BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

梅花考

「声もよし節もよしとて高ぶるな」

「声もよし節もよしとて高ぶるなまごころなきは下手とこそ知れ」。 梅花流を学ぶ人であれば一度はこの歌を耳にし、あるいは目にしたことがあるだろう。詠唱の技巧や恵まれた声音の資質に奢ることなく、至心かつ謙虚に信仰のお唱えとして勤めよ、という梅花流…

高田道見と赤松月船 1

楢崎一光「第八 二十六世高田道見大和尚」『瑞応寺の今昔』仏国山瑞應寺 (第二十六世竹内方丈の)後任として迎えられたのが、高田道見方丈で、明治38年5月21日の晋山開堂でありました。高田方丈は当時四十八歳。すでに東京において大変な教化活動をしておら…

久我尚寛 「報謝御和讃」解説

私がこの御和讃を作詞しましたのは、先年山形県の余目に梅花流県奉詠大会があったとき、水島師範と共に審査員としてご招待を受け、藤島町法眼寺(百瀬師範の御自坊)に拝宿したときのことであります。 百瀬夫人と御同行の石黒夫人とが交々ご接待に出られて、…

高田道見と赤松月船

『跳龍』昭和51年4月号「心の花は咲きそろう」「三宝御和讃解説(上)」赤松月船 (前略)この三宝御和讃は、高田道見老師のお作をもととして、専門委員会の方々が手をつくして、補正の上、こういう形に完成したものであります。 今から六十年前、三宝唱歌と…

法具の密教的意義について その4

「金剛和讃」の密教的解釈については「その3」で紹介した通りである。さらに詳しい解説に及ぶことは、他宗・他流の奥義に触れることにもなるので、このような半公開的な性格を帯びたWEB上では控えておきたい。金剛界曼荼羅及び成身会については図像を利用し…

法具の密教的意義について その3

曽我部自身による「金剛和讃」の解説もあるがいささか頁数が多い、ここではやや時代を下るが、曽我部の解説趣旨を踏襲しているものとして、以下の「金剛和讃解説」(『高野山金剛流詠歌和讃の解説』高野山布教研究所編集、昭和63年初版、平成元年第三版)を…

法具の密教的意義について その2

金剛流流祖 曽我部俊雄師像 「金剛和讃」の作者・曽我部俊雄師は、金剛流御詠歌の音符・楽理(音楽的理論)・所作・指導原理の大成者と評される人で、「金剛和讃」が発表された昭和四年九月には金剛流詠監職に就任し、後には「金剛流流祖」の称号を得ている…

法具の密教的意義について その1

法具の意味づけについては、これまでしばしば問われることのあったものの、梅花流ではそれを解説するものがなかった。それは真言宗所伝の御詠歌をもとに曹洞宗梅花流が発足した際、あえて採用しなかったのではないかと考えている。そのため今日の梅花流布教…

元政廟に詣る

たのもしなあまねきのりの光には 人の心の闇も残らじ 年来の願いであった京都深草の瑞光寺。このたび初めてお参りすることがかなった。ちょうど同じ用事で訪京していた友人Sさん夫妻とご一緒だった。 日蓮宗、元政庵瑞光寺。 思いのほか静かな住宅街にある…

「長岡昭臣」師を訪ねて

10月26日。長井駅前・和泉屋の一室で目覚めた朝、窓から青空がのぞく。昨日過ごした東京の空気よりも温かい山形県長井市。今回の引き合わせをしてくれた同市の小野卓也さんが宿に迎えに来てくれた。 小野さんの車でほど近い真言宗・摂取院に着く。豊山派に属…

吉祥寺の権藤圓立(5)妻・はなよ「ささのはさらさら」

吉祥寺時代の権藤圓立の足跡をたどろうというこの試み。およその土地勘を把握したあとは圓立の動向に踏み込んでいこうと思うのだが、その前に一つ触れておきたいことがある。圓立の妻、はなよのことである。 はなよは明治32年に山梨に生まれ、大正13年に圓立…

吉祥寺の権藤圓立(4)圓立邸跡

童心居のある動物園から、吉祥寺通りを左へ。そのまま北に向かう。ほどなく吉祥寺駅を右に見て、立体交差になっているJR中央線の下をくぐる。権藤、野口、藤井の三人がいた頃からこの線路はあったのだろうか。だとすればまだ架橋にはなっていなかったろう…

吉祥寺の権藤圓立(3)旧野口雨情書斎・童心居

吉祥寺時代の権藤について関心を持った経緯は上述の通りだが、はたして漠然と吉祥寺の街に行ったとしてもどのようにその足取りを探ればよいのか。数年前まではその方途を考えあぐねていた。だがこれまで資料やフィールドなどいくつかの手がかりを訊ねてきた…

吉祥寺の権藤圓立(2)梅花流と圓立

箱根・小涌園 第二の曹洞宗梅花流との関わりについては既刊の梅花関係資料に周知のところだが、あらためてそれに関する情報を整理しておこう。 現行『梅花流指導必携・解説編(資料)』(以下、必携資料)(平成25年5月発行・改訂第4版)の「梅花流年表」に…

吉祥寺の権藤圓立(1)駒澤大学と圓立

なにかに急かされるようにその場所へ行きたくなったり、誰かに逢いたくなったりすることがある。今回もその一つだった。 宮崎県延岡市の光勝寺を訪れてからまだ二週間を経ていない。12月10日、東京は武蔵野の吉祥寺を訪ねた。権藤圓立の足跡をたどってみたい…

延岡の権藤圓立 (5)圓立と延岡

権藤円立が野口雨情の招きにしたがって居を大阪から東京の吉祥寺に移すのが大正14年。その翌年には藤井清水も二人の近所へ転居している。だから 「延岡の権藤圓立(4)凡人会」で示した、延岡での講演・演奏活動は、大阪から東京へと移ってもなお続いていた…

延岡の権藤圓立 (4)凡人会

光勝寺境内に建つ「権藤正行師立像」。 現在の宮崎県立延岡高等学校は、旧制の延岡中学校、同じく旧制延岡高等女学校を併合して今のかたちとなる。旧制延岡中学校は、明治初期、延岡藩主・内藤氏によって創設された延岡社學に端を発し、後、亮天舎と名を改め…

延岡の権藤圓立 (3)長兄、権藤正行

権藤圓海の長男・正行師(以下敬称略)。圓立よりも十歳年長のこの長兄の存在が、音楽家として成長した圓立にとっても重要な存在であったと思う。その理由を述べる前に、まず正行その人の輪郭をたしかめておこう。 (権藤正行師写真・光勝寺広間) 昭和47年…

延岡の権藤圓立 (2)父、権藤圓海 

圓立の父・権藤圓海について、現在79歳、圓海の曾孫に当たる権藤正樹師は、 「たいへん厳しい人で、また漢文がよく出来たそうですよ。私の祖父。正行(圓立の長兄)が子供の頃から漢文の勉強を教えて、毎朝学校へ行く前にその勉強が終わらなければ学校へやら…

延岡の権藤圓立 (1)浄土真宗・小林山光勝寺

権藤圓立(1891~1968。文中の人名は原則として敬称略)は延岡市船倉町・光勝寺十代住職、権藤圓海の五男として生まれる。 光勝寺は山号を小林山という。 当寺十二代住職。正樹師がまとめた文章に依れば次のように紹介してある。 小林山光勝寺は、本願寺第十…

延岡の権藤圓立 (序)川のある街 

宮崎県延岡市。 五ヶ瀬川と大瀬川がゆっくり河口へ向かう。その二つの川つに挟まれた市の中心街が冬の朝陽を浴びてゆく。 延岡の友人が昨夜案内してくれたBAR KOBE。 私と同い年だという女性オーナーの作ってくれた3杯のカクテルが思ったよりも残っている。…

正法日本建設運動 - 戦後曹洞宗教団の布教教化方針について(5・終)

このように昭和二十八年も、正法日本建設運動は、曹洞宗教団の宗是のように展開しているのでした。同年三月号の『宗報』(第二一五号)では佐々木宗務総長が「正法日本建設運動の強化に就て」と題して、その運動方針を再び強調し、加えて同年八月号では、高…

正法日本建設運動 - 戦後曹洞宗教団の布教教化方針について(4)

曹洞宗行政の首長たる佐々木宗務総長の方針は、当時、曹洞宗教団を支えるそれぞれの分野のトップにも支持されたようです。たとえば次の例は昭和二十七年九月に発せられた曹洞宗管長のものです。 教諭 茲に吾が曹洞宗に於いて正法日本建設教化運動を展開する…

二年目の「葛黒火まつりかまくら」

昨年の再開が15年ぶり。数々の心配もどうにかやりくりし無事の復活が成った。 思いもよらぬ晴天に恵まれた昨年。今年はどうかと心配する声をよそに、まつり当日の朝は雲の切れ間に青空がのぞいていた。幸先はよい。 葛黒集落、現在は二十数戸。 竜ヶ森を水源…

正法日本建設運動 - 戦後曹洞宗教団の布教教化方針について(3)

※(2)につづく。 けれども佐々木内局において、宗門の教化方針の中で詠歌和讃の活動を推進しようとしていたことは確かめることが出来ます。それは次の『曹洞宗報』昭和二十七年五月号の「第六十九次曹洞宗通常宗会議事速記録」中の総長演説に見えます。 宗…

正法日本建設運動 - 戦後曹洞宗教団の布教教化方針について(2)

(1)に続く 『曹洞宗報』昭和二十七年五月号に掲載の「告諭」と、宗務総長・佐々木泰翁による「平和条約の発効」という文章を次に挙げます。 告諭 国民待望の平和条約は其の効力を生じ、茲に吾が日本がその主権を回復して独立するに至りしは、衲の頗る欣快…

大賀亮谿師範 その4 「梅花日録」

梅花流の草創期を、時間を追って知ろうとすると、今のところ『梅花流指導必携・解説編』の資料編「梅花年表」が唯一のものかも知れない。その製作にあたっては大島賢龍師範も資料提供したと云うことで、貴重な情報ではあるが、今少し詳しい事情を知りたいと…

正法日本建設運動 - 戦後曹洞宗教団の布教教化方針について(1)

このところ曹洞宗梅花流について、特にその草創期周辺に関する文章をいく度か挙げている。 この作業まだしばらく続くのだけれども、その時代を考える時、ぜひとも理解しておかなければならないことがある。それが昭和27年に開始される曹洞宗における「正法日…

大賀亮谿師範 その3

かねて梅花流草創期の人物を一人ずつ、そのライフヒストリーを追ってみたいと思っていた。その人がどのような生い立ちの中で梅花と出会い、どのように学び、そしてそれをまわりに発していったのか。「梅花流の誕生」を探ることを課題としているものにとって…

大賀亮谿師範 その2

大賀亮谿(渓の字を用いている場合もある)師が静岡県・見性寺の五世であることは「その1」で述べた。生卒年は明治32年~昭和35年。後席を嗣いで六世となったのは実子である大賀渓生師。生卒年は昭和4年~平成26年、世寿85歳。じつは私が静岡県第一宗務所を…