BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

【真読】 №106「僧の服忌」 巻四〈送終部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号46

 僧には服忌無しと云う俗説あり。如何。
 答えて曰く、これ律に拠るか。『行事鈔』下(送終部)に云く、「比丘は須らく服を変ずべからず。常に依るを要とす」(文)。元照の『資持記』の釈にこれを明文として、僧には喪服無きことを弁ぜり。また元照の『六物図』の釈に、彼の『釈氏要覧』「補教編」に、僧の喪服の制を述ぶることを破せり。恐らくはこれを本説として、吾が俗もまた僧に服忌の穢れなしと云うなるべし。
 謂うこころは、沙門は俗を出て既に如来法王の子となる故に、常に如来の衣を纏い素(もと)より無垢清浄なるを以て、在家の如く服忌の穢れなし。ここを以て神明も沙門には火の汚れを忌まざるの理なり。実に秘軌の中には「瑜迦行者は世天を礼せざる」の明文すらこれあり。神、いずくんぞ僧の穢火を看たまわんと云うここころを論ずるなるべし。
 然りと雖も吾が朝は神国なれば、意趣各別なり。僧もまた俗の如く服忌を守るべし。これ則ち随方毘尼なり。

よこみち【真読】№105「九想図」

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 死の忌みに関する禁忌。今日、ほとんどの場合これは前近代的なこととして、具体的に取り扱うべき問題とするテーブルからは退けられる。文字通りタブーになっている。今回本編の主題となっている「死(屍)の穢れ」のことだ。
 いわく、「これまで親しく過ごしてきた親族が、死んだからといってそのとたん穢らわしいものになっているなんてとんでもない」
 いわく、「屍体が時間を追って変化していくのはたんに生物的物理的変化に過ぎない。そこに過剰な負の意味をあたえて解釈しようとするのは非科学的な考え方」
 いわく、「もともと穢れてもいない屍体に関わる諸職・諸役を“穢らわしい”ものと卑賤視するのは重大な差別行為」etc.
 巷間、耳にするこうした発言は、およそ“良識”ある人々に共通して見受けられるところだ。
 ここで私はそうした“良識”を揶揄しようとしてるのではない。そこを注意して以下を読んでいただきたい。
 ここに挙げたよくある発言に通じるのは、こうした発想が、近代的な人権意識と科学的見地をもとにしているということは了解できるだろう。
 ケガレという観念を「食枯れ」「気枯れ」と解釈しようとした民俗学文化人類学のアプローチが20~30年前に流行ったが、今にして思えばあの発想の底には、生理的・生得的な「穢れ観」を、どうにかして「忌まわしいものにあらず」という地点から解釈しなおしたいという表面化しないmissionがあったのじゃないかと考えている。
 枕経など、実際に屍体に隣接する現場を職場の一つとしている我々同業者の間でも、「清めの塩」反対の声が起こったのは、同じようなmissionを抱えていたからではないかと思う。
 さてそれでは前近代的死穢観は克服されているだろうか。
 おそらく答えは、「否」だろう。
 きれいにエンゼルケアされた場合はしばらく置く。死後、一定時間の過ぎた屍体と思いもよらぬ場所で遭遇した場合を想起すればその答えは明らかだろう。忌まわしい、穢らわしいという語彙を抜きにしてその時の感情を嗅覚や視覚による表現だけで言いつくすのは至難のはずだ。
 思うに神話世界の黄泉国伝承から由来づける「死穢」観とは、日本人のそうした「言い尽くせない感情」を説明するのに最適にして最良の方法だったのではないだろうか。
 表面上は科学や人権意識のおかげで「近代人」の顔をしている私たちも、一皮剝けばかつての祖先達と何ら変わりない心性のままでいるような気がする。

【真読】 №105「服忌」 巻四〈送終部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号46

 問う、喪服の者を忌み、穢火を忌むは何故ぞ。
 答えて曰く、『貞観政要格式』に曰く、「昔より吾が朝は神国にして重服・血気を忌む。故に土葬、野葬を法と為す(已上)」。重服・血気とは喪服の者の火及び男女の血の穢れ等を忌むを云う。
 問う、神、已に死火を忌みたまう、仏、忌まざるは如何。
 答えて曰く、仏・神の智見、格別なるが故なり。謂く、本地の仏菩薩は諸法を性より見たまう故に、一法として浄・不浄無く、皆な本来清浄なり。故に死人を穢れと為したまわず、これに依て諸仏を勧請して亡者の得脱を祈るなり。垂迹の諸神は、諸法を相より見たまう故に、浄不浄彰(あらわ)る、殊に死人は穢れ深きが故に(経にも、一切衆生の中に悪臭、人屍の如きものなし、と説きたまえり)神明、甚だ嫌いたまうなり。
 問う、死人は悪臭あるを以て神明嫌いたまうべし。何ぞ生者の子孫を服人として嫌いたまうや。
 答う、骨肉同胞の故に穢れあり。穢れにまた軽重あるもこれ故なり。
 問う、然らば骨肉に非ざる師の死に、弟子汚れありとするは如何。
 答う、師の迹(あと)を継ぐゆえに汚れあり、もし迹を継がざる弟子には穢れ無し。
 問う、導師に汚れありとするは如何。
 答う、慈心を起こして亡者と同体の観を成すゆえに。
 問う、中陰の法事に与(あずか)る僧に汚れあるは如何。
 答えて曰く、穢るる炊火を食らう故なり。譬えば鮑魚鄽(てん=店)に居る者は必ず臭きが如し。
 問う、諸神は火を忌むこと皆な同じかるべし、しかるに何ぞ服忌令の中に神に不同有り。
 答えて曰く、神に権類あり、実類あり。ゆえに穢れを忌むみ不同有り。
 問う、火はその性、清浄にして万物を清むるものなり。しからば何ぞ火に汚れありと云うや。
 答う、服人の炊(かし)ぐ火なれば、残火と成るゆえに(残火とは残食の意なり。彼の仏に香を盛り、灯を捧ぐるに、新火を用いて残火を嫌う。これを以て知るべし)。

よこみち【真読】№104「我が身は親の形見」

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 惜しからぬ身ぞ惜しまるるたらちねの
  親ののこせる形見と思へば

 僧、日政(1623~1668)。
 日本仏僧史上、最も親、就中母親に孝養を尽くした一人として知られる。
 もと彦根藩主井伊家に仕え、後、日蓮宗に出家し、元政の名を日政に改める。
 仏教学はもとより漢詩文にもすぐれ数多の著作、校訂書がある。時の文人とも交流繁く、享年四十六歳の短さが惜しまれる。
 京都深草に一宇を結び、傍らに居室を建て両親を迎える。先に父を喪い残った母に孝養の限りを尽くす。
 母の願いによって父の遺骨を抱き身延に参詣。
 「恩を棄つるも棄てがたし白頭の親」「白髪の残僧母にそうて眠る」などの詩句でも知られる。
 その母も八十七歳で逝す。交流のあった知人より慰めの歌五首が寄せられ、これに五首を返す。
 先立たばなほいかばかり悲しさの おくるるほどはたぐひなけれど
 いまはただ深草山にたつ雲を 夜半のけぶりの果てとこそ見め
 なにごとも昨日の夢としりながら 思ひさまさぬ我ぞかなしき
 いかにしていかに報いん限りなき 空を仰ぎて音には泣くとも
 たのもしなあまねき法の光には 人の心の闇ものこらじ
 一首目取意、「もし私が先に死んでいたなら、母の悲しみはいかばかりだったろう。母に死に後れた私の悲しさはたぐいないほど深いのだけれど」。
 母の亡くなったのは十二月十九日。冒頭の和歌はその後に詠めるもの。
 仏教者は「不自惜身命」の志を抱いて出家する。自分のいのちへの未練は端から捨てるのがたてまえ。だが「自分のこの身など惜しくもない思っていたけれども、母が亡くなってみると、この我が身こそが、母の残してくれた形見なのだと思えば、惜しまれてならない」という意。 
 自分の身体を、親がこの世に残せる形見と捉える発想に考えさせられるところあった。論語にも「孔子曰く、君子は敬せざること無し、身を敬するを大と為す。身は親の枝なり、敢て敬せざらんや」とある。我が身の大切さを親に対する孝養に帰すること。「独り」ではない、とあらためて思う。
 母の亡くなった暮れを越えて翌年の二月。二ヶ月後に日政も寂を示す。

【真読】 №104「形見の衣」 巻四〈送終部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号45

 亡者形見の衣を律には唱衣と称(なづ)く(唱衣の義、下の『十誦律』を以て知るべし)。僧、死してその衣を衆僧に分かち与うに、多人には等分に別け難し。このゆえに仏、大衆を集めてこれを売って、その値を等分に与えたまう。
 ここを以て『十誦律』に曰く、「売衣、未だ三唱せざるに、比丘、値を益す。後、心悔疑して彼の衣を奪う(疑はこれ前の酬価の者に奪わんことを)。仏の言く、未だ三唱し竟(おわ)らざるに、価を益すは犯ならず」。
 ○『増輝記』に云く、「仏の衣を分かちたまう本意は、それ受ける者のこの衣を見る毎にその死せる者を思い出さしむるためなり(吾が俗、形見と名づくるはこれに拠るか)。謂く、睦まじく交わりし彼の僧、無常の風に遭うて去りぬ。我れまた久しからず。かくの如く衣類を他に分けらるべしと。この思いを催して貪求を息(や)めさせんための方便なり。しかるに今の僧は仏意を察せず、形見の衣来たれば欣(よろこ)び集まり、喧(かまびす)しく呼んで、値いを争い、却て快楽とす。誤りの甚だしきなり」(已上)。

よこみち【真読】№103「なんのため?」

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「一重積んでは父のため、二重積んでは母のため、三重積んでは・・」。
 賽の河原に子ども達が積み上げる石の塔。娑婆に残った父母への供養塔だとか。だから亡き人を思って石を積むのは賽の河原伝承に由来する・・。ほんとうだろうか。

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 亡き妻との約束を果たすために石塀を造り続けるという話しもあった。石の塔とは違うが、これも「死と供養」に関わる。偶然なのだろうか。
 山登りするとその山頂に数個の石を積み上げてあるのを見つける。「死と供養」の影は薄い。ただの登頂記念のつもりだと思うが、でもなぜ石を積む?
 初めに戻って考えれば、賽の河原の子どもたちはどのようにして「石を積む」ことを憶えたのか。鬼が教えた? 地蔵菩薩が教えた? 娑婆の親が教えた? 最前からの子どもたちの見よう見まね? じゃその最初は? そして一見荒唐無稽なこの「積み石の供養」伝承がなぜかくも古くからそして広く人口に膾炙しているのだろう。

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 石ころの散らばる河原や地面があるとしよう。そこに所在なく座っていると、人はごく自然に手近の石を拾い集めては二つ三つと積み上げることがある。これってなんだろう。

 勝手な理由づけはいくつもできそうに思う。
 いわく、意識化の天上への憧憬による「上方へ」向かう作業。
 いわく、雑然と散在する石塊に「秩序を」与える作業。
 いわく、ばらばらに離れている箇々の石を「つなぐ」作業。
 しかしいずれも「勝手な」思いつきにとどまる。

 識者は言うかもしれない。塔はもともとストゥーパ。石による仏塔の模倣だから仏の供養であることはあたりまえ、と。そのことはもう№102で確認済み。問題はその発想の起源にある。もしかすると、人は生得的になにかを高く積み上げることに特別の意味を感じている、のではないかということだ。

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 明らかに人為によって積まれた自然石が、その意味の解明を待たぬまま文化遺産に指定されているものが世界中にある。まだ解けない謎だけど、おもしろい。

【真読】 №103「石塔」 巻四〈送終部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号45

 墓石の本説は『西域記』に云く、「表を立つ」と。
 『寄帰伝』に云く「作倶攞はみな塼石を畳んでこれと為す。形、小塔の如し。上に輪無し。けだししばらく塔を立てるに三の意あり。一には、人の勝れるを表す。二には、他をして信を生ぜしむる。三には、報恩の為なる。
 しかれども等級あり。もし初果は一級、二果は二級、三果は三級、四果は四級、三界を超えることを表すなり。辟支仏は十一級、いまだ無明の一支を超えざるを表するが故に。仏塔は十三級なり。十二因縁を超えることを表するが故に。もし凡夫の比丘も徳行ある者は、また塔を立てることを得る。すなわち級無し」。
 『僧祇』に云く、「持律の比丘法師、営事の比丘、徳望ある者、まさに塔を立つべし」。
 『五百問』云く、亡師のために塔を立ることを得る、自物を用ふることは得(よ)し。師物を用いることは得(よ)からず。
 ▲石塔に銘記を書きしるすは、過去迦葉仏の時に始まる。『仏本行経』に見えたり。
 ○『白氏六帖』に云く、「孔子の喪に、公西赤、識をつくる(識は銘の誌なり)。子張が喪に公明儀、識をつくる」(文)と。
 また宋の嘉元十一年(434)、王球死す。石誌を立て、顔延之、文をつくる。今、二師、実に徳行・名業あり。また宜しくこれを識すべし。僧伝の張本となる故なり。