よこみち【真読】 №38「供物の思ひ出」 巻二〈供養部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)
昭和の戦中~戦後あたりのこと、当時の住職は私の祖父。その頃ガキンチョだった地元の先輩達が時折私に話してくれる。
「あの頃は食べるもの何も無くてさ、スグリだのグミだのカッコ(桑っこ)の実だの、そこあたりに成っているもの何でも喰ったもんだ。でもわらしがただから腹空かしてさ、で寺のまわりで遊んでいれば、よくお前のお祖父さんやお祖母さんに菓子もらって喰ったもんだ」。
食糧難で物資に乏しいのはお檀家さんもお寺も一緒。それほどお檀家数も多くないお寺だから決して裕福だったわけではない。それでもお葬式やご法事があるとお供物として、お団子や葬式饅頭、ときには砂糖菓子や餅などが上がったらしい。いつでもというわけではないが、子ども達が近くに見えた時、そんなものがあるとすこしづつあげていたのだろう。
今の子ども達はスグリだのグミだのカッコの実が食べられると言うことさえ知らない子も多い。仏事用の供菓子などよりも、人気のあるのはテレビのCMでおなじみの横文字のお菓子だ。
ご本堂でのご法事では霊膳の上がることもめずらしくない。今でもそうだが、それぞれ家で調理してきた総菜を重箱に詰めて持参し、お寺のお膳に供える。定式の配膳器よりもたくさん盛りつけられることもしょっちゅうで、それでも亡くなったお祖父さんが好きだったという山菜の煮物やおひたしなど、小さなお膳にあふれるくらいの料理が添えられることもあった。
時には、これ好きだったからと、酢ダコや馬肉の煮付けなどの登場することもあり、小さな苦笑が誘われることもある。
しばらく別居していた両親と私と妹の四人が一緒に住むまでは、祖父母だけの二人暮らしの寺。物資にも経済的にも不如意な時代もあったようだが、つい笑ってしまったことがある。
今でこそ、寺院経営も税務署のお目付厳しく、どちらでも会計事務の綿密にされているようだが、昔のお寺はそうでもなかった。お布施の収入で足りればよく、足りないところは畑作ったり、蚕飼って繭玉売っては生活の資けにしていた時代のこと。
年度末の確定申告。祖父がとりあえずどんぶり勘定を帳面に書き付けたような会計簿を持って役場職員のところへ詣でた。
「いやあ、和尚さん。これじゃ生活していけないでしょう。もう少しお布施もらっているんじゃないですか?」
「なんもそんたことね。おらほの村はお布施少ねんだ」
「でもこれじゃお二人で大変じゃないですか?」
「大丈夫だ。檀家が上げてくれたダンゴを、ババと二人でかじって暮らしてら」
この返答に役場職員もしょうがないので申告書をテキトーにこしらえ、それで済んでいたという。今ではありえないおおらかな時代であった。
本編ではイヌやカラスにやっちゃいけない、貧しい人に施しなさい、と言うが、当時、大きなお寺は別として、多くのお寺が似たような状況だったのじゃないだろうか。むしろそんな時代でも、仏さまにだけは何かしらの供物をお供えいただいていたお檀家さん達に頭が下がる。
『真俗仏事編』の成立は享保十一年(1726)。江戸時代のこの頃、果たしてどのようなお寺の状況であったか定かにはわからない。だが、本編で「私にいわく、已上は灌頂等の大法の規則なり。平常の事に非ず」とあるのは、「ふつうのお寺のふだんの仏事の時はこの限りじゃないよ」と言っているようにも読み取れそうに思える。