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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№64「ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば」

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「お檀家さんから、“なんで葬式や法事をしなくちゃいけないんですか?”って聞かれたんですが、なんて答えたらいいんでしょうね?」
 という質問を受けることがある。複雑な思いがする。
「檀家さんをうならせるような、うまい言いかたないもんすかね?」
 とあからさまな聞き方をしてくるのもいる。いやな思いがする。
 こう答える。
「自分で考えろよ」と。
 もちろん心の中で。
 少なくとも自分で「僧」という道を選んだのだから、自分の答えを用意しておくべきだと思うのだが・・

 もっとも「自分で用意する答え」が、「自分勝手なもの」でも困るわけで、そのために本編のように典拠となる仏教文献資料を参考に提供するものがあるわけだ。答えを求めようとするものは、こうした参考例を丹念に読み解いて、自分の言葉に消化して行く必要があると思う・・・、と、なにやらエラソウなウエメセ調子になってきたので自分のありさまを顧みてもうやめとこう。

 いま一度本編の『仏説比喩経』の引用文と、子登自身の「私に云く」以下のコメントを見てみよう。ここで言われているのは、経典から引いた、子孫がちゃんと「追福」すれば、あの世の親たちは幸いに恵まれ、反対に子孫が「追福」しないと、斧世の親たちはとんでもない苦しみに悩まされる、ということ。だから「親を思う子であったなら、しっかり追福しなければいけないだろう」と誡めるのだ。
 これ、今になって読んでみると、腑落ちのスッキリしない人がほとんどだと思う。あの世のことなんて実際にはわからないのに、なんでそうやって「追福」を強要するんだよ、と反対の声が上がりそうだ。もっともな抗議ではある。
 これを考えるために、「追福」なることをちゃんとおさえて、そのうえで『真俗』の言い方を検討してみよう。
 ほとんど多くの辞書が「追福」という言葉を次のように説明している。

 死者の冥福をいのること。また、そのために行なう仏事。

 そして、これと同意の言葉として「追善」を並べ、また中村元『仏教語大辞典』なんかは「追薦」もこれに連ねている。こうした説明が大勢を占めるのだけど、ほんとはこれだと「追」の意味がはっきりしなくなると思う。たしかに結果的には「死者の冥福をいのること」なんだろうけど、より直接的に言えば、これは死者へ「福」をあるいは「善」を、追加もしくは追送もしくは追贈してやることだと思う。別の言い方をすれば、あの世にいる死者へ、この世から福・善を追加して送り届けることだ。

 ちなみに、大正蔵を対照に検索してみると、
「追福」hit 105 インド成立の漢訳仏典も多い
「追善」hit 43 インド成立はわずか、中国仏典、また日本の禅語録にも多い
「追修」hit 29 中国と日本の禅語録がほとんど
 という状況だった。このへんもなにか事情があるかも知れない。

 実際の本文の例を挙げてみよう。

『佛説除恐災患經』
「佛問餓鬼。生中七萬歳。由來飮食何等。餓鬼報佛言。或有世間父母親里。稱其名字。爲作追福者。便小得食。不作福者。不得飮食」(大正蔵17.0554c)

『根本説一切有部毘奈耶皮革事』
「子孫昌延。得長久住。我若死後。爲我追福稱我名字。當願我父生於善處」(大正蔵23.1049a)

 本編の『梵網経』、『大仏頂経』、『仏説比喩経』と、これらを合わせ見ると、追福、忌日の供養というのが、親と子をその関係の中心に置いていることがわかる。これは中国儒教の「孝」の考え方にも連なるものかと思うが、一方では出家性を強調し、ともすれば肉親の恩愛をふりすてて「棄恩入無為」を標榜する仏教の立場からすれば、私などはいぶかしい感慨がないではない。
 だがこのように、幽界と明界の境を異にしても、肉親の情愛のつながりをおろそかにさせなかったからこそ、イエ制度の堅固な時代は日本仏教の存続が担保されてきたのだとも言えるだろう。

 どうも論点がばらけてしまいやすいので、今のうちにこの文章の落としどころを確認しておこう。今回の本編を読んで思うのは、この世の行為があの世に届くという、この不思議なしくみが追福・追善などの「供養」(あるいは「回向」とも言えるだろう)の考え方のベースにあるということを今一度きっちり抑えておきたいということだ。このしくみが強固である間は、供養の重みも損ずることは少ないように思うし、逆にこのしくみが弱体化してくれば、先に述べたような供養無用論も声を大きくしてくるだろう。

 じつはいま、ある委員会に所属している。そこでの中心課題が、現代社会において「追善供養」の意義をどう説くべきか、というものだ。伝統的な手法としては、この「しくみ」を前提に説いてきたわけだが、はたして路線の延長でよいのか。「イエ」ではなく「個」を対象とした、新たな「追善供養の意義」が説かれるべきではないか、という意見もその委員会の中では出ている。では、それをどのように行えるのか。宗典や仏教文献ひっくり返して適当な文言を見つけるか。供養の心理的効果・社会的効果などという側面からアプローチしていくか。新しい説き方を編み出すか・・。
 「自分で考えろよ」と言うわりには、私自身もはなはだ宙ぶらりんなのである。