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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

大場南北「鏡清雨滴一首考」『道元禅師和歌集新釈』(1971、中山書房)

 鏡清雨滴一首考

 聞くままにまた心なき身にしあらばおのれなりけり軒の玉水(面山本)

 (一、類歌 二、古人の解釈 省略)

 三、一首について

 この詠歌は、その題名と共に、どのような子写本にも見あたらない一首で、面山和尚は、一体これをどのような文献から捃摭したのか、杳としてその出所を知ることのできないものである。

 面山和尚の編纂した「傘松道詠集」には、なおこのような、根拠の分からない不明の詠歌が外にもある。

 このようなことから、いま世間で普通呼んでいる「傘松道詠集」という文献は、単な面山和尚だけの永平歌集で、本当の永平高祖詠歌集というものは、このような面山本とは別個のものであるという、新しい認識を必要とするほどである。

 

 →たしかに『建撕記』諸本にはこの和歌は(文字の異同の可能性あるものも含めて)見えない

 

 b 中世曹洞宗抄物資料に見える「鏡清雨滴一首」

 

 ① 大空玄虎(一四二八~一五〇五)の『碧巌大空抄』

    『碧巌録』第四十六則「鏡清雨滴」

    永平之詠歌に脱白に被読 聞く儘にげに心ろ無き身にあらば己れなりけり簾の玉水

    

 ② 川僧慧済(?~一四七五)の『人天眼目抄』(足利学校本、※松ヶ岡文庫本もほぼ同文)

    『人天眼目』巻四「三界惟心 三界惟心萬法澄、盤鐶釵釧一同金、映階碧草自春色、隔岸黄鸝空好音」(大正蔵四八・三二四b)に注した箇所。文明五年(一四七三)の講義録

    ○三界唯心 三界ヲ我カ心トスルハ私タゾ。三界ヲハタラカサズ置テ心トシ、万法ヲハタラカサズ識トシテ看ヨ。三界ヲハタラカサズ心ト見レバ、万物ノ偈ハ一ツモ無ソ。只一心ダゾ。盤トナリ、鐶トナリ、釵トナリ、釧トナルモ、只一同金ダゾ。○映階碧草自春色、隔岸黄鸝空ク好音。自ト見レバ、色ノ上色カ立ヌゾ。空シクト見レバ。声ノ上ニ音声モ立ヌゾ。証拠ニハ、永平ノ御歌ニ、聞ママニ又心ナキ見ニシ在ハヲノレナリケリ簷ノ玉水。映階碧草自春色、隔岸黄鸝空好音。此旨如何。代云、若無閑事掛心頭人間便好時節。

    

 a・bをふまえて

 

 大場は、道元禅師の和歌集を『建撕記』編集の過程で成立したものと捉えている。よって、『建撕記』諸写本に見えず、『傘松道詠』に収録されている和歌については、面山が捏造したものであるかのような厳しい批判を展開している。その立場から、『傘松道詠』とは、面山が道元禅師の和歌ではないものもの勝手に創作し編集したものであるから、道元禅師の和歌集と呼ぶにはふさわしくないもの、と批判している。

 だがbの例に見るように、面山以前の抄物資料に、現在知られている『建撕記』諸写本に見えず、かつ『傘松道詠』に収録されている和歌が存在することをどう考えるか。

 このことは『建撕記』に編集されたもの以外にも道元禅師作と伝えられる和歌が存在し、曹洞宗派下の中で受容されてきたことを示す。あるいは現在知られていない『建撕記』写本があって、そこに収録されていた可能性もあるが、いずれにしても大場の考えは改められなければならない。

 そして、面山の『傘松道詠』編集の意義は再評価されるべきと考えられる。面山は『建撕記』諸写本に収録された道元禅師和歌と共に、『建撕記』以外の諸資料も広く渉猟して『傘松道詠』を編集したものと見てよいであろう。大場に欠けているのはこの視点でである。