詞をしたのは権藤花代ですが、権藤花代の事が書いてありません。
  歌詞の「のきば」の説明は、大変わかりやすいものですが。


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    ≪著者・池田小百合≫
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