よこみち【真読】№94「マントラコーティング」
『真俗仏事編』の編者・子登は真言系の宗教者だと推定している。それを思えば、本編№94で経衣に書く経文を、「今日びは法華経や阿弥陀経なんかの経文を書いているふうもあるようだが、本来はきちっと真言陀羅尼でなきゃあかん」と言っていることも由あることだろう。
だが経典の文章というのは、陀羅尼の箇所も、偈文(定型詩)の箇所も、散文調の箇所も、多くの読み手側にとっては「仏様の言葉を記したありがたい文章」であって、たといその文意がよくわからなくとも、依然として受け手にとって「お経の言葉はありがたい」という事態がある。子登の指摘は暗にそうした風潮を批判しているようにも思える。
そんな、「ふつうの経文でも本来の文意を離れて神秘的な呪的作用を持つ」に到った代表格の一つが『般若心経』だろう。人間の六感によって〈これだ〉と思うたびに〈いやちがう〉〈まだまだ〉〈それもちがう〉と逐次否定を繰り返しながら智慧の完成を探してゆく経意よりも、「災厄から守ってくれるありがたいお経」というのが大方の捉え方。短文であることも幸いしてか般若心経グッズの人気はなかなか好調に見える。
経衣(経帷子)からの連想で言えば〈耳なし芳一〉の話がある。伝承を元に小泉八雲が作品化したこの物語の中でも、琵琶法師・芳一がその素肌にびっしり書き込まれたのは『般若心経』だった。この話題、本編№60のよこみちでも触れたけど、http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/12/17/000643
つくづく我々は〈見えない何か〉から守ってもらうために、〈見えない何か〉の力にすがりたいのだなあ。