BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№111「年頭偶感」

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 本編の画像に貼り付けた「おそ松くん」。テレビの放映は1966年2月から1967年3月だったらしい。
 その頃、それまで家族でお世話になっていた秋田市内のお寺を離れ、両親と妹の家族四人で、小さな貸家に住み始めた頃だった。おそらくその転居に合わせて白黒テレビをふんぱつしたのだろう。イヤミやチビ太など主人公の六人以上にキャラの立った脇役たちがテレビで活躍していたのを憶えている。小学校入学を翌春に控えた年のことだった。
 祖父母の住むお寺は貸家と同じ集落内にあり、子どもの足でも十分もかからないほどの距離。それでも同居しないのにはそれなりの事情があったと知ったのはずっと後のことである。そんな「事情」に無頓着なのはいつの世も子どもの常で、新しくできた友達仲間とよくお寺に遊びに行った。中に上がり込んでと言うのではなく、建物外の境内あちこちが目当てだった。裏に桑の木が何本もあり季節になると子どもたちはそこへ群がって、熟した桑の実を指先と唇が紫色に染まるほど飽きずに食べた。池には昔養鯉をやっていたという名残の鯉が何匹もいて一メートル近い大物が出てくると歓声を上げた。本堂玄関前には石とモルタルでしつらえたタタキがあり、ところどころ剥がれているモルタルのかけらで石蹴りに似た遊びに興じていると、よく祖父から叱られた。
 はっきりしないがたぶんお盆の前頃だったろうか。私たちが境内で遊んでいると近所のお婆さんが六地蔵のところへやって来た。なにしに来たの?と寄っていくと、これ取り替えるんだよと言って、地蔵菩薩のかけている赤い前垂れを一つずつ新しいものに掛け替えていった。聞けば自分で作ったものだという。すすけた前垂れから、鮮やかな赤い前垂れに変わったお地蔵さんは、地蔵菩薩それ自体が新しくなったように見えた。その時の気持ちを当時は言い表す言葉を知らなかったが、とても尊い行ないのように思え、このお婆さんには敬意を持って接しなくてはいけないという気持ちになった。それは後に芽が出て私の中に抜きがたい根を張ることになる一つのタネだった。
 その後、さらにいくつかの「事情」の積み重ねの果てにこのお寺の住職と成り、歳の改まった今日、三十一年目を迎える。あの時のお婆さんが宿してくれたほかに、いくつものタネをいろんな人たちからいただいた。このお寺に縁のあった自分を支えている根っこは、そんなたくさんのタネから生まれたものだ。
 元旦のご祈祷を終えて明るくなった外を見ると、気温が高いのか雨がちの模様で、例年ならまっ白に掩われている境内は雪が溶けてアスファルトが黒く見えている。暮れの12月、あの時とは別のお婆さんが「お正月来るから」と赤い前垂れを新調してくれたお地蔵さんが六体並んでいる。

【真読】 №111「六地蔵」 巻四〈送終部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号47

 具(つぶさ)には『谷響集』の中の如し。しかるに菩薩は普現色身三昧に入りたまへば、無辺の身を現ず。観音の三十三身の如し。今、六地蔵は六趣に普現したまうなり。
 ○『元亨釈書』に曰く、
 周州の玉祖(たまおや)の神官・惟高(これたか)は、累代の神職なれども、仏法を信じ、つねに地蔵菩薩の号(みな)を唱う。長徳四年(998)のころ、病みけるに六日を過ぎて俄に死せり。たちまち曠野に赴き路に迷う。時に、六たりの沙門来たれり。一人は香炉を持ち、一人は合掌し、一人は宝珠を持ち、一人は錫杖を持ち、一人は華筥(はこ)を持ち、一人は念珠を持つ。
 しかるにその中の香炉を持ちたる沙門の曰く、「汝、我らを知るや」。
 惟高、「知らず」と対(こた)う。
 沙門の曰く、「我らは六地蔵なり。六道の衆生を救わんために六種の身を現ず。汝は巫属なれども、久しく我を信仰せしを以て、今、汝を本国に還らしむ。汝、必ず我らの像を造って恭敬を致せ。我が居、南方に在り」と。
 聞きおわるに夢の覚むるが如くに蘇(よみが)える。すでに三日を経り。惟高、六地蔵を刻んで一宇に安じ、七十余歳まで地蔵の号を唱えて瞻礼供養して終わる。

よこみち【真読】№110「古い人間とお思いでしょうが」

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 「生まれ変わって花になる」
 「自然の大きな循環の中に回帰する」
 自然葬の魅力をアピールするコピーはなかなかキャッチだ。
 今回の本編もまさにこうした自然葬が「上品」の葬法なのだと後押しをするような典拠になりそうだ。
 実際には身肉を焼却して残った焼骨だけを原野山林あるいは河海に捨てるものらしいから、本編で言う水葬や林葬のように、「身肉を有情に施す」とは似て非なる事は否めない。今日的な自然葬のスタンスは、あくまでも施される「有情」の側にあるのではなくて、「施す」主体側の心情にあるのだと思う。
 こんなやや皮肉めいた言い方になってしまうのは、私の中に自然葬に対するかすかなな疑念があるからだ。自然葬という考え方に対する一種の「胡散臭さ」が。
 それは20年以上も以前、自然葬が話題になり始めた頃から感じていて、僧職以外の仕事の一つとして、葬送に関するある研究委員会に所属し、樹木葬や手元供養など、伝統的な墓石葬法に関わらない「新しい」葬法の情報に接するようになって、いっそうその違和感を抱えていた。ただその違和感の正体がなにに由るものか自分でもはっきりと言葉にしてきたわけではない。よこみち№107「礼塔」でも触れたが、あらためて今回のテーマに遇って、その正体をきちんと考えてみたい。
 その研究委員会の席上、話題になった一つに自然葬を実際に行った後の遺族の思いに関する追跡調査があった。その葬法は、火葬の際に焼骨を灰状にし(火加減で調節可能だという)、沖合まで出た船の上から海上に振りまくというものだった。当初はその一回だけで終わる予定だったのが、遺族からの要望強く、翌年、翌々年に一周忌、三回忌の供養が求められたという。そうした伝統的宗教儀礼に規制されないという意味での「自由」な葬法を勧めたはずのその自然葬業者は、おそらくいろいろ考えたのだろう、遺族を船に乗せ、散骨(灰?)したあたりの海上ポイントまで行き、そのポイントを船で三周して花を投じるという方法を編み出したという。遺族達はその行為によって、故人への思いが遂げられたような気持ちになったという。これはりっぱな宗教儀礼にほかならない。だがこうした場合においても、遺族にとって故人の居場所がピンポイントに特定されていない状態では、遺族は故人に逢うためにどこへ行けばいいのか。この追跡調査の情報は文書データではなく口頭で交わされたものだから出典はわからない。またこうした場合だけでなく、「故人は自然に帰った」と得心している遺族の例もあるだろう。
 そもそものお墓の起源と云うことを考えてみたい。と言っても人類学的な知見をまで求めようとするものではない。ちょっと素朴に想像してみるだけだ。たぶんその初めは、死んだ人は野ざらしだったり、森の中に捨てられたり、土やあるいは河川に海に、という具合に文字通りの自然葬だったはず。それがなぜ「墓」が求められたのだろうか。そこに行けば故人に逢えるという場所が欲しかったからじゃないだろうか。
 生前親交のあった者と死別する。これは仕方のないことだけど、その故人への思いを様々な形で自分の中に宿して私たちは生きている。親・兄弟・子ども・配偶者、血縁ではなくとも親しかった人々。そんな死者たちがこの世に残った者の生き方・考え方に強く影響を与えていることは誰でも知っている。そんな「死者の思い出」の連鎖の中に私たちはいる。それは自然界の食物連鎖よりもっと強いつながりのように思う。
 そのような「死者の思い出」は、とりつくよすがのない茫漠としたものよりも、〈そこにそれと在る〉方が遺族としてはイメージしやすい。死者の輪郭がはっきりするということは、死者が自分に語りかけてくる言葉も鮮明になるということだ。「墓」が求められたのはそうした理由があったのじゃないだろうか。それはかなりの長い時間をかけてかたちとなってきたはずだ。今に到ってそれをやめようというのは、たどってきた道のりを逆行しようということになりはしないか。
 「思いの連鎖」ということを考えてみたが、これが相続されていくというのは、家族に代表される身近な共同体が世代を超えて持続していくという背景があって成り立つことだ。家族やそれに代わる共同体が持続していかないということはどういうことか。ここで行き着くのが当世話題になっている個化、私事化ということ。少子高齢とか不婚とか社会的要因はそれぞれだろうが、自分より以前から自分より以後へなにかを引き継ぐということについての責任感もしくは使命感が希薄になっていることがその大きな原因と考えられないだろうか。
 そんな「思いの連鎖」から孤立してしまう後ろめたさが、どこかで「自然に回帰する」という言い方にすり替わっているような気がする。私の抱える「胡散臭さ」はたぶんこの辺に由来するのだと思う。

 もっともよく考えるとこうして述べているのも、自然葬という新しい考え方になじめない「古い人間」の繰り言なのかもしれないけどね。

【真読】 №110「三葬、功徳の勝劣」 巻四〈送終部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号47

 土葬・火葬・水葬と云う。これを三葬と云う。
 土葬は身形を全(まった)からしめんためなり。哀情の甚だしき故になす処なり。
 火葬は骨を親類に分布せんためなり。これ釈迦の荼毘にならえり。
 水葬は身肉を有情に施さんためなり。
 ゆえに経の中にも、三葬の中には土葬を下品の功徳とし、火葬を中品の功徳とし、水葬を上品の功徳とせり。(四葬の中、林葬またこれ〈水葬〉に同じ)。

 

よこみち【真読】№109「ガチです、TORII考」

 このたびのテーマ「とりい」。正面から取り組むことを逃げてばっかりの「よこみち」ではあるけれど、今回はそうもしていられない。なぜかと言うに、ある程度お里の知れるものであればこそ、ちょろりと横からくすぐる面白さもあるのだが、今回本編「華表」の問題はなかなか一筋縄ではいかない。これで端っから横に逸れてしまうのはどうも敵前逃亡のようでよろしくない。なによりも仏教神道のいずれにもまたがりそうな本テーマ、『真俗仏事編』の真骨頂でもある。というわけでがっぷり四つに組んでいこう。

 先ずは本編解説の腑分け。
 「華表」を「とりい」と読むこと自体初っ端の問題ではあるがそれはさておいて、華表諸説は以下の通り。

A  路筋を知らせるもの。by『古今注』
B 塚墓の標識。by『事物紀原』 ※割注の『事物紀原』十の所説を含む
C 「一心」文字形あり。byある神道
D 相応の華表という形あり。
E 一柱の形あり。by『列仙伝』
F 二柱の形あり。by他図
G 華表を鳥居と称する。by丁令威化鶴の故事
H 石造りの華表は忍性に始まる。by『元亨釈書』 ※『事物紀原』鼈頭注を含む

 およそ以上の八説。記載分量はさほどでもないけど、挙説の数ではこれまでの『真俗仏事編』の中でも特別の豊富さ。だがこれのすべてを子登が博捜してきたものかというとどうもそうではない。その書名こそ出していないものの子登が下敷きにしてい先行の書籍がある。それはこの連載でもいく度か触れた『谷響集』だ(書目を明らかにして引いている場合でも、本編№2「庚申」、№3「鬼門」、№12「荼吉尼」、№72「十三仏」の例がある)。

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 具名を『寂照堂谷響集』全十巻。編著者・泊如運敞(はくにょうんしょう)の手によるもので、元禄2年(1689)に刊行された。その巻第三に「華表」の項がある。そこでは設問に本朝の鳥居と中華の華表との規製の違いを問うている。その回答の要旨は、
 a 『古今註』(※『古今注』と同じ)による華表の形状解説。
 b 前掲『古今註』説と『列仙全伝』所載の図、および他図により、華表の柱が一本か二本かの考証。
 c 前説を踏まえ『元亨釈書』により鳥居と華表とが同意となったことを解説。
 d 丁令威の化鶴の故事。
 e 『景福殿賦』とその註による華表の説。
 以上の五つであり、このうちeだけは『真俗仏事編』に引かれていないが、a~dはみな多少の加工を施したものはあるものの子登が踏襲している所である。と、そんなこともコミコミで探っていこう。
 また華表もしくは鳥居に関する考証はここに挙げたばかりでなくさらに多くあるが、ここではそっちの「横道」には逸れずに、本編の所説に向かっていきたい。
 A以下の各説に進む前に、もう一つ『古今注(また註)』を見ておきたい。この書は西晋・崔豹の編著だが、『谷響集』以来の典拠であり、主たる華表説の大元にもあたる。

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 それは『古今注』全一巻中の巻末にある「問答釈義第八」の一つの設問である。「程雅問うて曰く」で始まる一段がそれだ。較べてみればわかるように『谷響集』「華表」aは、これの全文引用にあたる。
 ここで問題にされているのは尭帝が設けた「誹謗の木」というものだが、これは天子の過失を書き表す木のことを言う。民に政治の過失を書かせ、自らの反省に資したというのだから名帝・尭にふさわしい故事ではある。その誹謗木が今の華表木だと言うのだが、その形状を『古今注』は次のように言う。
 横木を柱の頭を交え、その形は桔槹(けっこう)に似ているという。桔槹は図のようなはねつるべのことを言うらしい。『荘子』にも出てくる名称なのでおよそこのイメージでいいのだろう。いわゆるT字形である。このT字形の組み木に(どのように書いたかわからないが)天子への諫め言を書いて大通りや十字路に立てる。秦代にはこれが除かれたが、漢代に復活し、西晋(265- 316)に至っては「交午」と呼ぶようになったということだ。
 ということで『真俗仏事編』「華表」諸説の林に分け入っていこう。

A  路筋を知らせるもの

 ここでは『古今注』を典拠とすると言うものの、「誹謗木」説ではなく、「衢路を表識す」と言う文言から「路筋を知らしむる」ものと説いている。すでに『古今注』とそれを元にした『谷響集』の「華表」説は見た通り。そこでわかるように、先行する二つの文脈からは「路筋を知らしむる」という意味は取りにくい。ここはあくまでも治政者への諫言を表記するもの、という意味でしかない。だが子登の解釈もわからないでもない。

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 なぜならここで言う「発心・修行・菩提・涅槃の四門」という箇所だが、これは仏教式葬儀の際に仮設される四門のことを言っている。その形態は図に示した『諸回向清規』巻四「龕堂火屋之図」の一部に見えるように、「発心」以下の四つの門を葬場の東南西北に順に配置し、釈迦の一代記になぞらえるものだ。この門の造りが鳥居によく似ている。現在では少なくなったが、まだ行なっている地域はあるだろう。子登はおそらくこれの連想から華表に結びつけたのではないだろうか。

B 塚墓の標識

 今度は『事物紀原』が出てきた。これまた『真俗仏事編』では度々登場する書目だが、これは宋の高丞撰、原本は20巻217事、現行本は10巻1765事と言うもので、代表的な類書の一つ。これを墓前に建ててそこが墓所であることを示すものという。ここに『古今注』を割注に引いているが、この説は『古今注』にはないので、本編の「後人」以下が『事物紀原』の説ということになるだろうか。ただ墓前の標識説は『捜神記』や『南史』にも見えるので、それなりの由緒を持つものらしい。

C 「一心」文字形あり
D 相応の華表という形あり

 はて、C、Dとなるととんと弱ってしまう。手元の資料では追いつかないのでここはひとまず保留にするしかない。果たして神道の鳥居からアプローチすべきか、あるいは華表の形態バリェーションなのか。どなたかお分かりであればぜひご教示いただきたい。

E 一柱の形あり。by『列仙伝』

 今度は『列仙伝』だ。この書、本編では「図」のあることが記されているので、明代に編集され慶安3年(1650)に和刻本の出た中国仙人の伝記集、『有象列仙全伝』全九巻のことかと思う。この書のどこに「華表」の記載があるかと尋ねてみると、それは第二巻の初めにある「丁令威」の伝にあった。つまりこの後に出てくるGの説と出典は同じなのである。そこでGを先取りすることになるが、仙人・丁令威の伝記を『有象列仙全伝』より以下に引いてみよう。

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 「丁令威はもと遼東の人なり。道を霊虚山に学ぶ。後、鶴と化して、帰りて華表に集いて吟じて曰く、“鳥有り、鳥有り。丁令威、家を去て千歳。今来たり帰る。城郭、故(もと)の如くにして、人民、非ざるなり。何ぞ仙を学ばずして、塚、纍纍たる”」。
 そしてここに付載された図像が添付のものである。一本の角柱様の上に鶴が停まっている。これが一柱の形というのだろう。 

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 簡単なネット検索で画像を探れば、華表でヒットするのは写真(天安門広場の華表)のようなものだ。今日の中国ではこうした一本柱のものがポピュラーなのだろうか。

F 二柱の形あり。

 これまたこまった。本編では「他図」とあるのみで、その典拠を記していない。『有象列仙全伝』所載の他の図のことなのか、あるいはまったく別の他図なのか。これまた保留にしなければならない。

G 華表を鳥居と称する。

 ここでさきほどEで紹介した丁令威の故事が出てくる。この故事をもって華表を鳥居と名づけるという。ここで初めに紹介した『谷響集』のd説をもう一度見てみると、そこには次のようなコメントがあった。
 「但し、華表は、横木、二柱を貫いて柱端、花状の如くす。その鳥居は、横木、柱上を蓋う。これを異にするのみ」。
 これに『元亨釈書』の記事Hが続いて、「ゆえに近世の文士、皆な鳥居を呼んで華表と為す」とするのが『谷響集』だ。子登もこれに倣っていると言えるだろう。
 この説について、『神道史大辞典』(2004年刊)「鳥居」項(稲垣栄三執筆)では、日本の伝統的な辞書類が「華表を鳥居と読ませているが、鳥居の起源を中国の華表に求めようとした誤解に基づく」と指摘している。「鳥居」の語源についても未だ定かではなく、「鳥の居るところ」というなんとも読んで字のごとし的な説が有力なようだが、あまり深入りしないでおこう。

H 石造りの華表は忍性に始まる。

 でもって今度は『元亨釈書』だ。これは仏教界ではよく知られた本邦初の仏教僧伝集。虎関師錬が元亨2年(1322)に朝廷に上程したのでこの名がある。全三十巻のうち、忍性の伝は巻第十三にある。その永仁2年(1294)の事跡に次のように記している。

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 「この寺の大門の外に衡門有り(割注:俗に曰く、鳥居なり)。鋸木宏材、歳久しくして朽頽す。性(忍性)、新意を出だして石を以て之れを新たにす。高さ二丈五尺、堅確瑩滑なり。国人、目を拭う」

 この記事が典拠なのだろう。本編が付する『事物紀原』の鼈頭は追いかけるに及ばない。念のため、『元亨釈書』の詳註として名高い『元亨釈書便蒙』(1717刊)に、この「衡門」の註を見てみると次の通り。
 「本注に、“俗に曰く、鳥居なり”。○朱子が詩注に曰わく、衡門は木を横たへて門と為すなり。(陳風)『谷響集』の三に、鳥居・華表柱の義を辨ず。往きて見るべし」
 これをもってすれば、〈鳥居‐華表〉説における『谷響集』の影響の大きさがわかる。

 というわけで不完全ながら、本編の文脈はほぼトレースできたことになる。他に『十王経』の所説などおもしろいものはまだあるのだけど、それはまたいつかに取っておこう。
 たまたま今宵は耶蘇降誕会のお逮夜(クリスマス・イブと言うらしい)。こと近年は宗教上の理由から物騒な話題に事欠かないが、せっかくの静かな夜。西域の般若湯などいただいて過ごそうかな。

 

 

 

 

【真読】 №109「葬場の華表(とりい)」 巻四〈送終部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号47

 問う、今、葬場に華表(とりい)を構えるは何の故ぞ。
 答えて曰く、『古今注』に、華表を釈して「また以て衢路を表識す」と云へり。これに拠れば、元と路筋を知らしむる為に立つ。故に今葬場の華表は、発心・修行・菩提・涅槃の四門にこれを建てて路筋を表すなり。
 因みに問う、本邦神前の華表もかくの如くなるものか。
 答えて曰く、『紀原』に、「後人、塚墓の前に立てて、以てその識し記すものなり」と云へり。本邦社前の華表も、本(も)とかくの如くの説に依て神廟の路を識すものなり。(『紀原』十に曰く、「『古今注』に曰く、程稚、堯に問う、“誹謗の木を設くるは何ぞや”。曰く、“今の華表、木を以て柱頭に交え、状(かた)ち華の形の如くにして、褐楔の形に似たり。交衢に悉く施す。或いはこれを表木と謂う。けだし堯、これを設くるに始まる。後人、これを塚墓の前に立て、以てその識を記す”)。
 然りと雖も神道家には、華表を「一心」の文字の形に取る等の伝あり。また「相応の華表」と云うあり。形ち異なり。しかるに『列仙伝』の図には、華表ただ一柱なり。また他の図に二柱の華表あり。吾が国の鳥居に似たり。
 また本朝、華表を鳥居と称(なづ)くるは、丁令威、化して鶴と成て遼東の城門の上に止まりし故事を採て鳥居と名づけたり。
 また今、石を以て華表を造ること、極楽寺の忍性、始めて四天王寺の華表を石を以て造りしより始まると『釈書』に見えたり。
 しかるに『紀原』の鼈頭に、韋照が説を引いて曰く、「後世、石を以てこれに易(か)う、と云へり」と。然れば忍性は、またこれに依るか。

よこみち【真読】№108「絶句」

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 生まれてから五歳の頃まで秋田市内の寺町通りにあるお寺で過ごした。そのお寺に県の宗務所という宗派事務局があり、父がそこの職員をしていた。同時にそのお寺の法務手伝いをしており、妻を娶り、妻はお寺のまかない手伝いとして二人一緒に住み込み暮らし。その二人の間に私が生まれた。なんと言うことはない、大寺で働いていた若僧夫婦の子どもだっただけである。ただその寺の住職夫妻には子どもがなく、寺内に住む子どもは私一人ということもあって、可愛がってもらった。
 五歳くらいになると小編の経文は憶えるようになる。Eテレビの幼児向け番組で、じゅげむじゅげむや、アメニモマケズなど長文の文章を子どもたちが得意そうに暗誦しているのを見ることがあるが、あれと同じことで、意味などわからずとも子どもの暗記力は高いものだと思う。
 そんな5~6歳の頃からだと思うが、お盆になるとお寺の墓経手伝いをするようになった。
 そのお寺は本編に掲載した写真のように(同じ寺ではないが)、本堂手前の境内に境内墓地がずらりと並んでおり、お盆に墓参のお檀家さんでたいそうにぎやかになる。墓経というのは、そうした墓参客の要請に応じて、各墓塔の前でお経を唱え、家々のご先祖の供養をするものだった。
 一件、約十分足らずだったと思う。墓参客はひっきりなしに訪れるので、墓経に待機している僧侶は四~五人いたと思うが、それぞれ一件終わればまた次のお墓へというように、ほぼ休みなく動いていた。
 頃は八月の半ば。三十度を超える炎天下であることがほとんど。私以外はみな大人のお坊さんであったが、「よいでねなあ(※容易なことではないなあ)」とぼやきながらのことだった。
 だがお経も憶えたて、僧服姿も初めての私にしてみれば、墓参客たちに珍しがられたり、褒められたりして、子供心にも楽しく誇らしい思いだった(じつのところはその頃の感慨があまり鮮明でないのだけど、きっとそうだったと思う)。墓石の前で一緒に記念写真を撮ったり、読経中の姿を撮られたりしていたのを憶えている。
 そうした記憶のもっとも印象深いことがあった。
 憶えていた経文は『般若心経』だった。これはその前に憶えた『舎利礼文』よりも三倍くらい長い経文で、自分にとっては一つレベル上のお経を憶えたぞ、と内心得々としていた。墓経の際は、墓石に向かって、手に引磬(いんきん)と呼ぶ携帯用の鳴らし鐘を持って読経する。両手はふさがっているので、経典は基本的には持たない。父からは「お経を忘れたりしないようにちゃんとお経の本を看て読みなさい」と言われていたが、引磬を手にしていると持ちにくいし、なによりももう暗記しているから大丈夫、という気持ちもあって、経典は持っていなかった。なにしろ午前中だけで数十件、夕方まで途切れることなくやって来る墓参客に対応していると、日に百件くらいは読経していることになる。頭で考えなくとも次々と口から経文は出てくるのだった。
 で、その時。家族連れの墓参客。小さいのにえらいねえ、かわいいお坊さんだね、などと言われつつ「カンジーザイ」と始めた。と、経文が途切れた。次の言葉が出てこないのである。あせるが、そこは子どもでも何とか回避策をひねり出した。もう一度「カンジーザイ」から始めた。読経のリズムに乗っかっていると、ひとりでに経文が続いてくるはず、と思っての試みだったが、さっきと同じところでまた止まる。さっき以上にあせり、再度「カンジーザイ」から。後ろに立っている墓参客が、こっちの不自然なようすに気づいたのがわかる。それもあせりに拍車をかけたのか、また経文は立ち止まり、もう後が続かない。さすがに始めに戻るのもためらわれた。後ろから声がかかる。「おやおやお経忘れちゃったかな」。私は凝固したまま。暑さのせいではない汗で背中がびっしょりしてきた。経文に続く回向文というものがある。「仰ぎこいねがわくはさ三宝・・」と、読経功徳を先祖の供養にふり向けるしめくくりの唱え言だ。ともかくもそれを読んでお勤めの終わりにした。肝心なお経をすっ飛ばしてしめくくりだけを言ったようなものだ。「もっと練習して、来年もお願いしますね」と笑って言われたが、胸に穿たれた穴は深く大きかった。
 爾来50年を経た。今でも読経することを仕事にしているが、ふがいないことにごくまれに経文を忘れてしまうことがある。ごまかし方だけは上手になったが。