よこみち【真読】№70「さとりの機縁」
この「よこみち」のオチ、托鉢とはなんの関係もないところに行ってしまうのだけど、〈禅のさとりに〉関わるきわめて大事な内容。やや遠回りになるがしばらくおつきあいいただきたい。
今回の本編、『毘奈耶雑事』の話はわかりやすい。釈迦が弟子たちとの集団生活をして行く上で、いろんな不都合に出逢いながら次第に規律を整え、約束事をまとめて行く過程でがよく伝わる話である。この種のことはまだまだ数多くある。だが「按ずるに」以下のことは、もとの話を知らなければ伝わりにくいと思う。
そこで先ず典拠として示されている『金湯編』の「無尽居士伝」を見てみよう。
『金湯編』とは明代にまとまられた全16巻の書で『仏法金湯編』(1602刊)という。釈迦誕生以来、仏教に帰依あるいは、仏教を外護してきた帝王・宰官・名儒等の伝をまとめたものだ。このうち第十三巻に無尽居士こと張商英(1043-1121、北宋代の丞相)が立伝されている。くだんの箇所を次に引こう。
(商英は)初め、東林の総禅師に謁して、遂に印可を蒙る。
公(商英)、江西に漕たりしときに、兜卒の悦禅師にまみえて、あいともに夜談して、宗門のことに及ぶ。
公の曰わく、「このごろ『伝燈』(景徳伝燈録。禅僧の伝記集)を看るに、尊宿の機縁、ただ徳山托鉢の話を疑う」。
悦が曰わく、「もしこの話を疑はば、その余は、すなわちこれ心思・意解。なんぞかつて大安楽の境界に至らん」。
公、憤然として榻に就いて屢い起つ。
夜、まさに五皷にならんとするときに、覚えず溺器を踢翻して、忽大に省発することあり。
すなわち悦が門を叩いて、悦に謂て曰わく、「すでに賊を捉へ得(え)了(おわ)れり」。
悦が曰わく、「賊、何れの処に可在る」。
公、擬議す。
悦が曰わく、「都運、しばらく寝よ」。
翌旦、公、すなわち偈を述べて曰わく、「皷寂し鐘沈みて鉢を托して回る、岩頭一拶語雷の如し、果然として只だ三年の活を得たり、これ他の授記に遭い来たることなからんや」。
ここに登場する総禅師、悦禅師、ともに宋代の著名な禅僧である。総禅師とは、江州・東林寺の常総(1025-1091)。蘇東坡とも親交あり、道元も蘇東坡火開悟の機縁に触れてこの人のことを語っている。昭覚禅師の号を受く。また悦禅師とは、隆興府・兜率寺の従悦(1044-1091)。真寂禅師の号を受けている。上の伝にもその一端が見えているが、丞相・張商英は、はじめ総禅師に参じ、のち悦禅師のもとで得法している。
じつはこの『仏法金湯編』の張商英伝はだいぶ簡略にまとめたダイジェスト版である。そのため意味のなかなか通じにくい所がある。この人の伝は『仏祖歴代通載』、『歴朝釈氏通鑑』、『五燈会元』、『羅湖野録』等、先行する諸書に見えるのだが、いま『五燈会元』(1252刊)第十八巻「丞相張商英居士」より、上の伝に該当する箇所を引いてみよう。
元祐六年(1091)、江西の漕となる。はじめ東林の照覚禅師に謁す。覚、その所見の処を詰(と)うに、己と符合し、乃ち印可す。覚、曰わく「吾に得法の弟子あって玉谿に住す。乃ち慈古鏡なり。亦たともに語るべし」。
公、また按部するに因て、分寧に過(いた)る。諸禅、これをむかう。公到って、先ず敬を玉谿の慈に致し、次に諸山に及び、最後に兜率の悦禅師を問う。
悦、人と為(な)り短小なり。公、かつて龔(きょう)徳荘が「それ聡明にして可人なり」と説くを見(き)く。乃ち曰く、「公は文章を善くすと聞く」。悦、大笑して曰く、運使、一隻眼を失脚し了(お)われり。従悦は臨済九世の孫なり。運使に対して文章を論ずるは、まさに運使が従悦に対して禅を論ずるが如し」。公、その語を然りとせず。乃ち強いて指を屈して曰く、「これ九世なり」。
玉谿に問う、「ここを去ること多少ぞ」。曰く、「三十里」。曰く、「兜率、聻(にい)」。曰く、「五里」。
公、その夜、乃ち兜率に至る。悦、先の一夜、夢むらく、日輪、天に昇り、悦に手を以て摶取(たんしゅ)せらると。乃ち首座に説与して曰く、「日輪は運転の義。久しきに非ずしてここに過(いた)ると聞く。吾れ当に深く錐(きりも)み痛く劄(さ)すべし。もし肯って頭(こうべ)を回らさば、すなわち吾が門の幸事ならん」。座曰く、「今の士大夫は、人の取奉(しゅほう)を受け慣らう。恐らくはそれ悪発して別に事を生ぜん」。悦曰く、「正に煩悩せしむとも、ただ我が院を退得せんのみ。また別に事なし」。
公、悦と語る次いで、東林を称賛す。悦、いまだその説を肯わず。公、乃ち寺の後ろの擬瀑軒の詩をを題す。その略に曰く、「廬山に向かって落処を尋ねずんば、象王の鼻孔、謾に遼天」と。意は、その東林を肯わざることを譏(そし)るなり。
公、悦と語って更深けるに至り、論、宗門の事に及ぶ。悦曰く、「東林、既に運使を印可す。運使、仏祖の言教において、少しき疑い有りや否や」。公曰く、「有り」。悦曰く、「何等の語をか疑う」。公曰く、「香厳独脚の頌、徳山托鉢の話を疑う」。悦曰く、「既にここにおいて疑い有れば、その余、安(いずく)んぞ無きことを得んや。ただ巌頭が“末後の句”と言うが如きは、これ有りや、これ無しや」。公曰く、「有り」。悦、大笑し、すなわち方丈に帰って、門を閉脚す。
公、一夜、睡り穏やかならず。五更至って牀(とこ)より下り、溺器(にょうき)を触翻して乃ち大徹す。前話を猛省し、遂に頌有り。曰く、「皷寂(しず)かに鐘沈(しず)かなるに托鉢して回(かえ)る、巌頭の一拶語、雷の如し。果然としてただ三年の活を得たり。これ他の授記に遭い来たることなきや」。遂に方丈の門をたたいて曰く、「それがし、已に賊を捉得し了れり」。悦曰く、「賊、いずれの処にか在る」。公、語無し。悦曰く、「都運、しばらく去れ。来日相見せん」。
翌日、公、遂に前の頌を挙す。悦、乃ち謂いて曰く、「参禅は、ただ命根断ぜざるが為に、語に依って解を生ずるのみ。かくの如きの説は、公、已に深く悟る。然れども極微細の処に至っては、人をして覚らず知らず、区宇に堕在せしむ」。乃ち頌をなして、これを証して曰く、「等閑に行く処、歩々皆な如なり。声色(しょうしき)に居るといえども、むしろ有無に滞らんや。一心異なることなし。万法殊に非ず。体と用とを分かつことを休めよ。精と麁とを択(えら)ぶことなかれ。機に臨んで礙(さ)えられず。物に応じて拘わること無し。是非の情尽き、凡情皆な除かる。誰か得、誰か失、何れか親、何れか疎。頭を拈じて尾となし、実を指して虚となす。身を魔界に翻(ひるがえ)し、脚を邪途に転ず。了(つい)に逆順無く、工夫を犯(もち)いず」。
両書の伝の違い、ご覧の通りである。『五燈会元』によって初めてことの子細がわかるところ少なしとしない。で、問題をどこに絞ろうかと云うことだが、『真俗仏事編』の絡みから云えば、「托鉢」の元ネタとなる「徳山托鉢」の話を展開するのが常套の所だが、それだとあまりにまともすぎて、「よこみち」の軽さ(いいかげんさでもあるが)が出ない。
そこで「徳山托鉢」については、『無門関』第十三則の公案タイトルであることを示して、あとはご興味に応じてググっていただくことにする。ご心配なく、簡単にたくさんのサイトにヒットできる。それだとあんまり不親切かもしれないので、ちろっとコメントしておくと、この公案、古来、いったいなにを言いたいのか?と問題になっているものでもある。
そこで、「いいかげん上等」の「よこみち」の焦点はと言うと、「さとりの機縁」を問題としたいのだ。禅者のさとりのきっかけは様々で、あまたの話が伝えられている。
いわく、花の落ちる音を聞いて
いわく、竹のはじける音を聞いて
いわく、指を弾く音を聞いて etc.
そこでこの度の無尽居士こと張商英はというと、すでに見た通り、
「夜、まさに五皷にならんとするときに、覚えず溺器を踢翻して、忽大に省発することあり」by『仏法金湯編』
「公、一夜、睡り穏やかならず。五更至って牀より下り、溺器を触翻して乃ち大徹す」by『五燈会元』
とある。五皷も五更も同じ意味、時間を表す、これは午前4時頃のこと。この眠りにつく以前(『会元』は一夜としているが)、商英は、兜率寺の従悦禅師と禅について論判を交わしている。明け方も近い頃に床より出でて、「溺器」に当たってひっくり返してしまう。それがきっかけになってさとった(省発もしくは大徹)。溺器(にょうき)とは尿器、シビンのことだ。ちとバッチイが、まぎれもなくこう書いてあるのだからしょうがない。これによって商英が頌したところの「皷寂鐘沈托鉢回云々」の偈は、その後、さとりのありさまを詠った名句として、多くの禅者に引用され、また多くの禅宗偈頌集に収録されている。
人生、何が転機になるかわからないものである。