BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

【世読】No.5「珍重(ちんちょう)」

 

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この画像は全国曹洞宗青年会般若のHPよりいただきました。営利目的の二次利用ではありませんのでご容赦下さい。

『要覧』に曰く。「釈氏相い見(まみ)えて将に退かんとする時、即ち口に珍重と云う。」
○『僧史略』に曰く。「去るに臨んで辞(ことば)して珍重と曰うはなんぞや。これ則わち相見既に畢りて、情意已に通嘱す、珍重と曰う。猶お善く保重加えたまえと言うがごとし」と。[已上]これに依れば自愛、保嗇(ほしょく)などの如く、書翰の尾に置く語なり。しかるに倭文に多く珍重の語を用う。必ず用いる所あるべし。文に臨んで心を付くべし。

よこみち【世読】No.4「偽りの中の真実」

 本編の語源について手近な辞書類からコメントするという前回のやり口はお手軽なんだけれども毎回ワンパターンに流れそうでどうも居心地が悪い。で今回はもうちょっとナナメからと思ったのだがちょっとおもしろいことに気がついたので、とりあえず導入は前回と同じ所から始めよう。
 『日本国語大辞典』「めでた・い」。動詞「めでる(愛)」の連用形「めで」に「いたし」の付いた「めでいたし」の変化したもの。ほめたたえることが甚だしい、すなわち、対象にたいへん心がひかれ、好み愛する気持ちになっていることを表す。
 とある。でその語源説に挙げているのは以下の六種。
 1)メデイタシ(愛甚)の義  国語本義・国語の語源とその分類=大島正健・大言海・日本語源=賀茂百樹・ニッポン語の散歩=石黒修
 2)メデイタシ(愛痛・感痛)の義 俚諺集覧・俗語考・菊池俗言考
 3)メデ(芽出)タシの義 志不可起・和訓栞
 4)目ダツラシの義 名語記
 5)天の岩戸の伝説から、目出タシの義  運歩色葉・感興漫筆
 6)天の岩戸の伝説から、メデ(女出)の義  和語私臆鈔
 というわけで、この第5番目の説が『世説故事苑』の所説にヒットする。天岩戸に閉じこもったアマテラスが岩戸の外のにぎやかさをうかがおうと目を出したところから「目出たし」というのだ、と。
 天岩戸神話のことは以前にも触れたが、
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/10/17/072955
 この故事に淵源を求めるものは一つだけではないのだなあ。
 しかしこれをもってメデタシの語源とするには少々無理があるんでないかい。しかも『世説故事苑』の典拠としているのは『旧事本紀』すなわち『先代旧事本紀大成経』だし。ご存じの方も少なくないと思うが『先代旧事本紀大成経』とは聖徳太子撰述をうたう神代の記録という触れ込みだけど、すでに江戸時代にはその触れ込みが真っ赤なウソであるとのかどで発禁、くわえて版木破却、さらには撰述に関わったものが処刑されるなど大いなるいわく付きの偽書である。しかしどういうわけかその影響力は大きく、発禁処分を受けた後もうさんくさい所説があちこちで転用されている奇妙な書物である。
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/12/27/102425
 だから『世説故事苑』が『先代旧事本紀大成経』を典拠としてなにかしらの故事来歴を述べようとする箇所は大いに眉唾物になる・・はずだった。だからアマテラスの「目出し」にメデタシの語源を求めようとする今回の説はうさんくささ満載のものだったのだが、はたして『日本国語大辞典』はこの説の典拠として『運歩色葉』と『感興漫筆』を挙げている。『感興漫筆』は幕末から明治期に活躍する細野要斎のものだから先ずはよしとして、『運歩色葉』こと『運歩色葉集』は1548年の序をもつ室町時代編纂のもの。つまり江戸時代の偽作とされる『先代旧事本紀大成経』よりもぐっと古い。たまたま『世説故事苑』の選者・子登は『大成経』に依ったが、天岩戸目出し説は近世以前の由緒を持つものだったと云うことになる。
 幸い『時代別国語辞典・室町時代篇』「めでた・し」項に『運歩色葉集』の該当箇所を出典として載せている。
「目出(めでたし) 天照大神岩戸引籠給七日七夜成暗、諸神為神楽太神面白思召開岩戸御目出、諸神喜曰目出、到今祝事曰目出也」
 なるほど、もちろんこれでこの説がほんとの語源とは行かないが、それなりに理由のあるものだったと云うことにはなる。『先代旧事本紀大成経』といえども100%でたらめのものではないということだ。このあたりに『大成経』が支持を得てきた理由の一つがあるんだろうな。めでたしめでたし。

【世説】№4「目出(めでたし)」

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 これに二説あり。『古今集』の歌に「残りなく 散るぞメデタキ桜花 ありて世の中 はてのうければ」新歌には、『寄子歌述懐』に「思ふこと なげぶし聲にうたうなり メデタヤ松の 下にむれいて」[西三條逍遥院内符實隆]。メデタシと読める古歌も希なりとかや。故に、メデタシの字義分明ならず。『古今の鈔』にも著(いちじるし)からず。ただ心地よしと云う言葉なるべし。『撰集抄』にも目出度(めでたき)手にて一首の歌をぞ書きたりけると云えり。
○『旧事本紀』の説に依れば、「天照太神、窟戸の間より御目(おんめ)を出して見たまう時、諸神甚だ悦(よろこ)べり。今、幸いなることを目出度と云うはこの縁なり」と。
○『大成旧事本紀』[十八葉神祇本記]曰く「天照太神、神楽の高天原を動(とどろか)すを聞こしめして、且つ感(うごき)まして、窟戸を細めに開けてその消息(ありさま)を見そなわす云々。窟戸の間(ひま)より御目を出して覧(みそなわす)。庶(もろもろ)の神、これを見そなわして悉くに悦び、甚(すさまじく)喜ぶ」。[幸吉の事をもって人、目出(めでたし)と云う、またこの縁なり。已上]

よこみち【世読】No3. 「むずい」

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 この度の本編は「むずかしい」の語源に関わるものだったが、一読された方の中には「おや?」と思われた方も少なくないだろう。私もその一人である。
 亀のことを蔵六と呼ぶのは一般に知られていて、蔵六池などという名称もあちこちに見かける。もとは仏典由来の言葉で、六とは、六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)のこと。あらゆる欲望の覚知器官とその対象をいう。これを「蔵する」わけで、つまりはさまざまな「求め」の欲動を制御することを「蔵六」というのだろう。
 本編が典拠として挙げている『雑阿含経』の例でも、仏道修行者に対して「佛、諸の比丘に告げ玉わく、汝、当に亀の六つを蔵すが如くすべし。自ら六根を蔵せば、魔、便りを得ず」と言っているのはまさにこの意だろう。
 とここまではいい。だが問題はそれに続いて「亀が野獣に責められ、それを恐れて尻尾や頭を隠すのはさも〈ものうい〉ことである。だから世人はこのことから〈ものうい〉ことを〈六蔵〉と言うようになったのだ」と展開する『世説故事苑』の主旨である。ほんとかこれ? ものういという言葉が当時(『世説故事苑』撰述の江戸時代)そんなニュアンスを含んでいたかどうかも定かではないけど、ここでの問題は「むずかし」=「六蔵」(蔵六)説の信憑性である。

 手っ取り早いところで『日本国語大辞典』の「むずかし・い」の項をめくってみる。
 あ、その前に念のためだが私の手元で調べられる仏教語辞書類に「蔵六」はもちろん立項されているが、これを「むずかしい」の意味で解説しているものは見えなかった。
 で『日本国語大辞典』。充てられている漢字は「難」と「六借」。六借については本編で「俗に六借の字を用ゆ、然れどもこの字義、古来審らかならざることなり」と指摘があった。してその意味には次の十種が挙げられている。
 1 機嫌が悪い。
 2 気に入らず不愉快であるさま。
 3 正体の知れないもの、なじみのないものに対して、気味が悪い。不安で恐ろしい。
 4 風情がなくてむさくるしいさま。
 5 ごたごたとしてわずらわしいさま。うるさい。面倒だ。
 6 回復しにくいほど病気が重いさま。
 7 理屈や論理が複雑で理解しにくいさま。
 8 困難でおぼつかないさま。
 9 意地が悪いなど、性格が素直でなくてとりつきにくいさま。
 10 犬がよく吠えることをいう、盗人仲間の隠語。
 さきほどの〈ものうい〉のニュアンスは3、5あたりに通じるのだろう。
 続いて辞典は[補注]としていわく、
 近世末以降、「むつかしい」とともに「むずかしい」が併存するようになり、現代では逆に「むずかしい」が優勢である。
 とある。ふむ、ということは『世説故事苑』を当面のテキストとしている以上、ターゲットは「むずかしい」ではなく「むつかしい」に絞ってよさそうだ。
 で、『日本国語大辞典』はさらに[語源説]として次の四説を挙げている。各説の末に引いているのは各々の典拠資料だ。
 1 ムツカル(憤)の転か(瓦礫雑考・和訓栞・大言海・上方語源辞典=前田勇・日本語の年輪=大野晋
 2 ムスカナセリ(咽)の約ムスカシの転(名語記)
 3 ムクツケシの転(名言通)
 4 モツレカシ(縺)の義(言元梯)。物と物とが纏いついて分明しがたい意から(日本語源=賀茂百樹)
 以上が同辞典の説明。語源説に四説並記のままということはいずれとも決着しがたいのが「むつかし」語源をめぐる現状ということなのだろう。とすれば『世説故事苑』の「六蔵=ムツカクシの転」説は第五の説ということになる。ということになるのだが、江戸期撰述のこの説明が現代を代表する日本語辞典にもフォローされず独自性を保ってきたということは、それだけ独特であったとも言えるし、それだけマイナーな存在だったという証にもあるだろう。

 やや気になったので『時代別国語大辞典・室町時代編』の「むつか・し」を開いてみた。表記の例では「六借・ムツカシ」「六箇敷・ムツカシク」が挙がっている。前述来のことをかんがみれば、この頃(室町時代)「難」はまだ充てられていず、『世説故事苑』の指摘にあった「六借」はすでに近世以前に一般化していたと見てよさそうに思う。
 してその意味に同辞典は以下の四種を挙げる。
 1 煩わしく不愉快で、それに関わりたくないと思う気持である。
 2 対象が一筋縄ではゆかなくて、心を許せないと思うさまである。
 3 めんどうな問題が多く、取り扱いや対処が容易でないと思われるさまである。
 4 内容が入り組んでいるなどして、理解・処置に窮するさまである。
 以上のように、『日本国語大辞典』がカバーしていた領域内の語義と言える。
 
 話を元に戻して『世説故事苑』の「むずかし」=「六蔵=ムツカクシの転」説の妥当性を考えてみよう。とは言ってもここまででわかったのは「六蔵」説は、その用例もふくめてほかに類のないものであることで、「むずかし=六蔵」説を支援する素材は『日本国語大辞典』や『時代別国語大辞典・室町時代編』が挙げているけっこうな数の典拠の中には見出すことができない。とすればやや失礼ながら次の臆断に至る。
 つまり「むずかし=六蔵」説は『世説故事苑』編者・子登の仏教語・蔵六に引かれた勇み足だったのではないか、ということである。もっともそう言ってしまうのも私の無責任な「勇み足」かもしれない。どうか読者のみなさん、「むずかし=六蔵」説について賢明なご意見をお寄せください。

 この文章をまとめていて気になった言葉がひとつ。最近耳にする「むずい」という言葉。近頃の若者言葉、また俗語として「むずかしい」の転だという。自分で使うことはないが、この言葉、初めて聞いた時、元々「むずかしい」だろうと察知はできたものの、「むずかゆい」「もどかしい」という語感も感じられて少しおもしろく感じた。
 なるほど、ことほどさように言葉って「転」じてゆくのですね。

【世説】№3「六蔵(むつかし)」

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 俗に六借(むつかし)の字を用ゆ、然れどもこの字義、古来審らかならざることなり。有る人の言えるを聞くに、俗語ムツカシと云うは、『雑阿含経』の説に、亀の六つを蔵すと云うより起これり。しかれば具(つぶさ)には六蔵(むつかくし)と云うべし。ムツカシは中略の訓なり。
○『雑阿含経』に云く。「亀有り、野干(やかん)に得られる六つを蔵(かたく)出さず。野干怒りて去る。佛、諸の比丘に告げ玉わく、汝、当に亀の六つを蔵すが如くすべし。自ら六根を蔵せば、魔、便りを得ず。」[文]
 六つを蔵すとは頭、尾、両手、両足を甲に引き入れて蔵すを云う。彼の亀の野干に責められ畏れ嫌ふて尾頭等を蔵せるは、さも慵(ものう)きことなり。故に俗、これを取りてモノウキ事を六蔵(むつかし)と云うなり。[これに依れば、文字六蔵に作べし。
○按ずるに、亀の六を蔵す、『法句譬喩経』にも出ず。

よこみち【世読】No.2 「元気だよ」

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アップするのが義務のように感じてせっせと次を考える。

アップしない期間が続くとサボっているみたいで罪悪感にさいなまれる。

このどちらもイヤなので気が向いた時に更新すればいいや~と思いつついるのだが

このところ「最近どうしたの?」「もうお終い?」のようなメッセージをいただくようになり、申し訳なくもありがたい気持ちになった。

そんなことを思っていたら、昨日このブログへのアクセス数が過去最高となったようでいったいどうしたことかといぶかったりしている。

だいじょうぶ、気が向けばポンポンのせていくし、そうでなければパターっとおやすみしたりします。

にしても人ってこんなふうに自分にちょっとでも関わりのある人のことを心配してくれるんだなあと感心している。「どう?元気してる?」「風邪引いてない?」みたいなね。

本編で言うところの「つつがなくお過ごしですか?」もこれなんでしょうね。四大不調を一匹のダニのせいに思うわけをもう少し調べたかったけど今のところまだよくわからない。でもま、そろそろ声挙げとかないとさらに心優しい人たちにご心配かけてしまいそうなので言っときますね。

「元気だよ」。

【世説】№2「無恙(つつがなし)」

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 この義群書の中諸説一ならず。『輟耕録』の釈備(つぶさ)なり。故に今これを出す。○『輟耕録』曰く、「『神異経』に曰く、「北方大荒の中に獣有り、(よう)と名く。この獣人の家に入りて咋(かむ)ときは人疾(やめり)。黄帝これを殺したまう。これより人疾むことなし、これを恙無しと謂う」[已上]
 『爾雅』に曰く。「恙は憂なり。言うこころは恙無しとは憂え無しと云う義なり。これは只字義に依る。」[已上]
 應卲が『風俗通』に云う。「上古の時は室(いえ)無くして野に住み草に臥す。この故に恙と云える虫来て人を噬(かん)で苦しましむ。故にその時の人々先づ問うに恙無しやと曰う。」[已上]
 上の三説あるいは恙を獣とし、虫とし、あるいは無憂と謂えり。『廣干録書』には兼ねて憂と及び虫と取り、『事物紀原』には憂と及び獣とを取る。