BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

【世読】(web読書会『世説故事苑』) prologue 序文

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以前行なっていたweb読書会、新しいテキストに換えて再開します。
 今回取りあげたテキストは『世説故事苑』です。書誌を以下に示しておきましょう。
  全5巻(5冊)
  著者 子登
  出版 正徳6年(1716)
 というわけで前回の『和漢真俗仏事編』と同じ編著者・子登の作です。内容は「世説故事」という名の通り、世間に流布している事物名称の故事来歴に関するもの。前回馴染んでいた文章と同じ作者なのでほぼ違和感はないと思います。ちょこっと違うのは以下の点。
 一、必ずしも仏教に関係していない項目もたくさんある。
 『和漢真俗仏事編』は仏事に関するものでしたが、今回は雑多な題材をなんでも採りあげているもの。この点、仏教研究者にはなんの関係もないものもあり、一方それぞれの好事家には興味しんしんのものもあり、ということをお断りしておきます。

 テキストは国文学研究資料館でweb公開しているものを使うことにします。今日現在、ネット検索すると複数の公開画像がヒットしますが、不特定多数の人がご覧になるであろうこの読書会のスタンスからして、ある程度公的性格のネタ元の方がよいと考えました。

 読書会のスタイルは『和漢真俗仏事編』の時と同様にします。まず【世読】と題して『世説故事苑』の本文と該当部分の訓読を掲げます。その際原文が確認できる画像アドレスを示しておきます(これが国文学研究資料館のものになります)。その後に「よこみち」と題して、本文に関わるエッセイを掲げます。エッセイは管理人の自由な発想で展開しますので、下世話な話題に終始する場合もあり、ちょっとだけ専門的めいた話題に触れることもあるかもしれません。この二つを本文の叙述に沿ってくり返しアップいくというものです。ご覧いただいたみなさんは。それぞれ自由な立場からお好きに突っ込んでいただければけっこうです。更新のペースなどまったく決めておりません。気まぐれな管理人ですので、その点はどうぞお許し下さい。
 そして始める前に大事なことを一つお断りします。
 じつは『世説故事苑』の読書会は今回webで行なう以前に、管理人とリアルな仲間で行なっています。ですから訓読部分については、管理人だけが読解したものではなく、リアル読書会参加者全員の手によっているものです。そのメンバーの名前を以下にあげておきましょう。大佐賀正信、佐々木賢龍、佐藤宗明、佐藤善廣、佐藤美由起、滝沢信、松橋睦子、渡邊紫山、と管理人の9名です。ご紹介ついでにこのリアル読書会は月例一回の開催で、毎回各担当者が訓読レジメを作成し、それをもとにみなで読み合わせるというスタイルのものです。初巻から始めてあと二~三回で全巻読了できる見込みです。
 
 それでは最初の訓読として序文から読んでまいりましょう。
 
【世読】(web読書会『世説故事苑』) prologue 序文

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0364-002402&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E4%B8%96%E8%AA%AC%E6%95%85%E4%BA%8B%E8%8B%91%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=4

 貧道が居、嘗て大聚楽に接せり。このゆえに雨晨、月夕に茶を以てあい簪(あつま)る者は、多くは素客なり。炉に椅(よっ)て団座し、壁に靠(よっ)て雑話す。動(ややも)すれば輙(すなわ)ち、率爾(そつじ)として疑を発して問うことはみ咸(みな)俗事なり。
 余、これがために答えるに必ず典拠を以てす。間(まま)試みに左右に命じてこれを記せしむ。積みて軸となり、名づけて『世説故事苑』という。
 古(いにしえ)にいわく、「善く問いを持つ者は、鐘を撞くがごとし。これを叩くに小を以てすれば小(すこ)しき鳴り、これを叩くに大を以てすれば大いに鳴る」と。冀(こいねがわ)くは、後の覧(み)ん者、その俚語を解くを以てその鄙拙を嘲(あざけ)ることなかれ。
  宝永七庚寅(1710)の秋
  世説故事苑の首(はじめ)に書す
  浪花生玉沙門子登

〈最終回〉よこみち【真読】№146「やっぱり仏?」

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 本編の編著者・子登とは密教系修験者じゃないだろうかと以前に目星をつけていた。修験者はまた仏教-神道の双方にわたるほぼオールマイティな教養を持っている。で、この人の場合は、神道よりは仏教の方に、仏教の中では密教に、より肩入れが強い。今回の項目もそのことがよくわかる一項だ。
 じつはこの項目、『和漢真俗仏事編』の最終項目でもある。「真俗仏事」という幅広いジャンルにあって、硬軟とり混ぜて展開してきたシメが「神道の用語だって仏教語がたくさんあるぞ」という話だというのもおもしろい。

 さて今回をもって【真読】こと【web読書会『和漢真俗仏事編』】のおしまいとなる。
 2015年2月に始めて以来三年を超えたわけだが、こんな試みにおつきあいいただいたみなさまに心から感謝したい。どうも長い間ありがとうございました。
 本編の『和漢真俗仏事編』はざっと200余の項目があるのだけど、その中からあまりに専門的な展開をしているものを除いて、私自身の関心から146項目を取りあげ、それぞれにずいぶんと勝手なエッセイを寄せてきた。本編の性格や著作者にして編者の子登についてはすでにいろんな角度から取りあげてきたので、ここに到ってはあれこれ言わずにおこう。かなりのベストセラーにしてロングセラーの書物にしては、意外なほど取りあげられることの少なかった本である。さしたる深読みはできなかったものの、ひとわたり読み終えて、正直なところなんとなく満足している。もしもなんかの役に立つのであれば、リンクかけてある元blogの中では検索自由なので、興味ある方は気楽にのぞいていただければいい。
 【真読】はこれで終わりとなるが、fbの【仏事習俗アラカルト】の方はこのまま続けるので、今まで同様、いろんな情報交換の場としてお使いいただければありがたい。じつはまたもや【web読書会】をもくろんでいるのだが、新しいテキストについては近々ご紹介したい。と言っても根が気まぐれな不精者なので近々とはいつ頃になるのかお約束できない。ではそのうちに。

【真読】 №146「神託、仏語多し」 巻六〈雑記部之余〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号61

 『神国決疑編』に曰く、伊勢の神官には仏法を避けるとす。しかれども実に避け斥(きら)うに非ず。ただ祭祀の場に臨んで屏息(へいそく・いきをおさむ)するのみ。神宮の秘記の中、内典を以て神道を解するもの多し。神、もし仏法を斥(きら)いたまはば秘記託宣の中、なんぞ一字も仏語を用いんや。今、略してその証を出す。
 ○『倭姫命世記』に曰く、「諸の法は影と像の如し、清く浄きこと仮にも穢れること無し。取説するも得るべからず。みな因(たね)従り業(このみ)を生ず」(礼懴の後夜の偈、『略出経』に出づ)。
 ○また曰く、「悉地すなわち生ず」(悉地は『大日経』に出づ)。
 ○『阿波良波命記』に曰く、「伊弉諾尊、筑紫日向の小戸橘の檍木原(あわきがはら)に到って、祓除の時、左の眼を洗い因って以て日天子を生じ、復た右の眼を洗い以て月天子を生ず」(日天子、月天子は内教の説なり)。
 ○『大田命訓伝』に曰く、「天照皇太神は大日孁貴の故に日天子と號(なづ)けしむ。虚空を以て正体となす。故に天照皇太神と曰う。また止由気(とゆけ)皇太神はすなわち月天子なり。故に金剛神と曰(もう)す。また天御中主(あめのみなかぬし)神と名づく。水徳を以て万物を利す。故に名づけて御饌都(みけつ)神と曰す。惟(これ)は諸神の福田なり」(この文の中、多くは内典の語)。
 已上は略して之に出す。曲(つぶさ)に見んと思はば『決定(ママ)編』を披(ひら)け。

よこみち【真読】 №145「不如意」

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 水道配管工の友人が言っていた。
「段取り八分。したくがばっちりだったら仕事のほとんどはできたようなもんだ」と。小規模ながらいくつかの事業経験をしてきて、その言のたしかさもうなづける。
 仕事の支度、食事の支度、旅の支度。
 では本編に掲げた桜にせかされる死出の支度はどうだろう。巷間「エンディングノート」やら「生前○○」やら終活をめぐるあれこれの話題が絶えない。そんなことを相談し、また実際に対応措置を施していたいく人かの友人・知人がつい近頃にも先立ったが、彼ら・彼女らは果たして心置きなく〈逝く〉ことができたのだろうか。遺族達の心情を聞くと、必ずしも残された人たちは「充分に」は満足していないような気もする。「段取り八分」とはこの場合にも通じる言葉だったのだろうか。もっともそのしたくをしていなければもっと後悔のあったかもしれないことを思えば、他人の立場からあまり立ち入ったことも言えない。
 「死を迎える準備」が世の中で一般的な関心を呼ぶようになるその初めの頃、あるところで出逢った「生も不如意、死も不如意」という言葉。以前にも「よこみち」で触れたことがあるが、厳然な事実として私たちの人生の前にこの言葉が在る。いま、人の誕生と臨終に人間の恣意を介入させようとするさまざまな手管が試みられている。ひとつひとつのケースを見ればそうしたい心情もわからなくはない。
 しかしそうあっていいのだろうか。
 前回の「よこみち」で触れた大規模災害で喪われた数多のいのちはそんな〈準備〉はほとんど無縁だったはずだ。加えて、それに比べればいかにもささやかだが個人的な思いもある。気管支切開し何も言えぬまま、意識混濁のうちに四十五歳で死んで行った父もまたそんな「したく」とは無縁だった。しかし今に至ってもああいう死に方はしたくないとは思ったことはない。あれもまたひとつの死。あるべき(=あって然るべき)死のひとつと受けとめている。
 「生も不如意、死も不如意」とは、「生き死に」は人間のはからいを越えた生きものの真実だと今でも思う。終活ブームのむべなるかなの念はありつつも、そうした思いがぬぐえない。

彼岸を迎える

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 戸数十件に満たない集落。少子高齢化の典型のようなそこでこの5年ほどの間に新築の家が三軒。三軒目の家の仏壇の魂入れ(開眼)をさきほど終えてきた。

「子供たちもみんなよそに所帯持ったんで私たち夫婦二人、前の家も古くなったし建てるなら今だと思ったんですよ。うちの子供たちここへ帰ってくるの好きだって言うんですよ。この集落好きだって。だから帰ってくるところなくせないと思って。私たちもべつによそへ行きたいわけでもないし前の家よりは半分になったけどこの小さい家でもいいかなって。冬の間の工事はやっぱり大変でしたね。でも雪消えると田も畑も忙しくなるし今に間に合ってよかったです。和尚さんも忙しいところどうもありがとうございました」

 明日から春彼岸。

【真読】 №145「支度(したく)」 巻六〈雑記部之余〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

 死に支度いたせいたせと桜かな 一茶

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テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号61

 支度とは、本尊供養具の支具(しぐ)いかほどと度(はかり)こしらゆる意(こころ)なり。この文字の出処を繹(たづぬ)るに、『集経』十三(三十二葉)に、「荘厳道場及び供養の具支料度法」と標題せり。然れば俗に食物割烹するなどを支度と云うもこの意なり。

よこみち【真読】 №144「おまえはどうだ?」

「見抜く」の画像検索結果

 与えられた定命業をまっとうせず、不慮にして夭死してしまうことを非業の死と言うなら、それは普通のことではない。それゆえに非日常的なことであり不合理なことでもあり、絶対的少数なことであるはずだ。
 しかし七年前の三月十一日に起こった出来事はその不合理なことが圧倒的多数となった。国内のニュースでは公開されなかった人体の損壊を含む現地の惨状が、海外のメディアでは放映された。しかし多くの日本人が目にすることのなかったその光景は現地の人々にとってはごく一握りのものに過ぎなかった。あの体験を乗りこえた人々がこれからの日本の礎となることを信じている。あの体験によっていのちを喪われた人々があの世からこの世の成り行きを見守っていると信じている。
 ほんの四日前まではさかんにそんな空気を煽っていたメディアは、(ごく一部を除けば)今日はすっかりおとなしくなって、いやそのことを忘れたように他のできごとをつつきまわしている。
 メディアだけではない。311に乗り遅れまいと現地へ向いていたさまざまな動きが、その日を過ぎたとたんになりをひそめてしまった。
 たまたま本編を読み進めてきてこの機会にめぐりたった「非業の死」という項目。そんなことをふり返る試金石のように用意されていたのかもしれない。