BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】 №11 「イエ」と「カマド」

 竈神といえば、台所のカマドの神さまということだが、より広義には「家の神」という性格がよく当てはまるように思う。

 事実、そのように指摘している研究者もあるのでこの考えは私のオリジナルでも何でもないのだが、民俗学畑で言われている以上に「イエ」と「カマド」は重なるのじゃないかと思っている。

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 竈神についての代表的な業績、飯島吉晴『竈神と厠神』(1986刊)の第1章「竈神の象徴性-生と死の媒介者」は、次のように始まる。

 日本語の「イエ」という言葉には複雑な意味があり、他の言語に容易に翻訳できない。竹田聴洲は、「イエ」には、建物(住宅)としての家、家族・家庭としての家、家風・家柄・家筋といった超世代的な永続性を持った家の、三つの意味があるとしている。だが、これら三つを統合する基本的な問題として、「イエ」が自然とは別の、人間が作り出したもの(文化)であるとが考えられねばならない。「イエ」は、自然から切り取られた区別されるべき空間なのである。

 このように竹田の分類にちくりと釘さしした上で、飯島は「イエ」の概念を表と裏の二つに分類し、竈神と厠神を裏側に属するという自説を展開するのだが、さしあたりここでの話に飯島の持論は深く関わらない。むしろ竹田の分類をちょっと抑えておきたい。
 たびたび私の郷里の方言の話になって恐縮だけど、じつは方言の持つローカル性は、時としてずうっと時間をさかのぼり、古き日本人の世界観や人間観を伝えてくれる場合がある、と思っている。で、いまのすなわち「竈神」の件がそれ。
 では事例のご紹介(以下は何れも今日でも使用されている例だ)

 a「親父ももう歳だし、おめもはやぐ嫁ッコもらってカマドたでねばねど」
 b「おらえのカマドは、祖先の代がらみんな貧乏してもウソつがね、正直で通してきたもんだ」
 お察しいただけると思うが、aは「家庭・家族」を、bは「家風・家柄・家筋」を意味している。

 さらに竹田の分類には見えないが、同様に「イエ」を意味する用例もある。

 c「そんた博打みたいなことやれば今にカマドけすど」
 ここの「けす」は「ひっくり覆(かえ)す」の意味で、つまり家財産を無くしてしまう、破産するということを言う。カマドは、家産をも意味するのである。

 「カマドもつ」「カマド大きくする」「貧乏カマド」etc. 

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  (画像は『農具便利論』より「かまど」)
 さてもう一度検証。方言の持つローカル性は、ときに時間なオリジナル性となるという件である。
 「かまど」の語彙を、台所の煮炊きするもの、という以外にさらってみよう。
1)家財。「家かまどなくして、たよりなからんひと」『宇津保物語』
2)生活の単位としての家。独立して家庭生活をする一家。「その郡司が孫なむ伝えて、今にその糸奉るかまどにては有るなる」『今昔物語』
3)身代をつぶす、破産する。「わしはきじゃくで床につき身代どうも立てかね、すでにかまどをやぶるところ」浄瑠璃『心中刃は氷の朔日』

 と、こうみてくるとこの見解、ほぼ当を得たものと言えないだろうか。
 で、本編をふり返ると、竈神の奉祀が影響するのは、その「イエ」の禍福であった。つまり「台所の神さま」という場所限定的な神さまではなく、包括的「イエ」に関わる神さまだということになる。
 うむ、秋田弁バンザイ! という結論じゃまずいか。