BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

高橋文二「解説・春は花」『原文対照現代語訳道元禅師全集17・法語・歌頌等』201012、春秋社

(昨日分)

 詠本来面目

 春は花夏ほととぎす秋は月冬雪きえですずしかりけり

「春の花も夏のほととぎすも、また秋の月も冬の雪の消え残っているさまも、みなそれぞれ自己本来の面目を十全に表し、相対的なありようを超えていのちのかくれなき真実の姿を表している。私自身もそういういのちの表れであり、そのいのちを全うすべく只管打坐に努めていると、心は澄んで、まことにさわやかになってくることだ」

「冬雪きえですずしかりけり」

→「消えで(消えないで)」の意に取る

 『建撕記』諸写本は「きえて」「消えて」と、「て」は清音になっているが、濁点を入れないのは古写本の通例という。

 「冬雪さえて」という言い方、とりわけ「さえて」という形容は『新古今集』や『千載集』に多い言い方であり、歌の格調を高めているとも言えるが、そうしてそれゆえに川端(康成)も採りあげているのであろうが、こういう形を取る伝本が(湧)本とそれを承けた面山校訂の『傘松道詠』のみというのはまことに心細い。「本来の面目」を詠じた歌としては、つまり道詠歌としては先に掲げた「雪きえで」の本文の方が、平凡となってしまうが、ごく自然である。」

 

杉尾玄有「新古今歌壇と道元禅師-「春は花」一首考」『宗学研究』24,198203への批判

 「いろいろ教えられるところの多い論ではあるが、いろいろと問題があるのではないかと思う。その気にかかることを二点ここに記しておきたい」

 

1)杉尾は、道元の四季の歌の固有性を言うが、季節ごとの特徴を挙げて四季を詠むというのは王朝和歌にあってはごくふつうの形式。

2)『高倉院昇霞記』に収録されている通親の歌(春は花夏はうつせみ秋は月あはれはかなき冬の雪かな)と道元の「春は花」の解釈を

杉尾は、道元の歌を踏まえているというよりも「むしろ通親の歌を摂取し救済している趣がある」とするが、

高橋は「高倉院の過去の自責への作者(通親)の思いと、崩御から受けた嘆き、悲しみは、この追悼の記の主調低音というべきものであり、総じてまことに王朝文学的な恋慕の文章となっている。思い出という言い方は美しいが、仏教的な視点で者を言えば、はかなさを詠嘆し、存在しない時空に愛着する妄執の書であると評してよい。道元はこういう文芸世界をよしとしなかったであろう。そんなありようを否定するところから仏教者の生活は始まると、つまり妄執を棄て、無常というものを人の世の常として捉え、まさにそういう生死を人間本来の面目として凝視するところから仏教者の生活は始まると、考えていたと思われるからである」