BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

大島賢龍師範

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今年、11月23日。

現役にして梅花流草創期の大先達大島賢龍先生をお訪ねしてきた。

御年、91歳。奥様と仲むつまじく、かくしゃくとしたふるまい。力強いお声。「梅花流は道元禅師の信仰を弘めるために始まったんだ」という言葉が印象的。
いろいろと伺ったが、いくつか書き留めて起きたい。

※ただし、以下のことは私(佐藤)が耳で聞いて判断したことであって、ここに文章化する責任は私に帰する。大島の先生の言葉として二次利用することはご遠慮願いたい。


1)権藤圓立先生作の曲はいろいろあるが、権藤先生自身は旋揺法による歌唱をしなかった。だから梅花譜の旋揺記号による詠唱法は権藤先生の手によるものではない。
2)密厳龍からの伝承曲のうち、各種旋揺法は曹洞宗に流入されてから加えたものであって、本来の密厳流の旋揺法と同じものではない。

 

以上の二点は現在旋揺法についていまだ意見の統一をみていない梅花流にとって重要なもの。

1)は原作曲にはなかった旋揺法をくわえたことを、

2)は移入前の原曲とは違う旋揺法に変更したことを

それぞれ明かすもの。むろん、大島師範の言葉が忠実に当時の事情を反映しているかどうかは、もう少し慎重に判断しなければならない。

だが、

1)に関して言えば、権藤圓立は洋楽出身の声楽家であり、声明調の旋揺法にはあまり関心が高くなかったのではないかと思えること。加えて、自身の論文のかなで、細かな技術にこだわる梅花流詠歌の傾向を批判しているようにとれる記述のあること。

2)に関しては、密厳流詠唱の実際を聞くと、伝承曲と言われるもとの曲中の旋揺箇所が梅花流とは違うこと。加えて、密厳流で規定されている旋揺の種類と数が、梅花流のそれとは異なること。

以上の理由があり、その可能性は高いと思われる。

 

梅花の師

この位牌(写真は裏表両面)は、先日おじゃました京都西方寺様所蔵のもの。西方寺様先代の故小川義道老師が護持していたもので、裏面にその旨が記されている。
表面にある名前は、初期梅花流の大先達・大賀亮谿正伝師範。今回の静岡行でもしばしばその名を耳にした草分け的存在。

西方寺様の話によると、特派師範であり、初代詠道課長就任後、宗議となり宗政内局に参画した義道師にとって、大賀師範は終生の梅花の師であり、法幢師や嗣法の師といった法系上の関係ではないが、常に尊敬の念を抱いていた人だったという。
このお話に深く銘ずるところあった。
今日、広く梅花学習の機会を求めて各地の研修会に参加し、また複数の師範に参じている人は多く、わたしもまたその一人。しかし「梅花の講師」という立場を越えて、ひとりの「師」としてその人に随時するという家風はどれほどあるのだろうか、ということに思い至る。
ともすれば詠唱や教授法の技術の習得にかたより、「その人に参随したいという思い」は後回しになってはいなかったか。
大賀師範亡き後も、義道師はこの位牌を生前の師につかえるように仰ぎ、護持されていた姿を想像し、自分に足りなかったものを深く反省した。

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静岡行

10月20日 静岡駅到着 曇天

家康公に挨拶

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21日 初日会場

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雨の中を受講者が来てくれる。

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第二会場 中庭の拵えがなかなか

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二百三十年前の造作を極力変えずに修復を繰り返したとか。みごとな蛇腹天井。

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境内の樹木が雪国仕様じゃないね。

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藤枝のホテル前。夜明けの光。f:id:ryusen301:20141024053137j:plain

青空になってきた。

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静岡駅前の通り。朝の光。

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土日は空き日。ちょいと歩いて市立図書館まで。

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ホテルの隣は慶喜公の屋敷跡。

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駿府城公園の堀端。

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駿府城公園内から高層ビルを眺めてみる。

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駿府城公園入り口の大手門。

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建造物の残っているのはまわりだけだけどね。

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ここはちょっと思い入れのある所。

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梅花流大先達大島師範のお住まいとしている所。

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堂内は枯淡な結構。

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ありゃ、ピンぼけ。

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大島師範創意の伽藍。

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かくしゃくたる九十一歳。笑顔の奥様と。

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さてつぎ。

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どこ行っても茶畑があるなあ。

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ここは木造にこだわりの客殿だった。

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富士山の麓だったんだけど、姿は見えず。

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いい木目。

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沼津のお寺。もと千葉にあった日蓮宗寺院を買い取って組み直したのだとか。

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三島駅に日が暮れる。

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指導者講習は静岡市内。

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K師範のご厚意でコンヤ温泉郷へ。

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ひとことで言えばこんなランプのような宿。

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大野木荘だっけ。

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翌朝の山がいい。

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けっこう入ったね、山奥。

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最後の日に姿を表した富士。

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で、秋田に帰った夜にこれだし。

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色は匂へど

色は匂へど

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   湯瀬ホテルの朝 紅葉にはまだ早い

散りぬるを

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    直壇寮でお世話になった 気骨のある人だったなあ

我が世誰ぞ常ならむ

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    造り花のけなげさ、ってある

有為の奥山けふ越えて

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    一茶じゃないけど応援したくなるこの顔つき

浅き夢見じ酔ひもせず

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    とんがっているのにやはらかい

水鳥のみち その4

 3)道元の立場から


 私の考えの結論めいたことをまず記します。それは、
「中国禅の伝統において〈鳥道〉とは没蹤跡を表す常套的用語であって、道元禅師の〈水鳥のみち〉という用例もこの意味を踏まえている」ということです。そしてこの場合
「〈鳥道〉とは空行く鳥の道であることから、〈水鳥のみち〉とは水面を行き交う道のことではない」と考えています。
 以下、説明を続けます。

 「鳥道」という言葉を中国の禅録に尋ねると、そこには枚挙に暇無いほどの文例が出てきます。大正蔵経や卍続蔵経などの検索サイトを利用すればたやすくそれらを見ることが出来ますが、ここではあまりに多いので列挙しないことにします。禅語辞書類にも当然立項されていますのでその一つをあげれば次の通りです。
 
「鳥道 鳥の通い路。痕跡をとどめぬことのたとえ」(入谷義高監修『禅語辞典』)
 
 鳥道について説明する場合、中国禅僧の中でも特にこの語を自身の学人接化の重要な手段として用いたとして知られている洞山の例を見てみるのがよいと思います。
 洞山は、展手(手をさしのべる)・鳥道(鳥の道を歩く)・玄路(玄妙の路に入る)の三つを駆使しして弟子たちを導いたと言われ、後にこれは「洞山三路」という機関として広く知られ、多くの禅僧によって用いられるところなりました。洞山に関する比較的新しい研究である椎名宏雄先生の『洞山』(2010年刊)によって、「鳥道」を説明している箇所を引いてみます。

「没蹤跡という理念の具体例として、洞山は「鳥道」といういわばキーワードを掲げて修行僧を指導する。もともと「鳥道」とは、鳥ならでは通えない険路のことをいい、唐代には玄宗皇帝をはじめとして、李白や王維の詩にも詠われている言葉。ところが、洞山はこれをまったく異なった意味、-鳥の飛んだあとにの大空にはまったく何の痕跡もとどめないことから、心のあり方として没蹤跡のたとえ-とするのだ」

 宗門では「鳥飛んで鳥のごとく、魚行きて魚に似たり」という語が有名ですが、この語は道元の『正法眼蔵坐禅箴』に由来するものでした。道元は、宏智の「坐禅箴」にある、

 水清んで底に徹し、魚の行くこと遅遅たり。
 空闊くして涯り莫し、鳥の飛ぶこと杳杳たり。

 という表現を取り上げ、さらに自身で拈提した上で
 
 水清んで地に徹し、魚行て魚に似たり。
 空闊くして天に透り、鳥飛んで鳥の如し。

 という表現に展開しています。
 この『坐禅箴』をはじめ、正法眼蔵の『無情説法』『洗面』等、他の巻にも「鳥道」の用例は見えます。これらについて椎名先生も前述の著書の中で、

 洞山禅の特徴である「鳥道」の禅風は、のちに宏智正覚の「坐禅箴」、さらにこれを改訂したわが道元「坐禅箴」に承け継がれ、坐禅辨道の基本的あり方とされているのだ。特に道元にあっては、「鳥道」の言葉が『正法眼蔵坐禅箴』の巻に「徹底の行程は挙体の不行鳥道なり」とあるのをはじめ、『正法眼蔵』全巻の中にしばしば依用されている。このキーワードが、道元の修証観に大きな影響を及ぼしていることの証左であろう。

と述べています。
 以上によって、鳥道が道元にとって重要な概念であったことは確認できると思います。

 そして私はこの「鳥道」が、道元の和歌において「みずとりのみち」として展開したのではないかと思っているのです。
 前に、〈中世歌語における「水鳥」の意味〉の節で、日本における中世和歌の世界では、「水鳥のみち」という場合、水上の航跡を意味する場合が多く、渡り鳥の空行く路を指す例はあるにはあるが、さほど一般的ではないと述べました。こうした状況にあって道元の「みずとりのみち」は、その言葉自体は日本の和歌言葉と変わらぬものでありながら、その意味するところは、中国禅の伝統を継承した、没蹤跡の風光を表すものと考えられないでしょうか。
 問題の和歌が「ゆくもかえるもあとたえて されどもみちは忘れざりけり」と歌っているのは、その主題を没蹤跡と解するとき、よりふさわしいものに思えます。

 〈2)道元和歌に対する伝統的理解〉で触れたように、面山の解釈以来、連綿として「水上の往来」に理解し、現在の梅花流の歌誌解説に至っているのですが、今一度検討し直すことが必要ではないかと思います。

 ともあれ小野さんの提言をきっかけとして、卑見を述べました。諸賢のご批判を乞う次第です。

声色の奴卑と馳走す

 なにも仏教語辞書で一個づつ調べたような訳しかたをしなくてもよい。

 SNSの応答が気になって終始端末を手放せない。

 カメラ、車、女、男、酒・・、ものほしい思いに翻弄されること。

 放てば手に満る、とか言ったっけ?

 これを道得した人はいったい何を見て、何を感じたんだろうと思う。

 

般若湯 番外

ネット検索全盛でいろんな事柄が短時間でわかる現在の状況はすごいね。

昔「般若湯」を調べた頃は、

『大漢和』から『東坡志林』の引用文を引き出し、その原本に当たったり、

仏事習俗語彙集をあれこれめくって『谷響集』にたどり着き、そこから『釈氏会要』を探したりしていた。

でも今は、ネットで検索ご入力するだけでたちまちそれらにヒットする。

ガセも多いよと言われるネット情報だけど、かなり信頼度の高いものもどんどんアップされていて、ある程度の眼力さえ養っておけばかなり強力なツールになってきた。

そんなことを思って「般若湯」のあれこれを見ていたらあることに気づいた。

ネット上にみる「般若湯」関連記事を樹木の枝先に喩えてみると

そのネタ元をたどってゆく作業は、枝先から枝元へ、そして枝元から幹へそして根元へ、と探り降りてゆく作業に似ている。

そうするとその「幹」にあたるもの、つまり般若湯由緒の共通ソースみたいなものにたどりつく。それは『東坡志林』と『釈氏会要』だった。もっと言うとそれぞれを収録した『大漢和』と『谷響集』だった。もっともネット情報のうちのやや玄人っぽいものに『隠語大辞典』があってそれは明治期の編纂、これに『東坡志林』と『釈氏会要』の引用がある。それ以前の江戸期編纂の『谷響集』には『釈氏会要』があるが、よく読むとそれは『墨荘漫録』からの引用。

少しややこしくなってきたかもしれないが、何を言いたいかというと、諸説紛々のように見えるネット情報もこうしてたどるとごくごく先端の枝先がたくさんに分かれているだけで、「幹」に当たる情報は昔の成果を出るものではないということ。

この点『谷響集』などにみる昔の辞書類の博引捜索力は実に恐るべしだと思う。

じつは縁あって室町期禅林文化の華と言われる五山文学の註疏類を読むゼミに参加しているが、そこに見る禅僧たちの学識たるやまったく舌を巻く凄さがある。ネット検索や現在のように辞書類が整ったように見えるこの時代環境の中でも、かれらの知力には到底追いつけない。

そんなことをふと思い出した「般若湯」探索だった。