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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

梅花考

法具の密教的意義について その4

「金剛和讃」の密教的解釈については「その3」で紹介した通りである。さらに詳しい解説に及ぶことは、他宗・他流の奥義に触れることにもなるので、このような半公開的な性格を帯びたWEB上では控えておきたい。金剛界曼荼羅及び成身会については図像を利用し…

法具の密教的意義について その3

曽我部自身による「金剛和讃」の解説もあるがいささか頁数が多い、ここではやや時代を下るが、曽我部の解説趣旨を踏襲しているものとして、以下の「金剛和讃解説」(『高野山金剛流詠歌和讃の解説』高野山布教研究所編集、昭和63年初版、平成元年第三版)を…

法具の密教的意義について その2

金剛流流祖 曽我部俊雄師像 「金剛和讃」の作者・曽我部俊雄師は、金剛流御詠歌の音符・楽理(音楽的理論)・所作・指導原理の大成者と評される人で、「金剛和讃」が発表された昭和四年九月には金剛流詠監職に就任し、後には「金剛流流祖」の称号を得ている…

法具の密教的意義について その1

法具の意味づけについては、これまでしばしば問われることのあったものの、梅花流ではそれを解説するものがなかった。それは真言宗所伝の御詠歌をもとに曹洞宗梅花流が発足した際、あえて採用しなかったのではないかと考えている。そのため今日の梅花流布教…

元政廟に詣る

たのもしなあまねきのりの光には 人の心の闇も残らじ 年来の願いであった京都深草の瑞光寺。このたび初めてお参りすることがかなった。ちょうど同じ用事で訪京していた友人Sさん夫妻とご一緒だった。 日蓮宗、元政庵瑞光寺。 思いのほか静かな住宅街にある…

「長岡昭臣」師を訪ねて

10月26日。長井駅前・和泉屋の一室で目覚めた朝、窓から青空がのぞく。昨日過ごした東京の空気よりも温かい山形県長井市。今回の引き合わせをしてくれた同市の小野卓也さんが宿に迎えに来てくれた。 小野さんの車でほど近い真言宗・摂取院に着く。豊山派に属…

吉祥寺の権藤圓立(5)妻・はなよ「ささのはさらさら」

吉祥寺時代の権藤圓立の足跡をたどろうというこの試み。およその土地勘を把握したあとは圓立の動向に踏み込んでいこうと思うのだが、その前に一つ触れておきたいことがある。圓立の妻、はなよのことである。 はなよは明治32年に山梨に生まれ、大正13年に圓立…

吉祥寺の権藤圓立(4)圓立邸跡

童心居のある動物園から、吉祥寺通りを左へ。そのまま北に向かう。ほどなく吉祥寺駅を右に見て、立体交差になっているJR中央線の下をくぐる。権藤、野口、藤井の三人がいた頃からこの線路はあったのだろうか。だとすればまだ架橋にはなっていなかったろう…

吉祥寺の権藤圓立(3)旧野口雨情書斎・童心居

吉祥寺時代の権藤について関心を持った経緯は上述の通りだが、はたして漠然と吉祥寺の街に行ったとしてもどのようにその足取りを探ればよいのか。数年前まではその方途を考えあぐねていた。だがこれまで資料やフィールドなどいくつかの手がかりを訊ねてきた…

吉祥寺の権藤圓立(2)梅花流と圓立

箱根・小涌園 第二の曹洞宗梅花流との関わりについては既刊の梅花関係資料に周知のところだが、あらためてそれに関する情報を整理しておこう。 現行『梅花流指導必携・解説編(資料)』(以下、必携資料)(平成25年5月発行・改訂第4版)の「梅花流年表」に…

吉祥寺の権藤圓立(1)駒澤大学と圓立

なにかに急かされるようにその場所へ行きたくなったり、誰かに逢いたくなったりすることがある。今回もその一つだった。 宮崎県延岡市の光勝寺を訪れてからまだ二週間を経ていない。12月10日、東京は武蔵野の吉祥寺を訪ねた。権藤圓立の足跡をたどってみたい…

延岡の権藤圓立 (5)圓立と延岡

権藤円立が野口雨情の招きにしたがって居を大阪から東京の吉祥寺に移すのが大正14年。その翌年には藤井清水も二人の近所へ転居している。だから 「延岡の権藤圓立(4)凡人会」で示した、延岡での講演・演奏活動は、大阪から東京へと移ってもなお続いていた…

延岡の権藤圓立 (4)凡人会

光勝寺境内に建つ「権藤正行師立像」。 現在の宮崎県立延岡高等学校は、旧制の延岡中学校、同じく旧制延岡高等女学校を併合して今のかたちとなる。旧制延岡中学校は、明治初期、延岡藩主・内藤氏によって創設された延岡社學に端を発し、後、亮天舎と名を改め…

延岡の権藤圓立 (3)長兄、権藤正行

権藤圓海の長男・正行師(以下敬称略)。圓立よりも十歳年長のこの長兄の存在が、音楽家として成長した圓立にとっても重要な存在であったと思う。その理由を述べる前に、まず正行その人の輪郭をたしかめておこう。 (権藤正行師写真・光勝寺広間) 昭和47年…

延岡の権藤圓立 (2)父、権藤圓海 

圓立の父・権藤圓海について、現在79歳、圓海の曾孫に当たる権藤正樹師は、 「たいへん厳しい人で、また漢文がよく出来たそうですよ。私の祖父。正行(圓立の長兄)が子供の頃から漢文の勉強を教えて、毎朝学校へ行く前にその勉強が終わらなければ学校へやら…

延岡の権藤圓立 (1)浄土真宗・小林山光勝寺

権藤圓立(1891~1968。文中の人名は原則として敬称略)は延岡市船倉町・光勝寺十代住職、権藤圓海の五男として生まれる。 光勝寺は山号を小林山という。 当寺十二代住職。正樹師がまとめた文章に依れば次のように紹介してある。 小林山光勝寺は、本願寺第十…

延岡の権藤圓立 (序)川のある街 

宮崎県延岡市。 五ヶ瀬川と大瀬川がゆっくり河口へ向かう。その二つの川つに挟まれた市の中心街が冬の朝陽を浴びてゆく。 延岡の友人が昨夜案内してくれたBAR KOBE。 私と同い年だという女性オーナーの作ってくれた3杯のカクテルが思ったよりも残っている。…

正法日本建設運動 - 戦後曹洞宗教団の布教教化方針について(5・終)

このように昭和二十八年も、正法日本建設運動は、曹洞宗教団の宗是のように展開しているのでした。同年三月号の『宗報』(第二一五号)では佐々木宗務総長が「正法日本建設運動の強化に就て」と題して、その運動方針を再び強調し、加えて同年八月号では、高…

正法日本建設運動 - 戦後曹洞宗教団の布教教化方針について(4)

曹洞宗行政の首長たる佐々木宗務総長の方針は、当時、曹洞宗教団を支えるそれぞれの分野のトップにも支持されたようです。たとえば次の例は昭和二十七年九月に発せられた曹洞宗管長のものです。 教諭 茲に吾が曹洞宗に於いて正法日本建設教化運動を展開する…

二年目の「葛黒火まつりかまくら」

昨年の再開が15年ぶり。数々の心配もどうにかやりくりし無事の復活が成った。 思いもよらぬ晴天に恵まれた昨年。今年はどうかと心配する声をよそに、まつり当日の朝は雲の切れ間に青空がのぞいていた。幸先はよい。 葛黒集落、現在は二十数戸。 竜ヶ森を水源…

正法日本建設運動 - 戦後曹洞宗教団の布教教化方針について(3)

※(2)につづく。 けれども佐々木内局において、宗門の教化方針の中で詠歌和讃の活動を推進しようとしていたことは確かめることが出来ます。それは次の『曹洞宗報』昭和二十七年五月号の「第六十九次曹洞宗通常宗会議事速記録」中の総長演説に見えます。 宗…

正法日本建設運動 - 戦後曹洞宗教団の布教教化方針について(2)

(1)に続く 『曹洞宗報』昭和二十七年五月号に掲載の「告諭」と、宗務総長・佐々木泰翁による「平和条約の発効」という文章を次に挙げます。 告諭 国民待望の平和条約は其の効力を生じ、茲に吾が日本がその主権を回復して独立するに至りしは、衲の頗る欣快…

大賀亮谿師範 その4 「梅花日録」

梅花流の草創期を、時間を追って知ろうとすると、今のところ『梅花流指導必携・解説編』の資料編「梅花年表」が唯一のものかも知れない。その製作にあたっては大島賢龍師範も資料提供したと云うことで、貴重な情報ではあるが、今少し詳しい事情を知りたいと…

正法日本建設運動 - 戦後曹洞宗教団の布教教化方針について(1)

このところ曹洞宗梅花流について、特にその草創期周辺に関する文章をいく度か挙げている。 この作業まだしばらく続くのだけれども、その時代を考える時、ぜひとも理解しておかなければならないことがある。それが昭和27年に開始される曹洞宗における「正法日…

大賀亮谿師範 その3

かねて梅花流草創期の人物を一人ずつ、そのライフヒストリーを追ってみたいと思っていた。その人がどのような生い立ちの中で梅花と出会い、どのように学び、そしてそれをまわりに発していったのか。「梅花流の誕生」を探ることを課題としているものにとって…

大賀亮谿師範 その2

大賀亮谿(渓の字を用いている場合もある)師が静岡県・見性寺の五世であることは「その1」で述べた。生卒年は明治32年~昭和35年。後席を嗣いで六世となったのは実子である大賀渓生師。生卒年は昭和4年~平成26年、世寿85歳。じつは私が静岡県第一宗務所を…

大賀亮谿師範 その1

梅花流師範先達のお一人に大賀亮谿師範(静岡県・見性寺五世)がいる。 『必携』の年表などにその名前は見え、丹羽佛庵老師を筆頭に曹洞宗詠讃歌活動胎動期の一翼を担った人として伝えられている。 しかしその人と業績についてはほとんど知られていない。 た…

丹羽佛鑑師と洞慶院の梅園

先日洞慶院へおじゃました際に、「丹羽佛鑑師」という小冊子をコピーさせていただいた。佛庵師の先師。佛庵師を考える手がかりがあるだろうかと読んでみた。佛庵師への言及はなかったが、この中に洞慶院梅園の由来が記されていた。 その冊子は、『教の友』第…

洞慶院にて

臘八のさなか、静岡・洞慶院を訪れた。 快晴の富士、寒気さえも好ましい朝。 初めてここを訪れたのは30年以上前。二十歳前後のこと。東京別院の学寮で一緒だったスリランカの友人がここの前堂頭・丹羽簾芳師の弟子。彼の法戦式に随喜したのがその時だった。…

尼僧 小島賢道師

「梅花流誕生」の背景を考えている。 先般、新宿区観音庵の東堂・笹川亮宣師にお会いした折、師がこのように言われていたのが気になっていた。「私は当時、尼僧団の書記をしていたのですが、尼僧団の小島賢道さんから“あなた行ってきなさい”と言われて、先輩…

笹川亮宣師範

東新宿の駅から住宅街の小路を歩く。 塙保己一の眠る墓があるという観音庵。 逢いたかった女性がそこにいる。 笹川亮宣師範。大正13年生まれ。御年91歳。梅花流正伝師範。 昭和26年、野村秀明師、熊倉実参師とともに、曹洞宗尼僧3名が、密厳流詠歌修学のため…

舞曲 修証義の歌

昭和24年4月1日に、「曹洞宗社会部」(曹洞宗宗務庁の前身)より発表されたもの。 原曲は現在の修証義御和讃とは違う。 梅花流発足以前の曹洞宗詠讃歌の一例。

尼僧団団歌

〈FBの過去記事に埋もれそうなのでこっちにあげておこう〉 雑誌『大乗禅』昭和25年3月号の記事です。曹洞宗尼僧団の団歌が完成発表となりました。赤松月船師の作詞です。梅花流発足以前に〈赤松師-歌-尼僧〉の関係を示すものとして気になりました。梅…

大島賢龍師範

今年、11月23日。 現役にして梅花流草創期の大先達大島賢龍先生をお訪ねしてきた。 御年、91歳。奥様と仲むつまじく、かくしゃくとしたふるまい。力強いお声。「梅花流は道元禅師の信仰を弘めるために始まったんだ」という言葉が印象的。いろいろと伺ったが…

梅花の師

この位牌(写真は裏表両面)は、先日おじゃました京都西方寺様所蔵のもの。西方寺様先代の故小川義道老師が護持していたもので、裏面にその旨が記されている。表面にある名前は、初期梅花流の大先達・大賀亮谿正伝師範。今回の静岡行でもしばしばその名を耳…

静岡行

10月20日 静岡駅到着 曇天 家康公に挨拶 21日 初日会場 雨の中を受講者が来てくれる。 第二会場 中庭の拵えがなかなか 二百三十年前の造作を極力変えずに修復を繰り返したとか。みごとな蛇腹天井。 境内の樹木が雪国仕様じゃないね。 藤枝のホテル前。夜明け…

水鳥のみち その4

3)道元の立場から 私の考えの結論めいたことをまず記します。それは、「中国禅の伝統において〈鳥道〉とは没蹤跡を表す常套的用語であって、道元禅師の〈水鳥のみち〉という用例もこの意味を踏まえている」ということです。そしてこの場合「〈鳥道〉とは空…

権藤圓立「聴覚による布教の仕方」(12・最終回)

⊿ ⊿ ⊿ 以下、本文 ⊿ ⊿ ⊿ 駒澤大学の和讃、詠歌 昨今大学生の間に長唄、謡曲、義太夫、花道、茶道に精進するものが多くなったことが、たびたび新聞で報ぜられた。このことについては、私はいろいろ考えさせられていた折柄、駒沢大学で学生自らの発願によって…

権藤圓立「聴覚による布教の仕方」(11)

⊿ ⊿ ⊿ 次回で最終回です。以下、本文 ⊿ ⊿ ⊿ 春秋二季の彼岸法要 博善社では、春秋二季の彼岸には寺院方を招待して同社関係の火葬場でもすべての火葬者の供養法要が各火葬場廻り持ちで営まれる。その法要は、社員全員の「朝礼勤行」によって始められ、次に寺…

権藤圓立「聴覚による布教の仕方」(10)

⊿ ⊿ ⊿ 以下、本文 ⊿ ⊿ ⊿ 火葬場の場合 今の東京博善会社の社長中山理々さんが、戦前専務理事であった時、火葬場の従業者達のための歌唱唱和を立案されたのには、私は敬服した。歌唱のテキスト「心のうた」が次々と作られるやら、オルガンを各火葬場に備え付…

権藤圓立「聴覚による布教の仕方」(9)

https://www.youtube.com/watch?v=ANOgrw4SdCk ⊿ ⊿ ⊿ 以下、本文 ⊿ ⊿ ⊿ 電話局の場合 伝道館の小林主事さんの懇望で墨田電話局に歌唱指導を始めたのは昭和7、8年頃と思う。これは小林さんが毎月精神講話をやって居る、その時間を折半してやったものであった。…

権藤圓立「聴覚による布教の仕方」(8)

⊿ ⊿ ⊿ 以下、本文 ⊿ ⊿ ⊿ 仏教青年伝道館の場合 ここでの仕事は、たしか昭和6年から数年続いた。左の一文は東本願寺の施誌「十方」の昭和25年6月号に書いたものである。 木魚に歌う 花祭りが盛んに行われるように努力された安藤嶺丸先生の発願によって建立さ…

権藤圓立「聴覚による布教の仕方」(7)

⊿ ⊿ ⊿ 以下、本文 ⊿ ⊿ ⊿ 川越少年刑務所の場合 巣鴨刑務所での歌唱指導がきっかけとなって、各刑務所へ行くようになった。 中でも川越少年刑務所には、毎週一回行った。ここでは所長始め所員皆出席して、収容者と一緒になって唱和した。名は刑務所であっても…

権藤圓立「聴覚による布教の仕方」(6)

⊿ ⊿ ⊿ 以下、本文 ⊿ ⊿ ⊿ “うつし世”について 私の幼少の頃、郷里(宮崎県延岡市)で私の母達が先に立ち仏教婦人会を組織していた。この会は、毎月一回真宗の寺で集会した。その頃真宗の寺は四ヶ寺あったので廻り持ちに集会したものであった。集会の時は、そ…

権藤圓立「聴覚による布教の仕方」(5)

今回の引用箇所にある「巣鴨刑務所」、第二次大戦後にはGHQによって接収されて、「スガモプリズン」と言われたところです。その当時は戦争犯罪人の一時収容施設であり、さらには極東国際軍事裁判により死刑判決を受けた東條英機ら7名の死刑が執行(昭和23年1…

権藤圓立「聴覚による布教の仕方」(4)

今回の引用箇所にある「仏教音楽会」は、正式には〈仏教音楽協会〉と謂い、昭和2年(1927)7月にその創設について協議が行われ、翌昭和3年(1928)1月に「仏教音楽ノ大成及普及ヲ図ル」ことを筆頭の目的に掲げ設立されました。会長・四條隆愛、理事長・中島…

権藤圓立「聴覚による布教の仕方」(3)

今回の引用は「声」と「音楽」に関するものです。 はじめの方に見える「ダミ声」の例はなかなかおもしろいと思いました。 また軍隊生活のことに触れていますが、権藤師は、大正4年(1915)に東京音楽学校を卒業後、山梨県師範学校に勤め、次いで兵役に従事し…

権藤圓立「聴覚による布教の仕方」(2)

今回の引用箇所にある〈梵讃・漢讃・和讃〉という説明の仕方は、早い頃に梅花流の複数の先生達から講習の際にお聞きしていたことでした。こうしてみると、この理解は権藤師が端緒になっていたかもしれないという気がします。 真宗大谷派のご寺院出身である権…

権藤圓立「聴覚による布教の仕方」(1)

梅花流詠讃歌を参究するために、それぞれの歌意を解説するものは少なくありません。けれども詠唱・詠讃という、いわゆる「うた」そのものについて説得的に説いている資料はまださほどに多くないように見受けられます。 そのような中で、『三宝御和讃』をはじ…

権藤圓立「聴覚による布教の仕方」『布教指導叢書第9輯・立体布教』(昭和28(195312)刊行。本文末の識語は昭和28年(1953)12月1日脱稿)曹洞宗宗務庁教学局

本布教指導叢書第の刊行は、昭和27年の佐々木泰翁宗務総長を筆頭とする曹洞宗内局の先導によって開始された「正法日本建設運動」の一環としての布教施策の一つと思われる。民衆布教の理念的かつ具体的展開を多くの執筆者が述べている。 権藤はこの頃「三宝御…