BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【世読】No.7「ちんぷんかんぷん」

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 挨、拶、いずれも一対一で禅僧が相対した時、相手の禅機をはかるところから生まれた語。この本編の解説は、ときに一見意味の通じにくい仕草や言葉を交わすこともある禅問答を踏まえているものだ。
 落語「蒟蒻問答」は、禅問答のちんぷんかんぷんさをパロディにしたものだが、あらためてこの話を聞くと、これはかなり秀逸なものではないかと思う。
 仲間を募って毎月一度『碧巌録』を読んでいる。入矢義高先生の岩波文庫本をテキストに、末木文美士先生の現代語訳とともに、そして小川隆先生の禅語録に関する著作を参考にして読んでいる。訓読文であり、現代語訳であり、しかも詳細な註があるのだからよくわかる・・・かと言えばさにあらず。情けない話だが、一つの文章をわかるまでにはかなりの難儀をしている。正直に言えばよくわからないまま読み飛ばすことも往々にしてある。垂示・本則・着語・評唱・頌・着語・評唱。各本則をめぐると雪竇と圜悟のバトルに翻弄されっぱなしだ。それでも時に評唱の説明がすっと入ってきたり、入谷先生たちの訳語や解説にうなずいたりという(決していつもそうだとは言わないが)腑落ちの経験がこの会を持続する支えになっている。
 しかし日本に禅語録が伝わって以来、現代に至るまでほとんどずーっと「誤読の伝統」が維持されてきた、と入谷先生は言う。詳しいことや実例はそれぞれの先生達の著作に豊富にあるのでここでは省略するが、精緻な研究の成果に接して私も「きっとそうだったんだよな」と思う。これに乗っかって誤解を怖れずに言えば、日本の禅宗における禅語録理解というのは、わかっていないものがわかっていないものにわかっていないことを伝え続けてきた、と言えてしまうのではないというくらいおそろしい状況にあったのだと思う。今初めて私たちはこうした先生達の手引きによって禅語録本来の意味に向きあい始めたと言えるのかもしれない。
 そんなわかっていないものがわかっていないものにわかっていないことを伝えているという禅僧のウソを、「蒟蒻問答」の作者は(禅問答の内容を察知していなかったとしても)見抜いていたのだと思う。永平寺で修行し諸国行脚中だという禅僧・托善も、住職になりすました蒟蒻屋の六兵衛も、わかっていないという点では同じ穴のムジナ。それをこの落語は痛快に笑い飛ばすが、じつは当時の禅僧達への痛烈な皮肉でもあったのだ。