BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

【世説】№3「六蔵(むつかし)」

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 俗に六借(むつかし)の字を用ゆ、然れどもこの字義、古来審らかならざることなり。有る人の言えるを聞くに、俗語ムツカシと云うは、『雑阿含経』の説に、亀の六つを蔵すと云うより起これり。しかれば具(つぶさ)には六蔵(むつかくし)と云うべし。ムツカシは中略の訓なり。
○『雑阿含経』に云く。「亀有り、野干(やかん)に得られる六つを蔵(かたく)出さず。野干怒りて去る。佛、諸の比丘に告げ玉わく、汝、当に亀の六つを蔵すが如くすべし。自ら六根を蔵せば、魔、便りを得ず。」[文]
 六つを蔵すとは頭、尾、両手、両足を甲に引き入れて蔵すを云う。彼の亀の野干に責められ畏れ嫌ふて尾頭等を蔵せるは、さも慵(ものう)きことなり。故に俗、これを取りてモノウキ事を六蔵(むつかし)と云うなり。[これに依れば、文字六蔵に作べし。
○按ずるに、亀の六を蔵す、『法句譬喩経』にも出ず。

よこみち【世読】No.2 「元気だよ」

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アップするのが義務のように感じてせっせと次を考える。

アップしない期間が続くとサボっているみたいで罪悪感にさいなまれる。

このどちらもイヤなので気が向いた時に更新すればいいや~と思いつついるのだが

このところ「最近どうしたの?」「もうお終い?」のようなメッセージをいただくようになり、申し訳なくもありがたい気持ちになった。

そんなことを思っていたら、昨日このブログへのアクセス数が過去最高となったようでいったいどうしたことかといぶかったりしている。

だいじょうぶ、気が向けばポンポンのせていくし、そうでなければパターっとおやすみしたりします。

にしても人ってこんなふうに自分にちょっとでも関わりのある人のことを心配してくれるんだなあと感心している。「どう?元気してる?」「風邪引いてない?」みたいなね。

本編で言うところの「つつがなくお過ごしですか?」もこれなんでしょうね。四大不調を一匹のダニのせいに思うわけをもう少し調べたかったけど今のところまだよくわからない。でもま、そろそろ声挙げとかないとさらに心優しい人たちにご心配かけてしまいそうなので言っときますね。

「元気だよ」。

【世説】№2「無恙(つつがなし)」

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 この義群書の中諸説一ならず。『輟耕録』の釈備(つぶさ)なり。故に今これを出す。○『輟耕録』曰く、「『神異経』に曰く、「北方大荒の中に獣有り、(よう)と名く。この獣人の家に入りて咋(かむ)ときは人疾(やめり)。黄帝これを殺したまう。これより人疾むことなし、これを恙無しと謂う」[已上]
 『爾雅』に曰く。「恙は憂なり。言うこころは恙無しとは憂え無しと云う義なり。これは只字義に依る。」[已上]
 應卲が『風俗通』に云う。「上古の時は室(いえ)無くして野に住み草に臥す。この故に恙と云える虫来て人を噬(かん)で苦しましむ。故にその時の人々先づ問うに恙無しやと曰う。」[已上]
 上の三説あるいは恙を獣とし、虫とし、あるいは無憂と謂えり。『廣干録書』には兼ねて憂と及び虫と取り、『事物紀原』には憂と及び獣とを取る。

よこみち【世読】No.1 「無事是貴人」

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 本編の「息災とは災(わざわい)を息(やむる)と云う義なり」という「義」が真言家のものだとすれば、この義に近い禅家の言葉に「無事是貴人」というものがある。
 字面をなぞれば、何事もなく無事に過ごすことこそ貴人のありかた、とでも言えるだろうか。だがこの語の典拠『臨済録』に立ち戻ると事情はやや違うようだ。

 無事是れ貴人、ただ造作する莫れ、ただ是れ平常なれ。なんじら外に向かって傍家(のきなみ)に求め過(ゆ)きて、脚手(たすけ)を覓(もと)めんと擬(ほっ)さば。錯了(あやまれり)。
 「無事」であるのこそ貴き人。ともかく拵(こしらえ)ごとをしてはならぬ。ただ「平常」であるのみだ。外で一軒一軒たずね歩いて、自分を助けてくれる者を得ようとすれば、もうすでに誤ってしまっているのである。(読み下し、訳出はともに小川隆臨済録・禅の語録のことばと思想』)

 ここに言う「こしらえごと」がなにを指すか解れば話が早い。「あるがまま」「自然のまま」という言い方さえ近頃はメディアにひっぱりだこで、果たして唐代禅僧の本意がどの程度伝わるか心許ないが、本編の息災とは基本的に異なる言葉であることはあきらかだろう。しかしながらこの言葉と同じ系列にあるはずの「平常心是道」という言葉。これまた当世の禅家ではよく使われるところだけど、なにやら「無事是貴人」よりも「息災」寄りの解釈が多いように思うのは気のせいかな。

【世読】No.1 「息災」巻一〈倭文用語類〉(web読書会『世説故事苑』)

Cuz sitting on your hind legs is just too main stream... We'll done hipster frog.

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0364-002402&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E4%B8%96%E8%AA%AC%E6%95%85%E4%BA%8B%E8%8B%91%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=6

 これ真言家(しんごんけ)より出づ。護摩の法に息災(そくさい)、増益(ぞうやく)、降伏(ごうぶく)、慶愛(けいあい)等の異あり。息災とは災(わざわい)を息(やむる)と云う義なり。外(げ)には水火等の災い、内(ない)には病悩(びょうのう)等の災いあり。この如くの諸の災を息る法を息災護摩の法と云う。俗に恙無きを息災と云うはこれなり。
○慧琳の『略説護摩法』に曰く、「梵には扇底迦(せんちぎゃ)、唐には息災と云う。」
○『大日経』「護摩品」に云く、「これはこれ息災の法なり。災いに無量有り。謂く外(げ)の世間水火虫霜降蝗等の種種の災耗(さいごう)及び内身の一切の病悩の類の如き、その形万端(ばんたん)なり。自身他身みなよくこの障を浄除す。またこれ息災の義なり。」

【世読】(web読書会『世説故事苑』) prologue 序文

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以前行なっていたweb読書会、新しいテキストに換えて再開します。
 今回取りあげたテキストは『世説故事苑』です。書誌を以下に示しておきましょう。
  全5巻(5冊)
  著者 子登
  出版 正徳6年(1716)
 というわけで前回の『和漢真俗仏事編』と同じ編著者・子登の作です。内容は「世説故事」という名の通り、世間に流布している事物名称の故事来歴に関するもの。前回馴染んでいた文章と同じ作者なのでほぼ違和感はないと思います。ちょこっと違うのは以下の点。
 一、必ずしも仏教に関係していない項目もたくさんある。
 『和漢真俗仏事編』は仏事に関するものでしたが、今回は雑多な題材をなんでも採りあげているもの。この点、仏教研究者にはなんの関係もないものもあり、一方それぞれの好事家には興味しんしんのものもあり、ということをお断りしておきます。

 テキストは国文学研究資料館でweb公開しているものを使うことにします。今日現在、ネット検索すると複数の公開画像がヒットしますが、不特定多数の人がご覧になるであろうこの読書会のスタンスからして、ある程度公的性格のネタ元の方がよいと考えました。

 読書会のスタイルは『和漢真俗仏事編』の時と同様にします。まず【世読】と題して『世説故事苑』の本文と該当部分の訓読を掲げます。その際原文が確認できる画像アドレスを示しておきます(これが国文学研究資料館のものになります)。その後に「よこみち」と題して、本文に関わるエッセイを掲げます。エッセイは管理人の自由な発想で展開しますので、下世話な話題に終始する場合もあり、ちょっとだけ専門的めいた話題に触れることもあるかもしれません。この二つを本文の叙述に沿ってくり返しアップいくというものです。ご覧いただいたみなさんは。それぞれ自由な立場からお好きに突っ込んでいただければけっこうです。更新のペースなどまったく決めておりません。気まぐれな管理人ですので、その点はどうぞお許し下さい。
 そして始める前に大事なことを一つお断りします。
 じつは『世説故事苑』の読書会は今回webで行なう以前に、管理人とリアルな仲間で行なっています。ですから訓読部分については、管理人だけが読解したものではなく、リアル読書会参加者全員の手によっているものです。そのメンバーの名前を以下にあげておきましょう。大佐賀正信、佐々木賢龍、佐藤宗明、佐藤善廣、佐藤美由起、滝沢信、松橋睦子、渡邊紫山、と管理人の9名です。ご紹介ついでにこのリアル読書会は月例一回の開催で、毎回各担当者が訓読レジメを作成し、それをもとにみなで読み合わせるというスタイルのものです。初巻から始めてあと二~三回で全巻読了できる見込みです。
 
 それでは最初の訓読として序文から読んでまいりましょう。
 
【世読】(web読書会『世説故事苑』) prologue 序文

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0364-002402&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E4%B8%96%E8%AA%AC%E6%95%85%E4%BA%8B%E8%8B%91%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=4

 貧道が居、嘗て大聚楽に接せり。このゆえに雨晨、月夕に茶を以てあい簪(あつま)る者は、多くは素客なり。炉に椅(よっ)て団座し、壁に靠(よっ)て雑話す。動(ややも)すれば輙(すなわ)ち、率爾(そつじ)として疑を発して問うことはみ咸(みな)俗事なり。
 余、これがために答えるに必ず典拠を以てす。間(まま)試みに左右に命じてこれを記せしむ。積みて軸となり、名づけて『世説故事苑』という。
 古(いにしえ)にいわく、「善く問いを持つ者は、鐘を撞くがごとし。これを叩くに小を以てすれば小(すこ)しき鳴り、これを叩くに大を以てすれば大いに鳴る」と。冀(こいねがわ)くは、後の覧(み)ん者、その俚語を解くを以てその鄙拙を嘲(あざけ)ることなかれ。
  宝永七庚寅(1710)の秋
  世説故事苑の首(はじめ)に書す
  浪花生玉沙門子登

〈最終回〉よこみち【真読】№146「やっぱり仏?」

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 本編の編著者・子登とは密教系修験者じゃないだろうかと以前に目星をつけていた。修験者はまた仏教-神道の双方にわたるほぼオールマイティな教養を持っている。で、この人の場合は、神道よりは仏教の方に、仏教の中では密教に、より肩入れが強い。今回の項目もそのことがよくわかる一項だ。
 じつはこの項目、『和漢真俗仏事編』の最終項目でもある。「真俗仏事」という幅広いジャンルにあって、硬軟とり混ぜて展開してきたシメが「神道の用語だって仏教語がたくさんあるぞ」という話だというのもおもしろい。

 さて今回をもって【真読】こと【web読書会『和漢真俗仏事編』】のおしまいとなる。
 2015年2月に始めて以来三年を超えたわけだが、こんな試みにおつきあいいただいたみなさまに心から感謝したい。どうも長い間ありがとうございました。
 本編の『和漢真俗仏事編』はざっと200余の項目があるのだけど、その中からあまりに専門的な展開をしているものを除いて、私自身の関心から146項目を取りあげ、それぞれにずいぶんと勝手なエッセイを寄せてきた。本編の性格や著作者にして編者の子登についてはすでにいろんな角度から取りあげてきたので、ここに到ってはあれこれ言わずにおこう。かなりのベストセラーにしてロングセラーの書物にしては、意外なほど取りあげられることの少なかった本である。さしたる深読みはできなかったものの、ひとわたり読み終えて、正直なところなんとなく満足している。もしもなんかの役に立つのであれば、リンクかけてある元blogの中では検索自由なので、興味ある方は気楽にのぞいていただければいい。
 【真読】はこれで終わりとなるが、fbの【仏事習俗アラカルト】の方はこのまま続けるので、今まで同様、いろんな情報交換の場としてお使いいただければありがたい。じつはまたもや【web読書会】をもくろんでいるのだが、新しいテキストについては近々ご紹介したい。と言っても根が気まぐれな不精者なので近々とはいつ頃になるのかお約束できない。ではそのうちに。