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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】 №21 「陰膳から仏膳へ」

 「なぜ死者に食物を供えるのか」とは、多くの人が抱く疑問だと思う。

 試しにこの手の話題を扱ったサイトを検索してみる。するとずいぶんミョーなことを言っているところに出くわした。おそらく名のあるりっぱな研究家の先生だろうからここではそのサイトアドレスやブログ名は伏せておく。でも一方的な言いがかりみたいになっても失礼なので、「ミョーな」ということについて少し触れておく。
 たとえば「死者が満たされない状態にあるが故に、死体に触れる者や葬儀に関わるもの、その親族などはあらかじめ酒や食物を口に入れ「満たされた状態」にすることで「死のケガレ」を回避する目的があると考えられてい」ると言う。
 う~ん、この手のハレケ論というのは、三十年くらい前に流行った民俗学や宗教人類学がクロスオーバーに生死や穢れの問題を扱った頃に創出された理論を下敷きにしたやつで、その頃は新味があったけど、今になって、しかもその亜流の考えを振り回されると、私などはヘキエキしてしまう。
 だいたい広範な民俗事象の比較分析から、慎重に導き出された民俗心意に対する仮説は、それ自体脆くて暫定的なものだという自覚が分析する側にあってこそ価値があるので、たまたま2~3個の事例をきれいに説明できたくらいの新奇な理論が一人歩きして、まだ充分に検証もしていない他の事例までをその理論に当てはめて説明するなどもってのほかだと思うのだ。
 一つ別の例を挙げれば、「アラミタマからニギミタマへ」という死者の霊魂のおとなしくなっていく次第を、宗教儀礼による霊の供養を説明する際に説く民俗理論があるけど、それはあくまでも研究する側の視線だと言うことを踏まえなきゃいけないと思う。あるところで、そんな民俗学の知見を聞きかじったらしいお坊さんが、檀信徒へ向けてのお説教の中で得意げにこれをしゃべっているのを聞いたことがある。やめなよちょっと。遺族にとってかくも慕わしい故人を「荒ぶる魂」にしちゃってどうすんの。
 ごく個人的なことだけど、私その当時、ハレケ論の旗頭の一人でもあったとある民俗学の先生と、そうした状況に造詣の深かった宗教人類学の先生、この二人のゼミの落ちこぼれゼミ員であったので、その辺で研究活動していた諸先輩(いまはもうそれぞれいろんな大学の先生になっている人がほとんどだけど)のようすもうかがえる立ち位置にあった。だからそうした理論的モデルと、実際の現場の事例というものとの間に、それなりの径庭があるということも踏まえているつもりなんだ。
 と、のっけからプンプンモードで失礼しました。
 何が言いたいかというと、私はそうした考えに賛成しません、というだけなんですけどね(笑)。

 じゃ初めに戻って「なぜ死者に食物を供えるのか」という問題だけど、私はもっと人間の自然な心情にそって考えるべきだと思う。
 仏教儀礼の由来もそれぞれだけど、こと死者に対する供養儀礼については、人々の心情にそぐわないような無味乾燥の理由付けでは一般に膾炙しないのではないだろうか。ただたんにベタベタ寄り添っていればよいというのでは決してないけれど。
 けれどもそんな「人々の心情」を逆手に取る困った来歴も時には説かれる。それは「それをやらないとひどい目にあうぞ!」という恫喝。すなわち「祟りの論理」だ。いったいよその国からなんだかわからない神さまを連れてきて、「この神さまをちゃんと祀らないととんでもない祟りに遇うぞ!」というほどムチャクチャなことはない。なんのことはない、仏教の日本伝来当初はそんな「蕃神(あだしくにのかみ)」の教義を押しつける異国の宗教だった。
 このあたりは手塚治虫がていねいに描いていた。

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 なかなか本題に近づかなくてすいません。もうすぐです。
 言いたいのは、人々の心意を離れた机上の観念的モデルでもだめだと思うし、一方、人々の心情を脅しつけてねじ伏せようとする言い方でもだめじゃないかと思うのだ。
 この点において、今回の本編の所説はあまり好きになれない。「もし飲食を献ぜざれば、諸天等の外護なきがゆえに、その人、魔障に著かれて精気無く、悪想起こって行法成就せず」というのは、ぶっちゃけて言えば「食べ物お供えしないとよくないことになるよ」というわけで、これは「祟りの論理」につながるものだと思う。
 くどいほど「人々の心情」と言っているけど、今回の話題に限れば「死者を思うこころ」という方が直接的かもしれない。そして本題の「死者に食物を供える」こころというのは、ごく素直に言って、そんなところから生まれてくるのじゃないかというのが私の考えだ。
 不在者のために供える食物膳、これを「陰(蔭)膳」という。遠洋漁業、出兵、旅行、不在の理由はそれぞれだが、その人の無事の帰宅、旅中の無事を願って、供えられる。さらには帰宅する可能性がきわめて小さい場合、たとえば遭難事故にあって行方不明の場合など、陰膳を供える人の心はいっそう切なるものがあるだろう。こうした心情に、小理屈も祟りも不要だということは多くの人にわかってもらえると思う。陰膳を供える人に対して、「不在者のためにどうしてそんな無意味なことをするのか」と聞く人は少ないだろう。
 この「陰膳」習俗(※それは膳という整ったものではなくとも、不在のものに対して食べ物を供えるという習俗一般を含むものと考えて)の延長上に、死者に供える「霊膳」習俗が生まれたと見る方がずっと自然ではないかと私は思う。それが長期化され、定式化されてゆくに随って「仏膳」の意味合いがふくらんできたのではないだろうか。当初の「心情」の中には含まれていなかった教義的意味づけ、その一例が、たとえば本編の語るところであるというように思う。
 この問題、それぞれお考えのこともあるだろう。どうぞ突っ込んできて下さい。