BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

見理文周「「道元の和歌と漢詩」について」『国文学解釈と鑑賞』64-12,1999

 「彼(道元)は『新古今和歌集』の申し子のような存在である。すなわち、『新古今』の選定が終了する五年前、後鳥羽院がこの歌集を作るために和歌所を設置した翌年(正治二年・1200)に京都に出生した。そして、これまで道元の父とされてきた内大臣の源通親(大久保道舟説)も、その二男で現在は道元の父とされる大納言の源通具(中世古祥道説)も、さらにその弟で太政大臣の源通光も、みな和歌所の寄人や選者や和歌入集者として、この歌集の成立に係っている。通具の妻もまた、当代随一の女流歌人俊成卿女なのである。

 だから道元は、その『新古今和歌集』の世界ー優艶と幽玄な歌風や、高貴な人脈関係ーの中で生育した天性の詩人として、先天的に深い文学的資質と高い教養の持ち主であったろうとことは、疑いようがないのである」

 

「『新古今和歌集』について次の3点を確認してみたい。

 第一はこの歌集の特色として、〈縁語〉〈掛詞〉が多用され、〈句切れ〉〈体言止め〉、とくに〈本歌取り〉の技巧が競われ、そのために作者は古来の伝習に通じて、古歌への教養を必要とし、現在では〈剽窃〉にあたるようなことも認められ、むしろ通例化していたこと。

 第二に、『新古今』の最後、巻二十に「釈教歌」六十二首が載り、伝教・源信慈円・西行などの僧たちが、経文と仏教の来歴や述懐等を詠んでいること。それぞれの歌の題名からしても、これらが『傘松道詠』の先例とされたことが推察される。

 第三に、以上のことを確認させる根拠として、面山が、道元の実際に書写した『新古今和歌集』を切断し、それを〈真蹟〉として縁者に分施した事実が、保存された現物によって立証されていることである。

 以上のことから、道元の和歌は、本人の意向や立場にかかわりなく、それまでの書写と伝達のプロセスや面山の作為によって、本歌取り・類似歌・偽作・他人作が「道詠とされて流布したものと、推定されるのではないだろうか」

 

「私が一番好きなのか次の一首(中略)

また見んと思ひし時の秋だにも今夜の月にねられやはする

 (中略)この歌にこそ求道者道元の心情が息づいており、人間的実像をイメージさせる歌ではないかと思うのである」

 

「周知のように道元は、一切の芸術的営為を否定した僧である。(中略)

 つまり道元は、自分の生育した『新古今和歌集』的な世界を批判して、極力そこからの脱出を志向したのである。それは、『新古今』に世俗的な栄誉利達の虚実を見、文飾による「狂言綺語」の空華を痛感したからであろう。」

 

▲全体的に、杉尾玄有「『傘松道詠』一首考ー道元の新古今歌壇批判ー」『和歌文学とその周辺』(池田富蔵博士古稀記念論文集、1984、桜楓社)の影響が強い。「春は花」の理解、道元親族と新古今の関係など、ほぼ杉尾説を継承するものと言える。