BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

【真読】 №146「神託、仏語多し」 巻六〈雑記部之余〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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 『神国決疑編』に曰く、伊勢の神官には仏法を避けるとす。しかれども実に避け斥(きら)うに非ず。ただ祭祀の場に臨んで屏息(へいそく・いきをおさむ)するのみ。神宮の秘記の中、内典を以て神道を解するもの多し。神、もし仏法を斥(きら)いたまはば秘記託宣の中、なんぞ一字も仏語を用いんや。今、略してその証を出す。
 ○『倭姫命世記』に曰く、「諸の法は影と像の如し、清く浄きこと仮にも穢れること無し。取説するも得るべからず。みな因(たね)従り業(このみ)を生ず」(礼懴の後夜の偈、『略出経』に出づ)。
 ○また曰く、「悉地すなわち生ず」(悉地は『大日経』に出づ)。
 ○『阿波良波命記』に曰く、「伊弉諾尊、筑紫日向の小戸橘の檍木原(あわきがはら)に到って、祓除の時、左の眼を洗い因って以て日天子を生じ、復た右の眼を洗い以て月天子を生ず」(日天子、月天子は内教の説なり)。
 ○『大田命訓伝』に曰く、「天照皇太神は大日孁貴の故に日天子と號(なづ)けしむ。虚空を以て正体となす。故に天照皇太神と曰う。また止由気(とゆけ)皇太神はすなわち月天子なり。故に金剛神と曰(もう)す。また天御中主(あめのみなかぬし)神と名づく。水徳を以て万物を利す。故に名づけて御饌都(みけつ)神と曰す。惟(これ)は諸神の福田なり」(この文の中、多くは内典の語)。
 已上は略して之に出す。曲(つぶさ)に見んと思はば『決定(ママ)編』を披(ひら)け。

よこみち【真読】 №145「不如意」

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 水道配管工の友人が言っていた。
「段取り八分。したくがばっちりだったら仕事のほとんどはできたようなもんだ」と。小規模ながらいくつかの事業経験をしてきて、その言のたしかさもうなづける。
 仕事の支度、食事の支度、旅の支度。
 では本編に掲げた桜にせかされる死出の支度はどうだろう。巷間「エンディングノート」やら「生前○○」やら終活をめぐるあれこれの話題が絶えない。そんなことを相談し、また実際に対応措置を施していたいく人かの友人・知人がつい近頃にも先立ったが、彼ら・彼女らは果たして心置きなく〈逝く〉ことができたのだろうか。遺族達の心情を聞くと、必ずしも残された人たちは「充分に」は満足していないような気もする。「段取り八分」とはこの場合にも通じる言葉だったのだろうか。もっともそのしたくをしていなければもっと後悔のあったかもしれないことを思えば、他人の立場からあまり立ち入ったことも言えない。
 「死を迎える準備」が世の中で一般的な関心を呼ぶようになるその初めの頃、あるところで出逢った「生も不如意、死も不如意」という言葉。以前にも「よこみち」で触れたことがあるが、厳然な事実として私たちの人生の前にこの言葉が在る。いま、人の誕生と臨終に人間の恣意を介入させようとするさまざまな手管が試みられている。ひとつひとつのケースを見ればそうしたい心情もわからなくはない。
 しかしそうあっていいのだろうか。
 前回の「よこみち」で触れた大規模災害で喪われた数多のいのちはそんな〈準備〉はほとんど無縁だったはずだ。加えて、それに比べればいかにもささやかだが個人的な思いもある。気管支切開し何も言えぬまま、意識混濁のうちに四十五歳で死んで行った父もまたそんな「したく」とは無縁だった。しかし今に至ってもああいう死に方はしたくないとは思ったことはない。あれもまたひとつの死。あるべき(=あって然るべき)死のひとつと受けとめている。
 「生も不如意、死も不如意」とは、「生き死に」は人間のはからいを越えた生きものの真実だと今でも思う。終活ブームのむべなるかなの念はありつつも、そうした思いがぬぐえない。

彼岸を迎える

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 戸数十件に満たない集落。少子高齢化の典型のようなそこでこの5年ほどの間に新築の家が三軒。三軒目の家の仏壇の魂入れ(開眼)をさきほど終えてきた。

「子供たちもみんなよそに所帯持ったんで私たち夫婦二人、前の家も古くなったし建てるなら今だと思ったんですよ。うちの子供たちここへ帰ってくるの好きだって言うんですよ。この集落好きだって。だから帰ってくるところなくせないと思って。私たちもべつによそへ行きたいわけでもないし前の家よりは半分になったけどこの小さい家でもいいかなって。冬の間の工事はやっぱり大変でしたね。でも雪消えると田も畑も忙しくなるし今に間に合ってよかったです。和尚さんも忙しいところどうもありがとうございました」

 明日から春彼岸。

【真読】 №145「支度(したく)」 巻六〈雑記部之余〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

 死に支度いたせいたせと桜かな 一茶

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 支度とは、本尊供養具の支具(しぐ)いかほどと度(はかり)こしらゆる意(こころ)なり。この文字の出処を繹(たづぬ)るに、『集経』十三(三十二葉)に、「荘厳道場及び供養の具支料度法」と標題せり。然れば俗に食物割烹するなどを支度と云うもこの意なり。

よこみち【真読】 №144「おまえはどうだ?」

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 与えられた定命業をまっとうせず、不慮にして夭死してしまうことを非業の死と言うなら、それは普通のことではない。それゆえに非日常的なことであり不合理なことでもあり、絶対的少数なことであるはずだ。
 しかし七年前の三月十一日に起こった出来事はその不合理なことが圧倒的多数となった。国内のニュースでは公開されなかった人体の損壊を含む現地の惨状が、海外のメディアでは放映された。しかし多くの日本人が目にすることのなかったその光景は現地の人々にとってはごく一握りのものに過ぎなかった。あの体験を乗りこえた人々がこれからの日本の礎となることを信じている。あの体験によっていのちを喪われた人々があの世からこの世の成り行きを見守っていると信じている。
 ほんの四日前まではさかんにそんな空気を煽っていたメディアは、(ごく一部を除けば)今日はすっかりおとなしくなって、いやそのことを忘れたように他のできごとをつつきまわしている。
 メディアだけではない。311に乗り遅れまいと現地へ向いていたさまざまな動きが、その日を過ぎたとたんになりをひそめてしまった。
 たまたま本編を読み進めてきてこの機会にめぐりたった「非業の死」という項目。そんなことをふり返る試金石のように用意されていたのかもしれない。

【真読】 №144「非業の死」 巻六〈雑記部之余〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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 非業の死とは夭死(ようし・わかじに)を云う。閻浮の人寿の定業に非ざれば、非業の死と云う。
 その本説を出さば、『金剛寿命陀羅尼経』に曰く、その時世尊、東方に向かって弾指し、一切の如来を招集してこの誓言をなしたまわく、「十方一切の如来、、衆生のためにゆえに菩提を証せば、みな我を助けたまえ、今我れ一切如来の威神力を以ての故に、悉く一切衆生の非命の業(非業の死なり)を転じて、寿命を増さしめん。我れ昔よりいまだ衆生のために、この法輪を転ぜしめず。今まさに転じて、よく衆生をして寿命・色力みな成就することを得て、夭死の怖れを無からしめん(乃至)一切如来寿命陀羅尼を説いて曰く(云々)」。

よこみち【真読】 №143「HAPPY BIRTHDAY」

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 子供の頃、誕生日と云えば友達を呼んでささやかな会食をしたり、親から玩具をもらって喜んだりという思い出がある。自分が子の親になってつくづく思うのだが、あれは親が子供の喜ぶ顔を見たくて行う家庭行事だったのだなとふり返っている。
 そんな俗っぽいことが仏教経典にも典拠があるということは意外なことだった。と同時に、それを意外と受けとめたということは、まだまだ自分には世俗の対極にあるものが仏教だという幻想が根強いのだなと反省した。この『真俗仏事編』を読みすすめてくるうちにしばしば経験したことは、ステレオタイプのように思っていた真(仏教)と俗(世俗)のあいだには思っていたほどの深い溝はなく、どちらも人間のいとなみとして同じ地平に根ざしていたという「気づき」だった。
 人間が考え出し、時を重ねるほどに遠い高みへとそのイメージをふくらませてきた仏教が、ほんとうは日常的、普遍的な人間の考えの内にあると云うことを、いつしか私たちは忘れていたのかもしれない。そんなことを今回もまた気づかされちゃったな。
 お誕生日おめでと。