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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№88「お葬式に僧侶は必要か?」

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 昨今よく話題になるところだ。識者の皆さんもさまざまにお考えのあるところだろう。ひとまず私の考えを読んでいただいた後で、どんどん突っ込んでいただければありがたい。
 まずは一つ前の本編№87「葬法」とその「よこみち」を覧ていただければおわかりのように、人が亡くなったからと言って宗教儀式は必ずしも必要ではない。現在の日本の法律では、しかるべき行政手続き(死亡届)と遺体処理(多くは火葬)が施されていれば宗教儀式は不要。したがって僧侶及び他の宗教者も不要。言うまでもなく葬儀屋も不要である。遺骨の埋葬もしなくとも問題はない。差し障りを感ずるのは家族・親族及び周辺関係者の「目」だろうが、それらは法的には拘束力の有るものではない。
 このように言うと職業僧侶の方々はじめ、伝統的葬儀の意義を重んずる方々から強い批判を浴びそうだが、ひとまずはそれが現実だと確認しておきたい。
 だがこのことは標題に掲げた「お葬式に僧侶は必要か?」という問題に対するストレートな回答ではない。なぜなら「お葬式に」と断っている以上、それは何かの「儀式」を想定しているのであって、ごく一般的には、そしてこのFBグループ上ではほぼ「仏教儀礼による葬送儀式」を想定しているのだから、その意味では「仏教儀礼による葬送儀式」においては僧侶の存在は不可欠となる。だから今述べた「僧侶は不要」という考えは、人が亡くなった後にしなければならない最低限の法的手続きおいて、という限定付きのことと理解願いたい。
 ところが「仏教儀礼による葬送儀式においては僧侶の存在は不可欠」という言い方にもことわりが必要なようである。
 たとえば「仏教儀礼による葬送儀式」とは言っても、故人を囲んで、あるいはその墓所で、集まった故人の縁者達が「南無阿弥陀仏」あるいは「南無妙法蓮華経」と唱えたり、習い憶えた経文の一つ二つを唱えて「儀式」とする場合がある。これならば司祭としての僧侶は介在しなくてよいことになる。
 また僧侶の立場から、「見送る人たちの真心がこもっていればことさらに僧侶の介在は必要ありません」と言う人もある。
 だがこれもまた当の「宗教儀式」の内容によるのであって、たとえば私の属している曹洞宗では、故人に対して(死後ではあるが)授戒し、血脈と戒名を授与し、僧とならせる儀式が、葬送の前提として必要になる。これは自分が師僧となり、故人を弟子とする儀式だから、導師としての僧侶は必ずいなければならない。
 またもし生前に戒名授与してある場合はどうかというと、その場合は、故人を(教義の中で想定されている)次生(多くは「浄土」と表現される)へ〈引導〉し、次生の幸福を願って、読経・供物・焼香等さまざまな功徳を〈回向〉することが必要になる。これには僧侶が修行者として培ったはずの「宗教的力」(禅宗の場合は「禅定力」等と呼ばれる)が不可欠とされていて、やはりその担い手である僧侶が必要となる。これは死後授戒の場合も同様だ。つまり故人の師僧となる資質、そして故人によりよき来世を保証できる宗教力、この二つが求められているがゆえに僧侶が必要になるのだ。申し訳ないけれど他宗の葬儀法については詳しく知らないのでなんとも言えない。
 さてここに至って問題がある。昨今の、いやじつはずっと昔から変わらずに問題なのだが、「僧侶による葬式」批判が根強いが、金銭の問題が大きく取りざたされているその根っこに横たわっているのが、この二つに関する一般の人々からの強い疑念だと思う。
 行なってもらいたい葬式であるべきはずだし、つとめてもらいたい導師であるべきはずだ。いきおい我が身を省みて恥じ入るばかりだけど、憂うべきは時代や社会の変化でもなく、人々の信仰心の衰退でもない。僧侶である自分がこれまでなにをしてきたか、いま何をしているか、突き詰めてみれば問題はそこにあるのだと思う。信仰の自由が保障されている。選ぶのは向こうであって、こちらは選んでもらう立場だ。はなはだ不謹慎な言い方かもしれない。選んでもらって損はさせない、そんな「品物」を磨いておきたい。