BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№112「脳をすすり、眼をくり抜き」

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「ノドに血ヘド見せて狂い鳴く あわれ あわれ山の ほととぎす」
 井上陽水『帰郷』のフレーズ。死者とホトトギスとが並んでいる箇所を読むとふとこのフレーズが浮かぶ。刷り込まれているんだなきっと。

 『十王経』には内容の異なるものがあるが、本編で引用しているものの具名は『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』という。この経典、なかなかのいかがわしさで、その成立事情にしても内容にしても優れて興味深い。しばらく以前から手元に蒐めただけでも十種に余る註疏類をあれこれ読んでいる。ある人たちはこの経を真面目に取り上げるまでもない偽経としてはなはだ評価は低いのだが、アマノジャクな私にとっては無性におもしろくてしょうがない。と、十王経loveをいくら強調してもしょうがないので先へ進もう。
 『十王経』に言う如く、冥土の旅へ出かけた死者が旅路の冒頭で出逢うのが二羽の鳥。“別都頓宜壽”という鳴き声の無常鳥、“阿和薩迦”という鳴き声の抜目鳥である。『十王経』本文にこの続きをみてみよう。

 その時、知るや否や。
 亡人、答えて曰く、すべて覚知せず。
 その時、二鳥、忿怒熾盛にして亡人を呵して曰く、
 汝、人間(じんかん)に在りて罪業を恐れず。我、悪心を懲らさんがために、飲まざれども脳を啜(すす)らん。
 汝、人間に在りて罪業を恐れず。我、悪心を懲らさんがために、食わざれども汝が眼を抜かん。
 
 つまりは二鳥とも「悪心を懲らさんがために」亡人に呵責を加えるというのである。
 そこで今一度本編で話題にしていた『十王経』の文脈を顧みるために、註疏の一つに当たってみたい。ここで挙げるのは数ある註疏類の中でもおそらく一番と言えるくらい詳しいのではないかと思う浅井了意(1612-1691)の『仏説十王経直談』(1683刊)、全十三巻である。
 問題の箇所は巻四の、第三十五節~四十三節に当たる。丁数にして八枚の量なので、ここでは話題にしたいポイントを拾い出していこう。

 復次ニ古注ニ、別都頓宜壽ヲ呉音ニ去祈家命ト云ンカ如シト云フ、謂ク、襤褸鳥ノ怪語ヲ以テ鳴ク声ヲ呉語ヲ以テ訳スル則ンハ、去祈家命ト云ンカ如シト也。去トハ罪悪ヲ去ル所以ン、祈トハ修善ヲ命ト云ンカ如シト也。去トハ罪悪ヲ去ル所以ン、祈トハ修善ヲ祈ル所以ン、敗悪為善ヲ以テ警誡ス。
 蓋シ慕逆無道ナル者ノハ、天ニ違ヒ人ニ背キテ、果シテ家ヲ破リ命ヲ亡ボス。『無量寿経』曰く、「家ヲ破リ身ヲ亡ボシ前後ヲ顧ミズ、親族内外之ニイナガラニシテ滅スト」。然ルニ家ヲ祈リ命ヲ祈ルトハ、悪人諸ノ悪ヲ造リテ已マザル則ンハ、悪貫盈(ミツ)ル時キ、悪鬼集マリ襲テ、横禍横病ノ怪事興リテ、忽チニ破家亡命ノ災ニ至ル。唯能ク己ヲ顧リミテ非ヲ慎ミ悪ヲ止メ、善法慈心ヲ行スル則ンハ、諸天善神恒ニ衛護シテ、自然ニ災禍ヲ攘(ハラ)ヒ福徳ヲ成ス。是祈家命ノ謂ナリ。

 これが本編引かれていた無常鳥の鳴き声、「怪語を示して別都頓宜壽と鳴く(この鳥、呉語には〈祈家命鳴〉と云うに近し)」の部分の詳解となる。
 次いで、

 阿和薩迦トハ怪声ヲ以テ鳴ク音(コエ)ナリ。古注ニ呉語ノ病来将命尽ト云フニ近シト釈ス、未タ詳(ツマビ)ラカナラズ。
 按ルニ『翻訳名義集』ニ曰ク、「薩迦耶薩、此ニハ無常ト云フ。荀卿子曰ク、趨舎定メ無キ、コレヲ無常ト謂フ。唐ノ『因明正理論』ニ云ク、本ト無クシテ今ハ有リ、暫シ有リテ還タ無シ、故ニ無常ト名ヅク云々」。
 此ノ梵語ニ因テ今マ准(推カ)スルニ、阿ハ無ナリ。和薩迦ヲ常ト翻スルニ咎有リト為(セ)ムヤ。古注ノ意(ココ)ロ無常ノ義アリテ病死ノ二ツヲ挙グ。義翻ニ似タリ。『正法念経』ニ説カ如シ、胎蔵ニ於テ死スル有リ、生時ニ命終スル有リ、纔(ワズカ)ニ行(アリキ)テ便チ亡ズル有リ、能ク走テ忽チニ卒スル有リト。是少年ノ者ノト雖トモ無常ヲ免レス。
 
 これが、「怪語を示して阿和薩迦と鳴く(この鳥、呉語には〈病来〉と云うに近し」の部分の詳解となる。
 さて『仏説十王経直談』の解説を続けてみていこう。
 次は、「その時、知るや否や。亡人、答えて曰く、すべて覚知せず」についてである。

 是二鳥既ニ亡人ヲ警ルノ詞ナリ。所謂、襤褸鳥ハ別都頓宜壽ト鳴キ、烏鳥ハ阿和薩迦ト啼ク。汝、亡人、ソノ時ニ此ノ怪異ノ語ヲ聞知スルヤ否ヤト問フ。亡人、答テ曰、在生ノ日、数(シバシバ)此ノ声ヲ聞ト雖トモ、去祈家命トハ捨悪持善ノ義ナリ、病来将尽トハ無常遷流ノ理ナリト覚知セズ、ト云フ。
 謂ク一切人間ノ生涯ハ、電光石火ニ喩ルモ猶ヲ却テ鈍(ニブキ)カ如シ。因縁仮合シテ実無キコト、旋火輪ノ如ク、陶治器ノ如シ。徒(タダ)ニ無常ノ至ルコトヲ知ラス、空ク促(ツツマル)コトヲ覚セス、世路産業ノ営ミニ年ヲ失ナヒ、愛欲名利ノ為ニ日ヲ銷ス。月ヲ亘リ時ヲ踰テ、身命ノ衰耗ヲ観ゼズ、花ニ戯レ雪ヲ弄シテ、無常ノ追逼ヲ想ハズ。
 『出曜経』偈ニ曰ク「是ノ月已ニ過ク、命則チ随テ滅ス、少水ノ魚ノ如シ、是ニ何ノ楽ミカ有ラン」。況ヤ四相遷転シ、八風ノ臻(イタ)リ侵ス。
 『唯識論』ニ曰ク「本ト無クシテ今有リ、有ノ位、生ト名ヅク、生ノ位、暫(シバラ)ク停ルヲ即説テ住ト為ス、住ノ前後ニ別ナルハ、復タ異名ヲ立ツ、暫ク有テ還タ無シ、無キヲ滅ト名ヅク。前ノ三ハ有ルガ故ニ同ク現在ニ在リ、後ノ一ハ是レ無ナルガ故ニ過去ニ在リ」ト。
 既ニ一生ヲ終テ亡滅ニ至ント欲スル時、忽チニ病患ヲ受テ、身心ヲ懊悩ス。若シ夫レ可療ノ病ハ、医ヲ待テ而シテ差(イユ)ヘシト雖モ、必死ノ病ハ聖神モ蠲(ノゾク)コト能ハス。
 『大論』ニ曰ク「四百四病ト云ハ、四大身為ル常ニ相ヒ侵害ス。一一ノ大中ニ百一病起ル。冷病ニ二百二有リ、水風ヨリ起ルカ故ニ。熱病ニ二百二有リ、地火ヨリ起ルカ故ニ」ト。是レ一病起ル則ンハ、遍体ヲ悩マシ身心ヲ苦シム。
 此ノ時ニ臨テモ猶未タ死想ヲ生セス、後世ノ需メヲ作コト無ク、唯薬餌ノ療養ニ意ヲ止メ、神仏ノ祈願ニ思ヲ掛テ定業果シテ寸効ヲ得ズ、終ニ死滅ニ至リ、魂神去テ歯塗ニ趣ク、是即チ都不覚知ノ謂ナリ。

 次いで、「その時、二鳥、忿怒熾盛にして亡人を呵して曰く、汝、人間(じんかん)に在りて罪業を恐れず」の部分。

 是レ二鳥ノ忿怒呵責ハ、亡人ノ警語ヲ覚知セサルニ依テ来起ス。二鳥ハ乃シ形質ヲ禽類ニ現化スト雖トモ、本地ハ仏菩薩ノ応作ナリト知ルベシ。問鳥ニシテ人語ヲ囀ヅル者ノ、鸚(母+鳥)・秦吉了・鴝(谷+鳥)・八哥児等ノ数種アリ。今此ノ無常・抜目ノ二鳥、是人間ニ在テ杜宇・烏鴉(ヲウア)ト称スル則ンハ、鳴音都(スヘ)テ人間ニ通ゼズ。何ゾ強テ忿責スルヤ。
 通ジテ曰ク、上古ノ時ハ人皆淳厚ニシテ万物ノ情ヲ知ル。草木鳥獣悉ク音韻相ヒ通ス。漸ク下世ニ及ヒテ人更ニ聞テ知ルコト能ハス。或ハ云フ、弘治長能ク禽語ヲ知ルト。東方朔・袁天罡等、皆能ク風角ノ占ヲ以テ鳥語ヲ知ルコト書典ニ載ス。況ヤ去祈家家命・病来将死ノ語音ニ於テ覚知セサランヤ。
 復次ニ、特(ヒト)リ二鳥ノ鳴テ警スル耳(ノミ)ニ非ス。日㬢ノ出没、月魄ノ虧盈(キエイ)、四時ノ運行、草木ノ栄枯、皆悉ク言スシテ教誡スル所ロ、無常遷変ノ道理ニ非スト云コト無シ。
 況ヤ復タ目前ニ見聞スル所ロ、前後相違ノ歎キ、多少死喪ノ愁エ、貴賎貧富誰カ免ル者ノ有リヤ。是ヲ見、彼ヲ聞ク、方ニ我身ヲ遺(ノコサ)ンヤ。何ソ早ク未来ノ資糧ヲ求ムスシテ、空シク生キ徒(イタズ)ラニ死シテ、迷路ニ吟(サマヨ)ヒ到ル者ノ、豈ニ不覚知ノ癡人何ソ忿責セラレンヤ。

 以上は『十王経直談』の解説部分の一部であり、引用はしていないがこのほかに各字義の考証にまで踏み込んでいる。著者である浅井了意の博捜の凄さに圧倒されるばかりだ。いくつか読んできた『十王経』註疏類の中では白眉と言えるものだ。だが了意の解説にうなったのはさらに別のところにある。それは『十王経』本文の以上に続くこのくだりの終の文章、すなわち、
「汝、人間(じんかん)に在りて罪業を恐れず。我、悪心を懲らさんがために、飲まざれども脳を啜(すす)らん。
 汝、人間に在りて罪業を恐れず。我、悪心を懲らさんがために、食わざれども汝が眼を抜かん」
についての解説である。
 この文このまま読めば、亡人の悪心を懲らしめるために、かたや無常鳥はその人の脳みそをすすり、かたや抜目鳥はその人の目ん玉をくり抜くという、いかにも原色地獄絵図を想起させるようなスプラッタ記述である。そしてたしかに他の註疏では、そんなひどい目に遭わぬように悪心を抱くなよ、と恫喝するのであるが、了意はそうじゃない。その落としどころはすこぶる揮っているのである。以下に、「啜脳」の場合、「抜眼」の場合の二つをどのように解説しているのか引いてみよう。

 所謂、迷本ノ髄脳ヲ啜竭(ススリツク)シテ、正道ノ真血ヲ補成スル所以ン、亦再タヒ此ノ獄苦中ニ廻リ来ルヘカラサルコトヲ勧懲ス。

 是、所謂、凡ソ眼、惑溺シテ実際ニ暗シ。是ヲ慧眼盲(メシイ)タリト名ク。縦令(タト)ヒ肉眼明瞭ナリト雖トモ、真正ノ大道ヲ見サル者ヲ無眼人ト名ク。唯ダ色塵ヲ照見シテ、業悪ノ基ト為(ナレ)トモ、自ラ心性ヲ観(ミル)ニ聡明ナラズ。此ノ眼、乃シ面表ニ在テ益スル所ロ無シ。故ニ今マ迷理ノ癡眼ヲ抜テ、正道ノ慧眼ニ換ント云フ。

 脳を啜るのは、迷いの本である脳髄を吸いだし、正道の真血を補成するためであり、目を抜くのは、迷いの癡眼をくり抜いて、正道の智慧の眼に取り換えるためだというのである。
 ここに「啜脳」「抜眼」がたんに勧善懲悪のための拷問をイメージさせる悲壮な解釈から、迷いから正道へと転換させるための譬喩として理解させるという解釈に、そのステージをあげていることがわかる。註者・浅井了意の力量と言うべきだろう。

 ここに見たように、人が迷妄の癡闇から、智慧の光明へ転ずるきっかけ、その大きな一例は、自分のあるいは自分に置き換えてもよいほどの近親者の〈死〉に出逢うことだ。『十王経』の物語中では、その機会に恵まれているのは「亡人(死者)」だが、『十王経』が読者として想定しているのは言うまでもなく生者である私たちだ。
 『十王経』は、生者をして死者の追体験をさせることを通じて「悪心を懲らし」、さらに『十王経直談』は、死者の体験する生理的な痛みを、仏教の求道的精神へと転換する回路を示していると言えるだろう。
 擬似的に、あるいは実際的に、死に直面すること。人の成長する契機はそこにあるらしい。

 そういえば井上陽水の『帰郷』には、「危篤電報を受け取って」という副題が添えられていた。どうやらそこにも刷り込みがあったようだ。