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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】 №33 「燈燭は手で扇いで消してもだめだったの!?」

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 今回の本編、その内容にびっくりされた人も多かったのではないだろうか。
 ロウソクの明かりを消す時に「口で吹いてはいけない」とは、ちまたでもよく耳にする。だから息で吹き消さないで、手でぱふっと扇いで消すことが多いと思う。中には消灯用の小型うちわを用意しているところもある。
 だが、本編の云うところは「口で吹き消しても、手で扇いでもダメ」というのである。寺院業界のみなさんもこれには驚かれたようで、二,三の方からそんなコメントが寄せられた。実際、私もこれ読むまでは知らなかったことで、その本拠にいぶかしさを抱いたりもしたのだった。
 そこで今回の「よこみち」は、よこ逸れ感ほとんど無しの直球勝負。『真俗』が言うところの本意はいずこにあるのか、探ってみることにした。

 本編がこの所説の典拠としているのは『僧祇律』。これは『摩訶僧祇律』のことで、中国の東晋代に訳出されたもので、ほぼインド原典の完訳と言われている由緒正しきもの。全四十巻から成るが、その第三十五巻に求める箇所がある。念のために大正新修大蔵経の第二十二巻・512~513頁が該当箇所なので、この後の私の紹介文が間違っていないかどうか、明眼の方々は点検していただければありがたい。
 さて、問題の箇所は次のような場面で登場する。

 仏(釈迦)が舎衞城に住まいしていた時、一緒に修行暮らしをしていた諸々の弟子たちが暗闇の中を禅坊に入って地面に転んでしまった。
 そこで弟子たちは釈迦の所へ行ってこのことを報告すると、釈迦は「今日からは燃燈(灯りをともすこと)を許しましょう」とおっしゃった。
 すると、弟子たちの中でも札付きの六人の悪たれ比丘(六群比丘)が、よしきたとばかり早速に灯りをともしたり、口で吹き消したり、手で扇ぎ消したり、衣扇(衣の袖ということか、あるいは扇様のものか)で消したり、またはしたない行ないを放逸にして(この箇所原典では「放下風」とあるものの試訳です。正確な意味はわかりません)、他の多くの弟子たちの心をかき乱した。
 そこで弟子たちは、またこのことを釈迦に告げると、釈迦はこう言われた。
 「今より以後、〈燃燈の法〉をまさにこのようにいたしなさい。まず、・・・」とうように、〈燃燈の法〉のきまりが、釈迦によって弟子たちに伝えられたのだ。
 このように大小の決まり(律)の成立は、なんらかの具体的事態が出来した時に、それへの対応措置として釈迦が制定し、以後それが釈迦僧団の修行生活の規律と成ってゆくのが一般的である。

 〈燃燈〉してゆく次第は、「頓に燃燈するを得ず、まさに火を一辺に置きて、漸次にこれをともすべし」と注意が喚起され、舎利、および形像前の燈を先にともし、次いで厠屋中、坐禅の時は禅坊中、またそれぞれの経行所、閣道頭へ、とこれまた具体的指示である。

 ついで今度は〈燈滅〉いわば消灯のきまりである。読み下しからいこう。
 「禅坊中の燈を滅せん時は、卒に滅するを得ず。まさに言うべし“諸大徳、褥を敷きぬ。燈を滅せんと欲す”と。すなわち手をもって遮りて唱えて言く、“燈滅せんと欲す、燈滅せんと欲す”と。口をもって吹滅し、手扇にて滅し、および衣扇にて滅するをゆるさず。まさに敧折頭燋(きしゃくずしょう)にて去るべし」とある。

 やや詳しく意味をたどっていこう。
 「燈を滅せん時は、卒に滅するを得ず」とある。「卒」は「にわか」と訓んだらいいだろうか。動作の性急なさまのことをいう。そういえば道元も『普勧坐禅儀』の中に、坐禅が終わって起ち上がる時には「卒暴なるべからず」と言葉を添えている。燈明を消す時は、急ならず、ぞんざいにせずていねいに行うということだろう。
 このあとのセリフ。「みなさん、お布団の用意はいいですね、灯りを消しますよ」というのだ。そして「手をもって遮りて唱えて言く」とあるのは、もう寝ている人もあるかも知れないから、声が大きく広がることなく、ひっそりと聞こえるよう口を覆ってということではないだろうか。「消灯しますよ、明かりを消しますよ」と言うのだという。こうした場面に、和合衆による、共同生活する上でのこまやかな配慮が感じられる。
 そして口で息を吹きかけず、手や扇で扇ぐことをせずに、「敧折頭燋」とはあまり聴き慣れないが、二つに折りたたんだ燋のはしっこだそうである。燋とは火のついていないロウソクのことだそうで、つまりは、灯芯を挟んで折って火を消すということだろう。『真俗』が「まさに箸を操(とっ)て炷を摂すべし」と言っていたのはこれの別表現だったと思う。

 『摩訶僧祇律』〈燃燈法〉の本文は、この後、夜中にまた起きて燃燈する時の作法が述べられ(〈燃燈〉の作法に準じている)ている。
 終わりにこの段の結びとして、「然燈の法、まさにかくのごとくすべきし。かくのごとくせざらんには越威儀法なり」と述べている。(※越威儀法とは規則違反と言うくらいに取意してよいと思う)

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 以上が今回のよこみち作業の大概だ。
 こうした来由、一般には(寺院業界も含めて)あまり伝わっていない。

 別に私は、だからといって手で扇ぐのは非法だと非難がましく言うつもりはない。『摩訶僧祇律』〈燃燈法〉の主旨は、消灯の所作が性急ならずていねいであれ、ということなわけでその点をご確認いただければよいと思う。現行でも、芯バサミのような消灯具はないわけではないし、芯炎にフタをする形式のロウソク火消しはそれなりに流通しているので、あれをもって「敧折頭燋」の代用と考えてよいと思う。

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 ただ今回の問題で気をつけたいことがあるので、これを最後に述べておこう。
 きっと、ここまで読んで下さった方の中の何人かは、ロウソクの消し方についてネット検索を試みた方がいると思う。

 で、もしかすると以下のような答えを見かけなかっただろうか。
 いわく「息で吹き消すと相手に息がかかりますね、人に息を吹きかけることをあなたは無礼だとはおもいませんか?」
 いわく「口から吐き出す息を仏様の知恵と慈悲の象徴である蝋燭や線香を消すために吹きかけることはもってのほか」
 いわく「口で吹き消すのではなく、手で仰いで消すようにします。人間の口はとかく悪行を積みやすく穢れやすいものなので仏に供えた火を消すには向かない」
 いずれも代表的な検索エンジンでヒットする解説例である。しかし、その本拠がどこにあるのか私は知らない。なんとなくもっともらしい、あるいは聞こえのよい解答であるかも知れない。しかし私が思うには〈こしらえごと〉ではないだろうか。

 時と場合によると、こうした解説がいつしか本説としてのポジションに居座ることもある。なによりも周囲に「うける」ことが生き残る第一条件だという人までいる。そうした言い分を聞くと私などは暗澹たる気持ちになるのだが。

 せめてつましく、今回のような「忘れられた故事来歴」を掘り起こしてゆくことにつとめていこう。