BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

法具の密教的意義について その2

 金剛流流祖 曽我部俊雄師像

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 「金剛和讃」の作者・曽我部俊雄師は、金剛流御詠歌の音符・楽理(音楽的理論)・所作・指導原理の大成者と評される人で、「金剛和讃」が発表された昭和四年九月には金剛流詠監職に就任し、後には「金剛流流祖」の称号を得ている。ちなみに金剛流の発足は大正十五年である。
 「金剛和讃」の内容に入る前に、曽我部師がこの和讃を作成した機縁を語る曽我部自身の文章があるのでそれを紹介する。

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 ここに見るように、「金剛和讃」は曽我部による「一種の霊感」によって感得され、一気に作られたことがわかる。

 そして曽我部自身による「金剛和讃」の解説と、その解説を通じての金剛流詠歌道の「指導原理」が、その後の金剛流そして密厳流に大きな影響を与えているのである。それは〈その1〉で掲げた金剛界曼荼羅の成身会を基礎とした、金剛流御詠歌の事相教義による意味づけであった。

 なおここに挙げた曽我部の文章は、もと昭和8年に刊行された『大師主義三十講』に収められた、曽我部執筆「金剛流詠歌道」の一部である(平成4年に『金剛流流遡行録』として覆刻再刊された)。

 それでは次に「金剛和讃」に展開される法具の密教的意味づけが、どのように解説されているのかその実際をみていこう。

 

法具の密教的意義について その1

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法具の意味づけについては、これまでしばしば問われることのあったものの、梅花流ではそれを解説するものがなかった。それは真言宗所伝の御詠歌をもとに曹洞宗梅花流が発足した際、あえて採用しなかったのではないかと考えている。そのため今日の梅花流布教の現場には必要なものではないが、法具の由来を知るためには無用なものでもない。
 これを解明するためには、梅花流と密厳流の関係ばかりでなく、金剛流との関係についても留意しなければならないことがわかった。あわせて密教の事相に関する説明も重要になる。以下、数回に分けて述べていく。私自身も未消化な部分も少なくない。関心ある方々のご叱正を乞う。

(1)「金剛和讃」曽我部俊雄作

 金剛流御詠歌の密教的意味づけに於いて、おそらく最重要となるテキストが、昭和四年の秋、曽我部俊雄師によって作詞された「金剛和讃」である。以下にその全文を挙げ、つづいて解説を試みる。

帰命頂礼金剛界 智差別門の大日尊
四方四仏四波羅蜜 親近十六大菩薩
四天と賢劫千仏と 外金剛部諸天尊
わけて内外の八供養 四攝の菩薩は夫々に
適悦嬉戯と妙相と 歌詠遊舞の三昧に
如来自ら入り給い 嬉戯鬘歌舞の四菩薩と
現じて四仏に御供養を 捧げましゝを畏くも
内供養とは申すなり 香華燈塗の四菩薩は
遍満無碍と妙厳と 光明清涼それぞれの
四仏の三昧化現して 大日如来に御供養を
奉りしを貴くも 外の供養とは申すなり
鈎索鏁鈴の四菩薩は 鈎召引入さてはまた
鏁縛帰入の三昧に 入り給いてし御仏の
現われましゝ御名なり さても貴き御仏は
金剛流の御本尊 その本尊の御教えに
習いまつらん真心の 已むに止まれず今此処に
香華燈塗を供養なし 遊戯をなすは金剛嬉
世楽に耽る為ならず 首に掛けたる輪宝の
しるしと袈裟は金剛鬘 唱うる詠歌は金剛歌
さす手ひく手は金剛舞 さて詠唱の法具こそ
四攝の菩薩の表示とて 打ち込む鈎杖は金剛鈎
仏は衆生を召し給い 我等は仏を招くなり
控うる杖索は金剛索 その働きはさながらに
引入衆生の本誓に 契うと知るぞ嬉しけれ
鈴につけたる鏁房は 繋縛邪見の金剛鏁
打つ手も鉦も振る鈴も 大慈大悲のふところに
洩るることなく帰入せし 法悦歓喜の響きにて
金剛鈴と知らるなり かゝる有相の浄業が
誓願施与智恵精進の 四種の生活を聖化して
念定語黙行住に 一路向上退かず
やがては無相三密の 行ともなりて成仏の
深き根底となりぬべし わけて導師は遍照尊
二仏中位の大智識 斯土厳浄の大能化
金剛不壊の信あらば 攝取不捨との御誓願
拝め同胞吾が如来 仰げば同行吾が大師
かくて世のため国のため さて君のため家のため
浄き御国を荘厳し 宇宙の秘蔵を拓かなん
南無金剛曼荼羅尊 南無大師遍照尊

よこみち【真読】№113「オムカエデゴンス」

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 来迎の場面とは多くの場合迎えられる者にとって<のぞましい>ものとして描かれることが多いというイメージがある。浄土教系の往生観念を下敷きにした来迎図のバリェーションがそれだ。もっともこのことはビジュアルとして世に出回っている媒体が多いと云うことであって、実際に来迎の場面があのように壮麗にして救済の恩恵を喚起させるものであるかどうかは定かでない。

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 なぜなら臨死体験のリポートなどを読むと、それぞれある境界から一歩向こう側に誰かの存在があり、その誰かが自分を向こう側へ誘い込もうとしたのだがその誘いには従わずにこちら側へ帰ってきた例があり、そこに報告されている「向こう側」にはさほどの〈悪所〉のイメージが無い。行ってもよかったんだけど戻ってきちゃった、みたいな例が多い。だがそれも結局は「帰ってきた」者達が語る一方的な報告だけで、「行っちゃった」者の例はわからないのだから。

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そうは言っても〈向こう側=悪所〉と物語る例はこれまた数多くある。酸鼻を極めた地獄の様相を語る資料は、たぶん来迎図をしのぐほど多くあるだろう。本編の火車はその悪所から使いであり、さらに悪いことには悪所に至るよりいち早く到着先での地獄の業火を体験できる特別シート仕様の<おぞましい>車なのだ。

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日本では妖怪の名前にもなり、また中世の文献にも登場するのでその絵姿はそれなりになじみのあるものだが、釈尊の時代にはどんな姿で思い描かれていたのだろう。阿含部の経典には「火車」の用例が散見されるのでそのイメージはあったはずだが、寡聞にしてまだそのビジュアルを見たことがない。あるいは既に見知っているものがそれにあたるのだろうか。
 そんなことを考えていたら冒頭の画像に上げた手塚治虫のスパイダーなるキャラクターが、善玉でも悪玉でもないことに気がついた。ストーリーとは何の脈絡もなくぬっと現れるこいつ。だがしかしあらためて思う。「お迎え」ってのはそんなものかもしれないなと。

元政廟に詣る

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f:id:ryusen301:20170130065203p:plain たのもしなあまねきのりの光には 人の心の闇も残らじ

 年来の願いであった京都深草の瑞光寺。このたび初めてお参りすることがかなった。ちょうど同じ用事で訪京していた友人Sさん夫妻とご一緒だった。
 日蓮宗、元政庵瑞光寺。
 思いのほか静かな住宅街にある瑞光寺。これさえなければ閑静な、と表現してよい環境を、奈良線の線路が境内だったろう敷地を斜めに分断している。山門は小さいながら茅葺き、ご本堂もまた総茅葺き。一月下旬の寒空だが日差しは明るい。錦鯉の泳ぐ池を参道がまたいでいる。あらかじめご住職は留守と伺っていた。奥様と思しき人に「元政上人のお墓をお参りしたいのですが」と言うと、線路向こう側を指して教えてくれた。いったん地下道の階段を降り、線路をくぐって反対側へ出たところに元政廟所はあった。

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 僧、日政(1623~1668)。
 日本仏僧史上、最も親、就中母親に孝養を尽くした一人として知られる。
 もと彦根藩主井伊家に仕え、後、日蓮宗に出家し、元政の名を日政に改める。
 仏教学はもとより漢詩文にもすぐれ数多の著作、校訂書がある。時の文人とも交流繁く、享年四十六歳の短さが惜しまれる。
 京都深草に一宇を結び、傍らに居室を建て両親を迎える。先に父を喪い残った母に孝養の限りを尽くす。

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 青山霞村著『深草の元政』(明治42年刊)に元政と母との交流を語るエピソードのいくつかを拾ってみる。

 ⊿病を養うて鷹ヶ峰に居られた時、母を憶うて深草に返った夢を見て詩を作られた「昨夜三更の夢、分明に深草に帰る。夢覚めて久しく寝らず既に寝て暁を知らず、憶得たり母の吾を愛することを、未だ懐抱に在るに異ならず、一日相見ずんば人の至宝を失うが如し」云々。然るに其日母は元政を尋ねて行かれたのである。「余母を憶う時を作り、吟じ已んで乃ち紙筆を命ず。墨痕未だ乾かざるに吾母忽然として至る。余驚き起って駕を階上に迎え手を執って相喜ぶ。而かも吾れ病来殆ど四十日、偶此日に於て浄髪澡浴して軽し単衣を着す。灑々落々曾て病ざる者の如し。母熟々視て悦ぶこと甚し。於乎吾れ一念相念へば母即ち至れり。豈感ずる所なからんや詩を作って喜を記すという」

 ⊿憂懐掃うべからず、徒らに失う母を憶うの詩、詩就いて涙睫を拭う。吟じ罷んで更に相思う、再び吟じて人をして写さしむ、人何ぞ吾悲を解せん、写し已んで墨未だ燥かず、慈母忽然として来る、恍惚として初めは夢かと疑う、夢に非ず復奚をか疑はん、茶を煮て山菓を陳ね、笋を焼て雲糜を具う、老莱が舞を能くせず、諧笑嬰児を学ぶ、奇なる哉母を憶う處、念に応じて相期するが如し、慈母兮慈母、亦た無縁の慈に似たり。

 ⊿丁未の孟夏初三日予北堂に侍す。母の曰く吾れ此齢に至るまで終(つい)に徒(いたずら)に居らんことを欲せず。子も亦た能(よ)く我に似たり。予笑って曰く吾聞く夜生るゝ者は母に似ると、吾れ夜生れたる無きや。母言く然り二月二十三日の夜、子を生めり。我其日適々出でゝ帰る。夜半に及ぶ比(ころあ)ひ覚えずして産す。讃岐の姥という者傍にあり。歯を以て臍の帯を絶つ。寿命を祝すとなり。子必ず長寿ならんと。欣然として話暮れに及ぶ。

 ⊿ある時は山に遊ぶと躑躅(つつじ)を折り磐梨(いわなし)を採って帰って母に供し、谷口の翁が栗や菊を贈ると直ちにそれを母に奉る。母の方では元政の誕生日には自ら社中の弟子達を饗応せられることは述べた通で、また小僧が法華経全部を習ひ終わると、祝いに小豆粥を煮て社中の衆に供せらる。こんな風で元政の家庭は實に美しい楽しいもので、儒家にも恐らくはこんなのはなからう。元政は高槻や鷹峰で病を養ふ時も僅か一日や二日醍醐宇治へ遊びに行かれた時も或は有馬に行かれた時も、常に母のことをいつて居られる。外に居って自ら孝養を欠く時は山中の弟子達に念のために手紙で頼まれて、その念々母を離れたことがない。元政は内に居るも外に遊ぶも寝てもさめても造次顛沛(ぞうじてんぱい)母を思われたので母もまた同様であった。

 ⊿母が十二月四日死なれると二七日から病に罹って、まだ百日も経たぬ中に死なれたのは實に不思議の因縁といはねばならぬ、母を失はれた時の悲が如何にあつたかは何の記録もない、しかし和歌が七首造ってある。
  母のなくなりぬるころひとのもとより五首の歌よみてとふらひいけれは返事に
 先立たばなほいかばかり悲しさの おくるるほどはたぐひなけれど
 いまはただ深草山にたつ雲を 夜半のけぶりの果てとこそ見め
 なにごとも昨日の夢としりながら 思ひさまさぬ我ぞかなしき
 いかにしていかに報いん限りなき 空を仰ぎて音には泣くとも
 たのもしなあまねき法の光には 人の心の闇ものこらじ
  母のなくなりてのち
 惜しからぬ身ぞ惜しまるるたらちねの 親ののこせる形見と思へば
おなじとしのくれに
 冬深きやとにこりつむ山かつの なけきのなかにとしもくれけり

 生前の母との交情を綴る描写が細やかなだけに、母との死別の思いを察するに惻々たるものがある。その悲しみの重さが死期を早めたのだろうか。
 「たのもしな」ではじまる一首はこの時の作。かつて元政を身ごもる際に母が夢に見た観音の言葉〈たのもしな〉がもとになっている。

 母を思う子の心情に乗せて人々に歌いつがれてきたこの和歌が、はるか時を経て大正14年、細川道契の筆によって『観音信仰講話』の一節に書きとどめられた時は作者元政の名は無かった。

 石柱に囲まれた元政の塚には、その伝にあるように墓塔はない。伝に合わせてしつらえたのだろうか、細い竹が植えられてあった。

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【真読】 №113「火車来たり迎う」 巻四〈送終部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号48

 問う、重悪人死するとき、火車来たり迎うこと、世俗専らこれを談ず。本説ありや。
 答う、提婆達多、逆罪を造るとき、大地自然に破れ、火車来たり迎えて生きながら地獄に入ると云へる、これなり。
 問う、いずくには出づ。
 答う、『智度論』十四に云く、
 提婆達多、出家して六万の法聚を誦す。十二年修行して仏の所に来たり神通の法を学ぶ。山に入りてこれを修し、五神通を得たり。自ら念(おも)へらく、「誰をか我が檀越とせん」と。王子・阿闍世王を瞻(み)るに、大王の相有り。遂に親しみを厚うす。王子、意惑うて祭園の中に大精舎を立て、提婆達多を供養す。徒衆となるもの少なし。ここにおいて自ら念へらく、「我、三十相あれば仏にも幾(ちか)し。もし大衆囲繞せば、なんぞ仏と異ならん」。かくの如く思惟して五百の弟子を得たり。
 しかるに仏、舎利弗・目連・五百の僧に説法教化して、悉く和合せしむ。
 その時、提婆達多、悪心を生じて、山を崩して仏を壓さんとす。金剛力士、即ち金剛杵を以て遙かに擲げければ、石、砕け迸(はし)りて仏の足の指を傷(そこな)へり。この時、華色比丘尼、大いに呵りければ、瞋りて拳を以て尼を打つ。尼、即時に眼出でて死す。三逆罪を作る。
 提婆達多、ここを去って王舎城の中に到らざるに、地、自然に破裂し、火車来たり迎えて生きながら地獄に入る。

よこみち【真読】№112「脳をすすり、眼をくり抜き」

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「ノドに血ヘド見せて狂い鳴く あわれ あわれ山の ほととぎす」
 井上陽水『帰郷』のフレーズ。死者とホトトギスとが並んでいる箇所を読むとふとこのフレーズが浮かぶ。刷り込まれているんだなきっと。

 『十王経』には内容の異なるものがあるが、本編で引用しているものの具名は『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』という。この経典、なかなかのいかがわしさで、その成立事情にしても内容にしても優れて興味深い。しばらく以前から手元に蒐めただけでも十種に余る註疏類をあれこれ読んでいる。ある人たちはこの経を真面目に取り上げるまでもない偽経としてはなはだ評価は低いのだが、アマノジャクな私にとっては無性におもしろくてしょうがない。と、十王経loveをいくら強調してもしょうがないので先へ進もう。
 『十王経』に言う如く、冥土の旅へ出かけた死者が旅路の冒頭で出逢うのが二羽の鳥。“別都頓宜壽”という鳴き声の無常鳥、“阿和薩迦”という鳴き声の抜目鳥である。『十王経』本文にこの続きをみてみよう。

 その時、知るや否や。
 亡人、答えて曰く、すべて覚知せず。
 その時、二鳥、忿怒熾盛にして亡人を呵して曰く、
 汝、人間(じんかん)に在りて罪業を恐れず。我、悪心を懲らさんがために、飲まざれども脳を啜(すす)らん。
 汝、人間に在りて罪業を恐れず。我、悪心を懲らさんがために、食わざれども汝が眼を抜かん。
 
 つまりは二鳥とも「悪心を懲らさんがために」亡人に呵責を加えるというのである。
 そこで今一度本編で話題にしていた『十王経』の文脈を顧みるために、註疏の一つに当たってみたい。ここで挙げるのは数ある註疏類の中でもおそらく一番と言えるくらい詳しいのではないかと思う浅井了意(1612-1691)の『仏説十王経直談』(1683刊)、全十三巻である。
 問題の箇所は巻四の、第三十五節~四十三節に当たる。丁数にして八枚の量なので、ここでは話題にしたいポイントを拾い出していこう。

 復次ニ古注ニ、別都頓宜壽ヲ呉音ニ去祈家命ト云ンカ如シト云フ、謂ク、襤褸鳥ノ怪語ヲ以テ鳴ク声ヲ呉語ヲ以テ訳スル則ンハ、去祈家命ト云ンカ如シト也。去トハ罪悪ヲ去ル所以ン、祈トハ修善ヲ命ト云ンカ如シト也。去トハ罪悪ヲ去ル所以ン、祈トハ修善ヲ祈ル所以ン、敗悪為善ヲ以テ警誡ス。
 蓋シ慕逆無道ナル者ノハ、天ニ違ヒ人ニ背キテ、果シテ家ヲ破リ命ヲ亡ボス。『無量寿経』曰く、「家ヲ破リ身ヲ亡ボシ前後ヲ顧ミズ、親族内外之ニイナガラニシテ滅スト」。然ルニ家ヲ祈リ命ヲ祈ルトハ、悪人諸ノ悪ヲ造リテ已マザル則ンハ、悪貫盈(ミツ)ル時キ、悪鬼集マリ襲テ、横禍横病ノ怪事興リテ、忽チニ破家亡命ノ災ニ至ル。唯能ク己ヲ顧リミテ非ヲ慎ミ悪ヲ止メ、善法慈心ヲ行スル則ンハ、諸天善神恒ニ衛護シテ、自然ニ災禍ヲ攘(ハラ)ヒ福徳ヲ成ス。是祈家命ノ謂ナリ。

 これが本編引かれていた無常鳥の鳴き声、「怪語を示して別都頓宜壽と鳴く(この鳥、呉語には〈祈家命鳴〉と云うに近し)」の部分の詳解となる。
 次いで、

 阿和薩迦トハ怪声ヲ以テ鳴ク音(コエ)ナリ。古注ニ呉語ノ病来将命尽ト云フニ近シト釈ス、未タ詳(ツマビ)ラカナラズ。
 按ルニ『翻訳名義集』ニ曰ク、「薩迦耶薩、此ニハ無常ト云フ。荀卿子曰ク、趨舎定メ無キ、コレヲ無常ト謂フ。唐ノ『因明正理論』ニ云ク、本ト無クシテ今ハ有リ、暫シ有リテ還タ無シ、故ニ無常ト名ヅク云々」。
 此ノ梵語ニ因テ今マ准(推カ)スルニ、阿ハ無ナリ。和薩迦ヲ常ト翻スルニ咎有リト為(セ)ムヤ。古注ノ意(ココ)ロ無常ノ義アリテ病死ノ二ツヲ挙グ。義翻ニ似タリ。『正法念経』ニ説カ如シ、胎蔵ニ於テ死スル有リ、生時ニ命終スル有リ、纔(ワズカ)ニ行(アリキ)テ便チ亡ズル有リ、能ク走テ忽チニ卒スル有リト。是少年ノ者ノト雖トモ無常ヲ免レス。
 
 これが、「怪語を示して阿和薩迦と鳴く(この鳥、呉語には〈病来〉と云うに近し」の部分の詳解となる。
 さて『仏説十王経直談』の解説を続けてみていこう。
 次は、「その時、知るや否や。亡人、答えて曰く、すべて覚知せず」についてである。

 是二鳥既ニ亡人ヲ警ルノ詞ナリ。所謂、襤褸鳥ハ別都頓宜壽ト鳴キ、烏鳥ハ阿和薩迦ト啼ク。汝、亡人、ソノ時ニ此ノ怪異ノ語ヲ聞知スルヤ否ヤト問フ。亡人、答テ曰、在生ノ日、数(シバシバ)此ノ声ヲ聞ト雖トモ、去祈家命トハ捨悪持善ノ義ナリ、病来将尽トハ無常遷流ノ理ナリト覚知セズ、ト云フ。
 謂ク一切人間ノ生涯ハ、電光石火ニ喩ルモ猶ヲ却テ鈍(ニブキ)カ如シ。因縁仮合シテ実無キコト、旋火輪ノ如ク、陶治器ノ如シ。徒(タダ)ニ無常ノ至ルコトヲ知ラス、空ク促(ツツマル)コトヲ覚セス、世路産業ノ営ミニ年ヲ失ナヒ、愛欲名利ノ為ニ日ヲ銷ス。月ヲ亘リ時ヲ踰テ、身命ノ衰耗ヲ観ゼズ、花ニ戯レ雪ヲ弄シテ、無常ノ追逼ヲ想ハズ。
 『出曜経』偈ニ曰ク「是ノ月已ニ過ク、命則チ随テ滅ス、少水ノ魚ノ如シ、是ニ何ノ楽ミカ有ラン」。況ヤ四相遷転シ、八風ノ臻(イタ)リ侵ス。
 『唯識論』ニ曰ク「本ト無クシテ今有リ、有ノ位、生ト名ヅク、生ノ位、暫(シバラ)ク停ルヲ即説テ住ト為ス、住ノ前後ニ別ナルハ、復タ異名ヲ立ツ、暫ク有テ還タ無シ、無キヲ滅ト名ヅク。前ノ三ハ有ルガ故ニ同ク現在ニ在リ、後ノ一ハ是レ無ナルガ故ニ過去ニ在リ」ト。
 既ニ一生ヲ終テ亡滅ニ至ント欲スル時、忽チニ病患ヲ受テ、身心ヲ懊悩ス。若シ夫レ可療ノ病ハ、医ヲ待テ而シテ差(イユ)ヘシト雖モ、必死ノ病ハ聖神モ蠲(ノゾク)コト能ハス。
 『大論』ニ曰ク「四百四病ト云ハ、四大身為ル常ニ相ヒ侵害ス。一一ノ大中ニ百一病起ル。冷病ニ二百二有リ、水風ヨリ起ルカ故ニ。熱病ニ二百二有リ、地火ヨリ起ルカ故ニ」ト。是レ一病起ル則ンハ、遍体ヲ悩マシ身心ヲ苦シム。
 此ノ時ニ臨テモ猶未タ死想ヲ生セス、後世ノ需メヲ作コト無ク、唯薬餌ノ療養ニ意ヲ止メ、神仏ノ祈願ニ思ヲ掛テ定業果シテ寸効ヲ得ズ、終ニ死滅ニ至リ、魂神去テ歯塗ニ趣ク、是即チ都不覚知ノ謂ナリ。

 次いで、「その時、二鳥、忿怒熾盛にして亡人を呵して曰く、汝、人間(じんかん)に在りて罪業を恐れず」の部分。

 是レ二鳥ノ忿怒呵責ハ、亡人ノ警語ヲ覚知セサルニ依テ来起ス。二鳥ハ乃シ形質ヲ禽類ニ現化スト雖トモ、本地ハ仏菩薩ノ応作ナリト知ルベシ。問鳥ニシテ人語ヲ囀ヅル者ノ、鸚(母+鳥)・秦吉了・鴝(谷+鳥)・八哥児等ノ数種アリ。今此ノ無常・抜目ノ二鳥、是人間ニ在テ杜宇・烏鴉(ヲウア)ト称スル則ンハ、鳴音都(スヘ)テ人間ニ通ゼズ。何ゾ強テ忿責スルヤ。
 通ジテ曰ク、上古ノ時ハ人皆淳厚ニシテ万物ノ情ヲ知ル。草木鳥獣悉ク音韻相ヒ通ス。漸ク下世ニ及ヒテ人更ニ聞テ知ルコト能ハス。或ハ云フ、弘治長能ク禽語ヲ知ルト。東方朔・袁天罡等、皆能ク風角ノ占ヲ以テ鳥語ヲ知ルコト書典ニ載ス。況ヤ去祈家家命・病来将死ノ語音ニ於テ覚知セサランヤ。
 復次ニ、特(ヒト)リ二鳥ノ鳴テ警スル耳(ノミ)ニ非ス。日㬢ノ出没、月魄ノ虧盈(キエイ)、四時ノ運行、草木ノ栄枯、皆悉ク言スシテ教誡スル所ロ、無常遷変ノ道理ニ非スト云コト無シ。
 況ヤ復タ目前ニ見聞スル所ロ、前後相違ノ歎キ、多少死喪ノ愁エ、貴賎貧富誰カ免ル者ノ有リヤ。是ヲ見、彼ヲ聞ク、方ニ我身ヲ遺(ノコサ)ンヤ。何ソ早ク未来ノ資糧ヲ求ムスシテ、空シク生キ徒(イタズ)ラニ死シテ、迷路ニ吟(サマヨ)ヒ到ル者ノ、豈ニ不覚知ノ癡人何ソ忿責セラレンヤ。

 以上は『十王経直談』の解説部分の一部であり、引用はしていないがこのほかに各字義の考証にまで踏み込んでいる。著者である浅井了意の博捜の凄さに圧倒されるばかりだ。いくつか読んできた『十王経』註疏類の中では白眉と言えるものだ。だが了意の解説にうなったのはさらに別のところにある。それは『十王経』本文の以上に続くこのくだりの終の文章、すなわち、
「汝、人間(じんかん)に在りて罪業を恐れず。我、悪心を懲らさんがために、飲まざれども脳を啜(すす)らん。
 汝、人間に在りて罪業を恐れず。我、悪心を懲らさんがために、食わざれども汝が眼を抜かん」
についての解説である。
 この文このまま読めば、亡人の悪心を懲らしめるために、かたや無常鳥はその人の脳みそをすすり、かたや抜目鳥はその人の目ん玉をくり抜くという、いかにも原色地獄絵図を想起させるようなスプラッタ記述である。そしてたしかに他の註疏では、そんなひどい目に遭わぬように悪心を抱くなよ、と恫喝するのであるが、了意はそうじゃない。その落としどころはすこぶる揮っているのである。以下に、「啜脳」の場合、「抜眼」の場合の二つをどのように解説しているのか引いてみよう。

 所謂、迷本ノ髄脳ヲ啜竭(ススリツク)シテ、正道ノ真血ヲ補成スル所以ン、亦再タヒ此ノ獄苦中ニ廻リ来ルヘカラサルコトヲ勧懲ス。

 是、所謂、凡ソ眼、惑溺シテ実際ニ暗シ。是ヲ慧眼盲(メシイ)タリト名ク。縦令(タト)ヒ肉眼明瞭ナリト雖トモ、真正ノ大道ヲ見サル者ヲ無眼人ト名ク。唯ダ色塵ヲ照見シテ、業悪ノ基ト為(ナレ)トモ、自ラ心性ヲ観(ミル)ニ聡明ナラズ。此ノ眼、乃シ面表ニ在テ益スル所ロ無シ。故ニ今マ迷理ノ癡眼ヲ抜テ、正道ノ慧眼ニ換ント云フ。

 脳を啜るのは、迷いの本である脳髄を吸いだし、正道の真血を補成するためであり、目を抜くのは、迷いの癡眼をくり抜いて、正道の智慧の眼に取り換えるためだというのである。
 ここに「啜脳」「抜眼」がたんに勧善懲悪のための拷問をイメージさせる悲壮な解釈から、迷いから正道へと転換させるための譬喩として理解させるという解釈に、そのステージをあげていることがわかる。註者・浅井了意の力量と言うべきだろう。

 ここに見たように、人が迷妄の癡闇から、智慧の光明へ転ずるきっかけ、その大きな一例は、自分のあるいは自分に置き換えてもよいほどの近親者の〈死〉に出逢うことだ。『十王経』の物語中では、その機会に恵まれているのは「亡人(死者)」だが、『十王経』が読者として想定しているのは言うまでもなく生者である私たちだ。
 『十王経』は、生者をして死者の追体験をさせることを通じて「悪心を懲らし」、さらに『十王経直談』は、死者の体験する生理的な痛みを、仏教の求道的精神へと転換する回路を示していると言えるだろう。
 擬似的に、あるいは実際的に、死に直面すること。人の成長する契機はそこにあるらしい。

 そういえば井上陽水の『帰郷』には、「危篤電報を受け取って」という副題が添えられていた。どうやらそこにも刷り込みがあったようだ。

【真読】 №112「冥途の鳥」 巻四〈送終部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号47

 問う、葬送の龕などに居る冥途の鳥は杜鵑(ほととぎす)の事と聞く、然るや。
 答えて曰く、これ『十王経』に襤褸鳥(らんるちょう)と化し来て別都頓宜壽(ほととぎす)と鳴くと云えるを倭俗誤って子規(ほととぎす)とす。けだし別都頓宜壽はこれ梵語なり。何ぞ倭語に用いて杜鵑(ほととぎす)とするや。それ襤褸は布穀の事にして鳩の流(たぐい)なり。彼の経文をみてよく暁(あきらか)にすべし。
 『十王経』に曰く、「閻魔の卒、三魂を縛して関の樹下に至る。二鳥、棲(す)み掌(つかさ)どる。一を無常鳥と名づく。二を抜目鳥と名づく。我、汝が旧里に化して襤褸鳥と成りて、怪語を示して別都頓宜壽と鳴く(この鳥、呉語には〈祈家命鳴〉と云うに近し)。我、汝が旧里に化して烏鳥と成りて、怪語を示して阿和薩迦と鳴く(この鳥、呉語には〈病来〉と云うに近し。将に命尽くべし。私に云く、これ皆な無常を示し鳴くなり)」。