BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】 №138「仏教儀礼の執物」

 執物(とりもの)。神道儀礼ではよく知られた名前。
 たとえば『神道辞典』は、
「採物
 神楽などの神事芸能で舞人が手に持って舞う物。執物、取物とも記す。あるいは神事・舞に用いる用具を清めるための舞において、舞人が手にする物を採物ということがある。採物には本来、神の依代としての機能があり、神力が発動すると考えられている。また、採物に降臨した神を舞人自身にとり憑かせ、神がかりに至るための手段として用いることもある。平安時代に成立した宮廷の内侍所御神楽は、各種の歌を歌うことを主体とした神楽であるが、降神神事に関するはじめの部分では採物の歌を歌う。歌の種類には榊、幣(みてぐら)、杖、篠(ささ)、弓、剣(つるぎ)、鉾(ほこ)、杓(ひさご)、葛(かずら)の九種がある」と、
 またこの九種神楽歌について『日本民俗学辞典』は、
「この神楽歌は、一、採物(神おろし)、二、前張(さいはり)(神あそび)、三、星(神あがり)という構成となっていて、このことから採物は神おろしあるいは神迎えの道具とされたと考えられる」と指摘し、さらに
折口信夫の「上世日本の文学」によれば、採物は霊魂をゆり動かすことで、その霊魂を身につける道具へと用途を広げたものという。採物は神霊の降臨を願うもので、これを持つことで神が宿るとされ、神の依代としての機能をもつ。そこから神事に起源をもつとされる諸芸能において、主役を務めたり、指揮の役のものが手に携えるものを採物と呼んだ。またそれを持つ者にも神の依代としての性格を付与する。一方これを手にして振ることで、神霊を発動させる祭具・呪物としての機能も同時に内包している」と説明している。
 
 このように神道の採物の解釈を見ると、それは神との交流を軸に説明されているもので、すなわち宗教学的な立場からなされていることがわかる。
 一方、仏教儀礼においても儀礼執行者が手にする道具はさまざまある。たとえば禅宗関係のものを『禅林象器箋』から拾ってみると、竹篦、禅杖、数珠、錫杖、拄杖、拂子、如意、そして本編の扇など種々にわたる。そしてこれらについての説明を見ると、その由緒来歴、造作の具体、仏典内での用例、儀礼中の用い方など、それなりの解き方がなされるのだけど、神道の採物のような「神の依代」的な記述にはほぼ出逢うことがない。
 仏教の用具なのだから「神の」などという説明があろうわけはない、との批判もあるだろうか。その場合は「神」という表現を「超常的力」「非日常的力」などと言い換えて考えてみてもらいたい。
 たとえば竹篦の場合。
 首座法戦(しゅそほっせん)式という法会がある。法幢師に代わり、一座の説法を託された首座和尚が、師から竹篦を譲り受け、法戦に臨み、無事に訪問を終えると竹篦を師へ返す。この竹篦と一時的に付与されるとき、首座には一時的に師家としての器量が具わる。そして竹篦の返却とともにその器量もまた身から離れる。この一場面などは、一介の修行僧に「超常的力」が発言されるきわめて象徴的な場面だと言えるだろう。
 また拂子の場合でも同様。
 たとえば葬儀引導の場合、拂子を振るうことによって導師は獅子の威をその身に帯し、冥界の死者をして成仏に向かわしめる力を発現する。
 このように仏教の場合でも「採物」的な解釈は十分に可能なものと思うが、なぜそうした例が少ないのだろう。

 思うに、仏教渡来以前から存在したと言われる神道儀礼は、折口信夫等を契機とする近代的な知によって新たに発見されたのであって、その近代的な知とは、多分に民俗学的・宗教的なものであって、伝統的な神道教説とは別のアングルからの視点を提供するものであった。
 一方、仏教儀礼の場合は、伝統的な仏教教説による説明の体積がうずたかく、その立場が正当とされ、容易に民俗学・宗教学的知見を持ち込みにく状態だった。それゆえにそうした視点から解釈しようとするものは、仏教学の傍流として、仏教民俗学などのレッテルを貼られてきた。
 とそんな印象をもっているのだがどんなものだろう。
 だが事実、仏教儀礼における諸道具・器物を考えるには。上述の「依代」的観点が有用だと私は思う。仏教者にしても神道者にしても、同じ日本人であるのだから、この国土の宗教性をベースに考え直してみることも必要だと思う。