BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№115「“してあげる”ことを布施と云う」

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 コンビニのレジなんかでよく見かけるおつりの時にでたこま銭などを入れるためにおいてあるだろう箱。「アフリカの恵まれない子どもたちへあなたの善意を」とか「いまだ困っている被災地へささやかな支援を」とか添え書きがしてある。場面は違うけれど、テレビCMで「たった●●円で救えるいのちがある」というテロップをアフリカあたりの難民キャンプで目に涙を浮かべた子どもアップなんかと一緒に流している放送。これにたぐいするものってあちこちで目にするようになった。
 これどうなんだろう? という思いがいつもよぎる。
 たしかに一方の人たちにとってあまり重要な意味を持たない価値が違う一方の人たちにとっては小さくない意味を持って受けとめられることがある。そうだよね。だから気軽にできるささやかな気持ちをどこかへ贈ることっていいことだよね。と言われているようだ。
 生飯を出すという行為はこれによく似てはいないか。人間の施すほんの七粒ほどの米飯が、餓鬼たちにとっては渇えた腹を満たすほどの布施だという。
 きっとひっかかりがあるのはこうした言い方に「持てる者から持たざる者へ」、もう少しあざとい言い方をすれば「優位の者から劣位の者へ」という構図が潜んでいるように感じるからなのだ。
 ある人から言われた。「だってそんなのもらう方からすれば相手がどんな気持ちだってかまわないんだよ。実際に益になるんだったら」と。
 たしかにな。
 以前もこれと同じような感慨を綴ったことがあるのだけど、今回はその時に明かさなかったことを述べたい。
 ある女性の話である。もう三十年も前のことだが、なにかの広告チラシにさっきのようなアフリカで困っている事態と募金を呼びかけるPR文を目にとめたという。するとその人は自分の預金口座から十万円をそこに書いてあった募金受付口座に振り込んだ。当時、経済的に余裕のある立場の人ではなかった。窮屈な生活というわけでもなかったがしかし十万円は大きな金額である。その話を聞いた私は、正直なところ〈もったいない〉という思いから、そんなのちゃんと届くかどうかわかんないらしいよという意味のことを伝えた。だがその人は意に介した様子はなかった。
 同じその人が二年ほど前に、かつてよく遊びに訪れていた神社が火災のため再建するという情報に出会った。誰でも知っている観光地にある神社で、火事の時に話題にはなったが、その人は特に氏子であるわけでもなければ、他に縁者のつながりなどもない神社だった。たまたまドライブ先でだそのニュースを聞いたその人は、持っていた銀行カードでATMから十万円を引き出して、近くまで行っていたその神社に立ち寄り、仮説社務所でその金額を託してきた。その人はいまでは特に収入のあるわけでもない無職のふつうの主婦である。またしても、もったいないという気持ちが私には起きたが、今回は黙っていた。
 人のために自分でできることをするという行為、それを仏教では布施というらしい。いま挙げた前者の例と後者の例、どちらもそれに該当する行為だと思うが、内容的にはかなり違う。けっして前者を軽んじて後者を賞賛するという意図ではないのだが、私にとっては「人に何かをしてあげる」という行為の重さを考える大事なきっかけになっている。
 「ひっかかり」の理由が分かってもらえるだろうか。
 今朝のニュースでチベットの鳥葬を観た。遺体を野生のハゲタカの餌に供する場面。鳥葬士と呼ばれる男が支度を調えると、周囲に待ち構えていた無数の猛禽類が屍にたかる。「遺族たちは故人が最後の功徳を積む様子を見守っていました」とナレーション。おもわずジャータカ・月兔の話を思い出す。
 財布のじゃまになる小銭、かりそめの情報に触れて預金口座から引き出す十万円、家族に見守られながら群がるハゲタカに喰らい尽くされる人体。
 布施の浅深と軽重と・・・。