BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

【真読】 №113「火車来たり迎う」 巻四〈送終部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号48

 問う、重悪人死するとき、火車来たり迎うこと、世俗専らこれを談ず。本説ありや。
 答う、提婆達多、逆罪を造るとき、大地自然に破れ、火車来たり迎えて生きながら地獄に入ると云へる、これなり。
 問う、いずくには出づ。
 答う、『智度論』十四に云く、
 提婆達多、出家して六万の法聚を誦す。十二年修行して仏の所に来たり神通の法を学ぶ。山に入りてこれを修し、五神通を得たり。自ら念(おも)へらく、「誰をか我が檀越とせん」と。王子・阿闍世王を瞻(み)るに、大王の相有り。遂に親しみを厚うす。王子、意惑うて祭園の中に大精舎を立て、提婆達多を供養す。徒衆となるもの少なし。ここにおいて自ら念へらく、「我、三十相あれば仏にも幾(ちか)し。もし大衆囲繞せば、なんぞ仏と異ならん」。かくの如く思惟して五百の弟子を得たり。
 しかるに仏、舎利弗・目連・五百の僧に説法教化して、悉く和合せしむ。
 その時、提婆達多、悪心を生じて、山を崩して仏を壓さんとす。金剛力士、即ち金剛杵を以て遙かに擲げければ、石、砕け迸(はし)りて仏の足の指を傷(そこな)へり。この時、華色比丘尼、大いに呵りければ、瞋りて拳を以て尼を打つ。尼、即時に眼出でて死す。三逆罪を作る。
 提婆達多、ここを去って王舎城の中に到らざるに、地、自然に破裂し、火車来たり迎えて生きながら地獄に入る。

よこみち【真読】№112「脳をすすり、眼をくり抜き」

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「ノドに血ヘド見せて狂い鳴く あわれ あわれ山の ほととぎす」
 井上陽水『帰郷』のフレーズ。死者とホトトギスとが並んでいる箇所を読むとふとこのフレーズが浮かぶ。刷り込まれているんだなきっと。

 『十王経』には内容の異なるものがあるが、本編で引用しているものの具名は『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』という。この経典、なかなかのいかがわしさで、その成立事情にしても内容にしても優れて興味深い。しばらく以前から手元に蒐めただけでも十種に余る註疏類をあれこれ読んでいる。ある人たちはこの経を真面目に取り上げるまでもない偽経としてはなはだ評価は低いのだが、アマノジャクな私にとっては無性におもしろくてしょうがない。と、十王経loveをいくら強調してもしょうがないので先へ進もう。
 『十王経』に言う如く、冥土の旅へ出かけた死者が旅路の冒頭で出逢うのが二羽の鳥。“別都頓宜壽”という鳴き声の無常鳥、“阿和薩迦”という鳴き声の抜目鳥である。『十王経』本文にこの続きをみてみよう。

 その時、知るや否や。
 亡人、答えて曰く、すべて覚知せず。
 その時、二鳥、忿怒熾盛にして亡人を呵して曰く、
 汝、人間(じんかん)に在りて罪業を恐れず。我、悪心を懲らさんがために、飲まざれども脳を啜(すす)らん。
 汝、人間に在りて罪業を恐れず。我、悪心を懲らさんがために、食わざれども汝が眼を抜かん。
 
 つまりは二鳥とも「悪心を懲らさんがために」亡人に呵責を加えるというのである。
 そこで今一度本編で話題にしていた『十王経』の文脈を顧みるために、註疏の一つに当たってみたい。ここで挙げるのは数ある註疏類の中でもおそらく一番と言えるくらい詳しいのではないかと思う浅井了意(1612-1691)の『仏説十王経直談』(1683刊)、全十三巻である。
 問題の箇所は巻四の、第三十五節~四十三節に当たる。丁数にして八枚の量なので、ここでは話題にしたいポイントを拾い出していこう。

 復次ニ古注ニ、別都頓宜壽ヲ呉音ニ去祈家命ト云ンカ如シト云フ、謂ク、襤褸鳥ノ怪語ヲ以テ鳴ク声ヲ呉語ヲ以テ訳スル則ンハ、去祈家命ト云ンカ如シト也。去トハ罪悪ヲ去ル所以ン、祈トハ修善ヲ命ト云ンカ如シト也。去トハ罪悪ヲ去ル所以ン、祈トハ修善ヲ祈ル所以ン、敗悪為善ヲ以テ警誡ス。
 蓋シ慕逆無道ナル者ノハ、天ニ違ヒ人ニ背キテ、果シテ家ヲ破リ命ヲ亡ボス。『無量寿経』曰く、「家ヲ破リ身ヲ亡ボシ前後ヲ顧ミズ、親族内外之ニイナガラニシテ滅スト」。然ルニ家ヲ祈リ命ヲ祈ルトハ、悪人諸ノ悪ヲ造リテ已マザル則ンハ、悪貫盈(ミツ)ル時キ、悪鬼集マリ襲テ、横禍横病ノ怪事興リテ、忽チニ破家亡命ノ災ニ至ル。唯能ク己ヲ顧リミテ非ヲ慎ミ悪ヲ止メ、善法慈心ヲ行スル則ンハ、諸天善神恒ニ衛護シテ、自然ニ災禍ヲ攘(ハラ)ヒ福徳ヲ成ス。是祈家命ノ謂ナリ。

 これが本編引かれていた無常鳥の鳴き声、「怪語を示して別都頓宜壽と鳴く(この鳥、呉語には〈祈家命鳴〉と云うに近し)」の部分の詳解となる。
 次いで、

 阿和薩迦トハ怪声ヲ以テ鳴ク音(コエ)ナリ。古注ニ呉語ノ病来将命尽ト云フニ近シト釈ス、未タ詳(ツマビ)ラカナラズ。
 按ルニ『翻訳名義集』ニ曰ク、「薩迦耶薩、此ニハ無常ト云フ。荀卿子曰ク、趨舎定メ無キ、コレヲ無常ト謂フ。唐ノ『因明正理論』ニ云ク、本ト無クシテ今ハ有リ、暫シ有リテ還タ無シ、故ニ無常ト名ヅク云々」。
 此ノ梵語ニ因テ今マ准(推カ)スルニ、阿ハ無ナリ。和薩迦ヲ常ト翻スルニ咎有リト為(セ)ムヤ。古注ノ意(ココ)ロ無常ノ義アリテ病死ノ二ツヲ挙グ。義翻ニ似タリ。『正法念経』ニ説カ如シ、胎蔵ニ於テ死スル有リ、生時ニ命終スル有リ、纔(ワズカ)ニ行(アリキ)テ便チ亡ズル有リ、能ク走テ忽チニ卒スル有リト。是少年ノ者ノト雖トモ無常ヲ免レス。
 
 これが、「怪語を示して阿和薩迦と鳴く(この鳥、呉語には〈病来〉と云うに近し」の部分の詳解となる。
 さて『仏説十王経直談』の解説を続けてみていこう。
 次は、「その時、知るや否や。亡人、答えて曰く、すべて覚知せず」についてである。

 是二鳥既ニ亡人ヲ警ルノ詞ナリ。所謂、襤褸鳥ハ別都頓宜壽ト鳴キ、烏鳥ハ阿和薩迦ト啼ク。汝、亡人、ソノ時ニ此ノ怪異ノ語ヲ聞知スルヤ否ヤト問フ。亡人、答テ曰、在生ノ日、数(シバシバ)此ノ声ヲ聞ト雖トモ、去祈家命トハ捨悪持善ノ義ナリ、病来将尽トハ無常遷流ノ理ナリト覚知セズ、ト云フ。
 謂ク一切人間ノ生涯ハ、電光石火ニ喩ルモ猶ヲ却テ鈍(ニブキ)カ如シ。因縁仮合シテ実無キコト、旋火輪ノ如ク、陶治器ノ如シ。徒(タダ)ニ無常ノ至ルコトヲ知ラス、空ク促(ツツマル)コトヲ覚セス、世路産業ノ営ミニ年ヲ失ナヒ、愛欲名利ノ為ニ日ヲ銷ス。月ヲ亘リ時ヲ踰テ、身命ノ衰耗ヲ観ゼズ、花ニ戯レ雪ヲ弄シテ、無常ノ追逼ヲ想ハズ。
 『出曜経』偈ニ曰ク「是ノ月已ニ過ク、命則チ随テ滅ス、少水ノ魚ノ如シ、是ニ何ノ楽ミカ有ラン」。況ヤ四相遷転シ、八風ノ臻(イタ)リ侵ス。
 『唯識論』ニ曰ク「本ト無クシテ今有リ、有ノ位、生ト名ヅク、生ノ位、暫(シバラ)ク停ルヲ即説テ住ト為ス、住ノ前後ニ別ナルハ、復タ異名ヲ立ツ、暫ク有テ還タ無シ、無キヲ滅ト名ヅク。前ノ三ハ有ルガ故ニ同ク現在ニ在リ、後ノ一ハ是レ無ナルガ故ニ過去ニ在リ」ト。
 既ニ一生ヲ終テ亡滅ニ至ント欲スル時、忽チニ病患ヲ受テ、身心ヲ懊悩ス。若シ夫レ可療ノ病ハ、医ヲ待テ而シテ差(イユ)ヘシト雖モ、必死ノ病ハ聖神モ蠲(ノゾク)コト能ハス。
 『大論』ニ曰ク「四百四病ト云ハ、四大身為ル常ニ相ヒ侵害ス。一一ノ大中ニ百一病起ル。冷病ニ二百二有リ、水風ヨリ起ルカ故ニ。熱病ニ二百二有リ、地火ヨリ起ルカ故ニ」ト。是レ一病起ル則ンハ、遍体ヲ悩マシ身心ヲ苦シム。
 此ノ時ニ臨テモ猶未タ死想ヲ生セス、後世ノ需メヲ作コト無ク、唯薬餌ノ療養ニ意ヲ止メ、神仏ノ祈願ニ思ヲ掛テ定業果シテ寸効ヲ得ズ、終ニ死滅ニ至リ、魂神去テ歯塗ニ趣ク、是即チ都不覚知ノ謂ナリ。

 次いで、「その時、二鳥、忿怒熾盛にして亡人を呵して曰く、汝、人間(じんかん)に在りて罪業を恐れず」の部分。

 是レ二鳥ノ忿怒呵責ハ、亡人ノ警語ヲ覚知セサルニ依テ来起ス。二鳥ハ乃シ形質ヲ禽類ニ現化スト雖トモ、本地ハ仏菩薩ノ応作ナリト知ルベシ。問鳥ニシテ人語ヲ囀ヅル者ノ、鸚(母+鳥)・秦吉了・鴝(谷+鳥)・八哥児等ノ数種アリ。今此ノ無常・抜目ノ二鳥、是人間ニ在テ杜宇・烏鴉(ヲウア)ト称スル則ンハ、鳴音都(スヘ)テ人間ニ通ゼズ。何ゾ強テ忿責スルヤ。
 通ジテ曰ク、上古ノ時ハ人皆淳厚ニシテ万物ノ情ヲ知ル。草木鳥獣悉ク音韻相ヒ通ス。漸ク下世ニ及ヒテ人更ニ聞テ知ルコト能ハス。或ハ云フ、弘治長能ク禽語ヲ知ルト。東方朔・袁天罡等、皆能ク風角ノ占ヲ以テ鳥語ヲ知ルコト書典ニ載ス。況ヤ去祈家家命・病来将死ノ語音ニ於テ覚知セサランヤ。
 復次ニ、特(ヒト)リ二鳥ノ鳴テ警スル耳(ノミ)ニ非ス。日㬢ノ出没、月魄ノ虧盈(キエイ)、四時ノ運行、草木ノ栄枯、皆悉ク言スシテ教誡スル所ロ、無常遷変ノ道理ニ非スト云コト無シ。
 況ヤ復タ目前ニ見聞スル所ロ、前後相違ノ歎キ、多少死喪ノ愁エ、貴賎貧富誰カ免ル者ノ有リヤ。是ヲ見、彼ヲ聞ク、方ニ我身ヲ遺(ノコサ)ンヤ。何ソ早ク未来ノ資糧ヲ求ムスシテ、空シク生キ徒(イタズ)ラニ死シテ、迷路ニ吟(サマヨ)ヒ到ル者ノ、豈ニ不覚知ノ癡人何ソ忿責セラレンヤ。

 以上は『十王経直談』の解説部分の一部であり、引用はしていないがこのほかに各字義の考証にまで踏み込んでいる。著者である浅井了意の博捜の凄さに圧倒されるばかりだ。いくつか読んできた『十王経』註疏類の中では白眉と言えるものだ。だが了意の解説にうなったのはさらに別のところにある。それは『十王経』本文の以上に続くこのくだりの終の文章、すなわち、
「汝、人間(じんかん)に在りて罪業を恐れず。我、悪心を懲らさんがために、飲まざれども脳を啜(すす)らん。
 汝、人間に在りて罪業を恐れず。我、悪心を懲らさんがために、食わざれども汝が眼を抜かん」
についての解説である。
 この文このまま読めば、亡人の悪心を懲らしめるために、かたや無常鳥はその人の脳みそをすすり、かたや抜目鳥はその人の目ん玉をくり抜くという、いかにも原色地獄絵図を想起させるようなスプラッタ記述である。そしてたしかに他の註疏では、そんなひどい目に遭わぬように悪心を抱くなよ、と恫喝するのであるが、了意はそうじゃない。その落としどころはすこぶる揮っているのである。以下に、「啜脳」の場合、「抜眼」の場合の二つをどのように解説しているのか引いてみよう。

 所謂、迷本ノ髄脳ヲ啜竭(ススリツク)シテ、正道ノ真血ヲ補成スル所以ン、亦再タヒ此ノ獄苦中ニ廻リ来ルヘカラサルコトヲ勧懲ス。

 是、所謂、凡ソ眼、惑溺シテ実際ニ暗シ。是ヲ慧眼盲(メシイ)タリト名ク。縦令(タト)ヒ肉眼明瞭ナリト雖トモ、真正ノ大道ヲ見サル者ヲ無眼人ト名ク。唯ダ色塵ヲ照見シテ、業悪ノ基ト為(ナレ)トモ、自ラ心性ヲ観(ミル)ニ聡明ナラズ。此ノ眼、乃シ面表ニ在テ益スル所ロ無シ。故ニ今マ迷理ノ癡眼ヲ抜テ、正道ノ慧眼ニ換ント云フ。

 脳を啜るのは、迷いの本である脳髄を吸いだし、正道の真血を補成するためであり、目を抜くのは、迷いの癡眼をくり抜いて、正道の智慧の眼に取り換えるためだというのである。
 ここに「啜脳」「抜眼」がたんに勧善懲悪のための拷問をイメージさせる悲壮な解釈から、迷いから正道へと転換させるための譬喩として理解させるという解釈に、そのステージをあげていることがわかる。註者・浅井了意の力量と言うべきだろう。

 ここに見たように、人が迷妄の癡闇から、智慧の光明へ転ずるきっかけ、その大きな一例は、自分のあるいは自分に置き換えてもよいほどの近親者の〈死〉に出逢うことだ。『十王経』の物語中では、その機会に恵まれているのは「亡人(死者)」だが、『十王経』が読者として想定しているのは言うまでもなく生者である私たちだ。
 『十王経』は、生者をして死者の追体験をさせることを通じて「悪心を懲らし」、さらに『十王経直談』は、死者の体験する生理的な痛みを、仏教の求道的精神へと転換する回路を示していると言えるだろう。
 擬似的に、あるいは実際的に、死に直面すること。人の成長する契機はそこにあるらしい。

 そういえば井上陽水の『帰郷』には、「危篤電報を受け取って」という副題が添えられていた。どうやらそこにも刷り込みがあったようだ。

【真読】 №112「冥途の鳥」 巻四〈送終部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号47

 問う、葬送の龕などに居る冥途の鳥は杜鵑(ほととぎす)の事と聞く、然るや。
 答えて曰く、これ『十王経』に襤褸鳥(らんるちょう)と化し来て別都頓宜壽(ほととぎす)と鳴くと云えるを倭俗誤って子規(ほととぎす)とす。けだし別都頓宜壽はこれ梵語なり。何ぞ倭語に用いて杜鵑(ほととぎす)とするや。それ襤褸は布穀の事にして鳩の流(たぐい)なり。彼の経文をみてよく暁(あきらか)にすべし。
 『十王経』に曰く、「閻魔の卒、三魂を縛して関の樹下に至る。二鳥、棲(す)み掌(つかさ)どる。一を無常鳥と名づく。二を抜目鳥と名づく。我、汝が旧里に化して襤褸鳥と成りて、怪語を示して別都頓宜壽と鳴く(この鳥、呉語には〈祈家命鳴〉と云うに近し)。我、汝が旧里に化して烏鳥と成りて、怪語を示して阿和薩迦と鳴く(この鳥、呉語には〈病来〉と云うに近し。将に命尽くべし。私に云く、これ皆な無常を示し鳴くなり)」。

よこみち【真読】№111「年頭偶感」

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 本編の画像に貼り付けた「おそ松くん」。テレビの放映は1966年2月から1967年3月だったらしい。
 その頃、それまで家族でお世話になっていた秋田市内のお寺を離れ、両親と妹の家族四人で、小さな貸家に住み始めた頃だった。おそらくその転居に合わせて白黒テレビをふんぱつしたのだろう。イヤミやチビ太など主人公の六人以上にキャラの立った脇役たちがテレビで活躍していたのを憶えている。小学校入学を翌春に控えた年のことだった。
 祖父母の住むお寺は貸家と同じ集落内にあり、子どもの足でも十分もかからないほどの距離。それでも同居しないのにはそれなりの事情があったと知ったのはずっと後のことである。そんな「事情」に無頓着なのはいつの世も子どもの常で、新しくできた友達仲間とよくお寺に遊びに行った。中に上がり込んでと言うのではなく、建物外の境内あちこちが目当てだった。裏に桑の木が何本もあり季節になると子どもたちはそこへ群がって、熟した桑の実を指先と唇が紫色に染まるほど飽きずに食べた。池には昔養鯉をやっていたという名残の鯉が何匹もいて一メートル近い大物が出てくると歓声を上げた。本堂玄関前には石とモルタルでしつらえたタタキがあり、ところどころ剥がれているモルタルのかけらで石蹴りに似た遊びに興じていると、よく祖父から叱られた。
 はっきりしないがたぶんお盆の前頃だったろうか。私たちが境内で遊んでいると近所のお婆さんが六地蔵のところへやって来た。なにしに来たの?と寄っていくと、これ取り替えるんだよと言って、地蔵菩薩のかけている赤い前垂れを一つずつ新しいものに掛け替えていった。聞けば自分で作ったものだという。すすけた前垂れから、鮮やかな赤い前垂れに変わったお地蔵さんは、地蔵菩薩それ自体が新しくなったように見えた。その時の気持ちを当時は言い表す言葉を知らなかったが、とても尊い行ないのように思え、このお婆さんには敬意を持って接しなくてはいけないという気持ちになった。それは後に芽が出て私の中に抜きがたい根を張ることになる一つのタネだった。
 その後、さらにいくつかの「事情」の積み重ねの果てにこのお寺の住職と成り、歳の改まった今日、三十一年目を迎える。あの時のお婆さんが宿してくれたほかに、いくつものタネをいろんな人たちからいただいた。このお寺に縁のあった自分を支えている根っこは、そんなたくさんのタネから生まれたものだ。
 元旦のご祈祷を終えて明るくなった外を見ると、気温が高いのか雨がちの模様で、例年ならまっ白に掩われている境内は雪が溶けてアスファルトが黒く見えている。暮れの12月、あの時とは別のお婆さんが「お正月来るから」と赤い前垂れを新調してくれたお地蔵さんが六体並んでいる。

【真読】 №111「六地蔵」 巻四〈送終部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号47

 具(つぶさ)には『谷響集』の中の如し。しかるに菩薩は普現色身三昧に入りたまへば、無辺の身を現ず。観音の三十三身の如し。今、六地蔵は六趣に普現したまうなり。
 ○『元亨釈書』に曰く、
 周州の玉祖(たまおや)の神官・惟高(これたか)は、累代の神職なれども、仏法を信じ、つねに地蔵菩薩の号(みな)を唱う。長徳四年(998)のころ、病みけるに六日を過ぎて俄に死せり。たちまち曠野に赴き路に迷う。時に、六たりの沙門来たれり。一人は香炉を持ち、一人は合掌し、一人は宝珠を持ち、一人は錫杖を持ち、一人は華筥(はこ)を持ち、一人は念珠を持つ。
 しかるにその中の香炉を持ちたる沙門の曰く、「汝、我らを知るや」。
 惟高、「知らず」と対(こた)う。
 沙門の曰く、「我らは六地蔵なり。六道の衆生を救わんために六種の身を現ず。汝は巫属なれども、久しく我を信仰せしを以て、今、汝を本国に還らしむ。汝、必ず我らの像を造って恭敬を致せ。我が居、南方に在り」と。
 聞きおわるに夢の覚むるが如くに蘇(よみが)える。すでに三日を経り。惟高、六地蔵を刻んで一宇に安じ、七十余歳まで地蔵の号を唱えて瞻礼供養して終わる。

よこみち【真読】№110「古い人間とお思いでしょうが」

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 「生まれ変わって花になる」
 「自然の大きな循環の中に回帰する」
 自然葬の魅力をアピールするコピーはなかなかキャッチだ。
 今回の本編もまさにこうした自然葬が「上品」の葬法なのだと後押しをするような典拠になりそうだ。
 実際には身肉を焼却して残った焼骨だけを原野山林あるいは河海に捨てるものらしいから、本編で言う水葬や林葬のように、「身肉を有情に施す」とは似て非なる事は否めない。今日的な自然葬のスタンスは、あくまでも施される「有情」の側にあるのではなくて、「施す」主体側の心情にあるのだと思う。
 こんなやや皮肉めいた言い方になってしまうのは、私の中に自然葬に対するかすかなな疑念があるからだ。自然葬という考え方に対する一種の「胡散臭さ」が。
 それは20年以上も以前、自然葬が話題になり始めた頃から感じていて、僧職以外の仕事の一つとして、葬送に関するある研究委員会に所属し、樹木葬や手元供養など、伝統的な墓石葬法に関わらない「新しい」葬法の情報に接するようになって、いっそうその違和感を抱えていた。ただその違和感の正体がなにに由るものか自分でもはっきりと言葉にしてきたわけではない。よこみち№107「礼塔」でも触れたが、あらためて今回のテーマに遇って、その正体をきちんと考えてみたい。
 その研究委員会の席上、話題になった一つに自然葬を実際に行った後の遺族の思いに関する追跡調査があった。その葬法は、火葬の際に焼骨を灰状にし(火加減で調節可能だという)、沖合まで出た船の上から海上に振りまくというものだった。当初はその一回だけで終わる予定だったのが、遺族からの要望強く、翌年、翌々年に一周忌、三回忌の供養が求められたという。そうした伝統的宗教儀礼に規制されないという意味での「自由」な葬法を勧めたはずのその自然葬業者は、おそらくいろいろ考えたのだろう、遺族を船に乗せ、散骨(灰?)したあたりの海上ポイントまで行き、そのポイントを船で三周して花を投じるという方法を編み出したという。遺族達はその行為によって、故人への思いが遂げられたような気持ちになったという。これはりっぱな宗教儀礼にほかならない。だがこうした場合においても、遺族にとって故人の居場所がピンポイントに特定されていない状態では、遺族は故人に逢うためにどこへ行けばいいのか。この追跡調査の情報は文書データではなく口頭で交わされたものだから出典はわからない。またこうした場合だけでなく、「故人は自然に帰った」と得心している遺族の例もあるだろう。
 そもそものお墓の起源と云うことを考えてみたい。と言っても人類学的な知見をまで求めようとするものではない。ちょっと素朴に想像してみるだけだ。たぶんその初めは、死んだ人は野ざらしだったり、森の中に捨てられたり、土やあるいは河川に海に、という具合に文字通りの自然葬だったはず。それがなぜ「墓」が求められたのだろうか。そこに行けば故人に逢えるという場所が欲しかったからじゃないだろうか。
 生前親交のあった者と死別する。これは仕方のないことだけど、その故人への思いを様々な形で自分の中に宿して私たちは生きている。親・兄弟・子ども・配偶者、血縁ではなくとも親しかった人々。そんな死者たちがこの世に残った者の生き方・考え方に強く影響を与えていることは誰でも知っている。そんな「死者の思い出」の連鎖の中に私たちはいる。それは自然界の食物連鎖よりもっと強いつながりのように思う。
 そのような「死者の思い出」は、とりつくよすがのない茫漠としたものよりも、〈そこにそれと在る〉方が遺族としてはイメージしやすい。死者の輪郭がはっきりするということは、死者が自分に語りかけてくる言葉も鮮明になるということだ。「墓」が求められたのはそうした理由があったのじゃないだろうか。それはかなりの長い時間をかけてかたちとなってきたはずだ。今に到ってそれをやめようというのは、たどってきた道のりを逆行しようということになりはしないか。
 「思いの連鎖」ということを考えてみたが、これが相続されていくというのは、家族に代表される身近な共同体が世代を超えて持続していくという背景があって成り立つことだ。家族やそれに代わる共同体が持続していかないということはどういうことか。ここで行き着くのが当世話題になっている個化、私事化ということ。少子高齢とか不婚とか社会的要因はそれぞれだろうが、自分より以前から自分より以後へなにかを引き継ぐということについての責任感もしくは使命感が希薄になっていることがその大きな原因と考えられないだろうか。
 そんな「思いの連鎖」から孤立してしまう後ろめたさが、どこかで「自然に回帰する」という言い方にすり替わっているような気がする。私の抱える「胡散臭さ」はたぶんこの辺に由来するのだと思う。

 もっともよく考えるとこうして述べているのも、自然葬という新しい考え方になじめない「古い人間」の繰り言なのかもしれないけどね。

【真読】 №110「三葬、功徳の勝劣」 巻四〈送終部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号47

 土葬・火葬・水葬と云う。これを三葬と云う。
 土葬は身形を全(まった)からしめんためなり。哀情の甚だしき故になす処なり。
 火葬は骨を親類に分布せんためなり。これ釈迦の荼毘にならえり。
 水葬は身肉を有情に施さんためなり。
 ゆえに経の中にも、三葬の中には土葬を下品の功徳とし、火葬を中品の功徳とし、水葬を上品の功徳とせり。(四葬の中、林葬またこれ〈水葬〉に同じ)。