BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№123「教えてSiri」

とても初歩的なことのように思えていささか恥ずかしいのだけど、正直に話してどなたかに教えていただこうと思う。

 うちは曹洞宗のお寺だけど、庫裏の中に仏壇があって、そこには私の祖父母ほか亡くなった親族の位牌を祀っている。で、そこを「お内仏」と呼んでいる。
 たまたま近頃ある出版物に掲載する読み物の原稿で、登場人物のお寺のこどもがお内仏の祖父の遺影を指さす場面を書いたところ、編集担当者から「お内仏って何ですか?」と聞かれた。え、それ知らないの?と説明すると、彼もお寺の子弟だったのだが、「うちは今も元気な父の代からお寺の住職になったので、お寺の中には親族の仏壇がないんです」という答え。あ、そういうケースもありか、となんとなく納得した。
 今回の本編の言う「内持仏」とはその発生事情が違うだろうと思うのだが、そんなわけで「内仏」についてちょっとひっかかってしまった。
 浄土真宗以外の日本仏教諸宗派が住職の婚姻を公認されるのは一般に明治五年からと言われている。当時は賛否色々だったようだが、結局、婚姻し家族生活を営む「お坊さん家族」が日本中を席巻してしまった。こうなると家族の中から亡くなった者は順次故人として仏になり、仏壇に入る。それが今言った「住職家族の故人を祀る仏壇」としての「お内仏」というわけだろうか。
 そんなことを思いながらあれこれ見ていたら、浄土真宗の「お内仏」の考え方に出会った。真宗では仏壇と内仏はちゃんと区別するのだという。

 以下はネットで拾った真宗大谷派の例。

 浄土真宗では、「お仏壇」のことを特に「お内仏」といいます。みなさん、お仏壇とお内仏の違いがわかりますか。これがわからないと、真宗南無阿弥陀仏の教えがわかりませんよ。
 みなさんの町に、「仏壇店」があるでしょう。全国に○○仏壇店とか、何々仏壇店とかあります。でも、○○お内仏店とか、何々お内仏店とかはありません。これはどういうことでしょうか。「仏壇」は売買の対象で、売ったり買ったりしますが、「お内仏」とは売ったり買ったりする対象ではないということです。我が家にお内仏があるということは、我が家には“金では買えんものがあるのだよ”ということを教えているのです。金で買えんものとは、“いのち”です。お内仏は、いのちの尊さを教えている。そういう人間形成の文化を“お内仏”といいならわして伝えているのです。お仏壇を買い求めてくる。そして、その中に阿弥陀様の軸をお掛けし合掌する。その瞬間に、仏壇はお内仏になる。手を合わせなければならんほどの大切なことを、み仏に手を合わせる形で教えてあるのです。そして、“いのち限りなからん、光り限りなからん”とみ仏より私に呼びかけられているのです。
 日頃、私達はお仏壇と言いならわし、又、聞きなれていますが、この違いだけは認識しておいて下さい。(引用以上)

 ふむふむ。こうなると仏壇と内仏とを同義に考えていた自分をちと反省したりする。でも、ということはうちの方の宗派で仏壇を内仏と呼ぶようになったのは、近代以後のことだとしても、それは真宗経由の呼称だったのだろうか。

 さらにうちのような地方の小寺では本堂以外に(家族の仏壇以外の)、別置の仏像安置の場がないので、「内持仏堂」「持仏堂」と呼んでいる場所がないのだが、「内持仏堂」と「お内仏」の連続性ってあるのかな?