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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№80「 “ 人間だもの ” じゃ、だめですか?」

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 釈迦の今際の言葉として伝えられる一節。
「私が今入滅を迎えるということは、悪しき病から解放されるようなものである。この(世に生を受け続ける)ことは、まさに捨てるべき罪悪のものである。仮に名づけて〔身体〕とされたものである。生・老・病・死の(苦しみの)大海に沈んでいるのである。どうして智慧ある者で、(この苦しみの)除滅することは怨賊を殺すようにして、(除滅して)歓喜しないでいることがあろうか」
 初めてこれを読んだ時からずっと続いているごく小さな違和感がある。
 それは何かというと、苦しみのもとである身体を捨て去ることがほんとうに喜びなのだろうか、ということだ。
 たしかに、“いや、釈迦は悲しみ嘆くまわりの弟子たちに対して、しかたのないことだからもう泣くのをやめなさい、という含みでそう言ったのだ”という譲歩的擁護は可能かもしれない。でもやはり、生理的肉体は諸苦の根源という言い方は、この臨終の場でなくとも何度もしているように思うし、釈迦の基本的考えのように思う。
 だから、身体の消滅=苦しみの消滅=仏教徒の喜び、という三段論法は成り立つのであって、違和感というのはそこにこそ有るのだ。よこみち【真読】№79で「宗教信仰と人命尊重という倫理観とは、決して相通ずる仲ではないのかもしれない」と述べたけれど、ここで同じ感慨に到る。
 人間の生理的機能を否定してゆくことが、仏教信仰の要件になるのだろうか。そのように考えること自体、安っぽいヒューマニズムに泥んでいる証なのだろうか。
 こんなことを考えるきっかけになったのは、本編にあった断食の理由「大小便利の不浄を禦(ふせ)ぐためにす」という一文。ここで言うところの「不浄」の産出は人間の生理機能の所産。それを拒否してしまうのは、過度の潔癖性ではないかという非難の声を呼びはしないか。
 気づいてみると、こんなふうに仏教の人間の生理に対する言い方と、人間の倫理観に対する言い方とには、少なくとも自分は別の反応をしているように思う。もしかすると同じような人はもっといるんじゃないだろうか。
 人間の心の問題に関する釈迦の言葉は素直に受け入れるのに、人間のフィジカルな問題に関する釈迦の言葉はなかなか受け入れにくい。もしかすると日本人の仏教受容における大事な問題があるのかもしれない。