BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№72「ふどうさかもんじょうしげじんじょう」

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あるお檀家さんから依頼事ひとつ。
 「和尚さん、これおらほの婆さまがた申してるもんだばって、なんた意味だべが、教えてけねしか?」
と、預かった用紙が画像のものである。私の住む北秋田の一集落に伝わる念仏の文句だ。この集落だけではなく、周りの集落にはこれとほぼ同じような念仏が伝わっている所が複数ある。念のために言うが、うちのお寺で伝えたものではない。さてピンと来た人はどれくらいいるだろう。

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「ふーどうしゃーかーもんじゅー……」というわけで、本編のテーマである十三仏の、「不動・釈迦・文殊・普賢・地蔵・弥勒・薬師・観音・勢至・阿弥陀・阿閦・大日・虚空蔵、南無阿弥陀」という念仏の北秋田バージョンというものだった。
  ふどう 不動
  さか 釈迦
  もんじょう 文殊
  しげ 普賢
  じんじょう 地蔵
  にろく 弥勒
  やくし(で) 薬師
  かんのん 観音
  しえし 勢至
  なみだ 阿弥陀
  だいしょく 阿閦
  だいにじ 大日
  いこくで 虚空蔵
  なむあみだ 南無阿弥陀
 もしかすると失笑を買うようなユーモラスな感想を抱かせるかも知れないが、専門的な仏名がこのように原型に近い形で口頭伝承されてきた、ということに意味があると思う。おそらく全国各地にそれぞれのバリェーションでこうした民間念仏伝播の足跡を見出すことができるだろう。
 https://www.youtube.com/watch?v=wFbBkd2KtIk
 引用した動画は東京地区のものである。知る限りのこうした拡がりは、特定の檀信徒地域や宗派という枠を越えて、拡散しているように思う。
 ところで本編はこうした十三仏の本拠について、あまり定かな所にたどり着かないと述べている。そこで依っているのは『谷響集』という『真俗仏事編』に先行する文献だ。これについては前に触れているので、そちらにゆずり、
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/04/05/065939
早速、『谷響集』「十三仏」の項目本文を見てみよう。

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 ご覧の通り、『下学集』以下、『真俗』の回答の文章は『谷響集』のものを抄出して示したものだ。ここで十三仏とはそもそもどんな仏で、なぜ十三あるのかということについては、あまたのサイトが紹介しているので、わざわざここでは説明しないことにする。要は、初七日の不動明王以降、三十三回忌の虚空蔵菩薩に至るまで、十三回の時を定め、そこに十三の仏菩薩明王を配当して行くのである。いわばそれぞれの時の本尊とも措定されているもので、この点、№60で触れた三十仏、三十番神に近いとも言える。
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/12/09/202328
 ただ十三仏に独特の事情は、年忌の法事に関係するところであって、その意味では『谷響集』がさらっと書いている(そして『真俗』もそのまま引いている)「道明蔵川の遺志を伝う」という箇所が重要な役割を持ってくる。道明蔵川とは、道明と蔵川という二人の僧侶のことだ。今一度『谷響集』にもどって、「十三仏」の項のひとつ前にある「十王」の項目を見てみよう。

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 やや遠回りな説明になるが、死者が臨終後、決められた日にちに十回にわたる死後の審判を受ける、その審判の十人の判事を十王という。そしてこの十王の審判について記した経典を『十王経』という。画像の引用文はこの経典の真偽について述べた箇所だ。ざっとした説明にとどめるけれど、『釈門正統』や『正法念経』そして『冥報記』をもって、その偽撰なることを明かしている。そして『冥報記』に関する文章から、最後の『十王経』に関する段落に至るところで、十殿や十王の名称は、唐の道明和尚が冥中に入って見聞してきたものだという。それを蔵川和尚が撰述したものが『十王経』というわけだ。この十王についてもさきほどの十三仏とダブって多くのサイトが紹介している。あまり他ばっかり見てくれというのも何だから、要項のみ挙げておこう。

  十三仏  裁判官
 不動明王  秦広王   初七日
 釈迦如来  初江王   二七日
 文殊菩薩  宋帝王   三七日
 普賢菩薩  五官王   四七日
 地蔵菩薩  閻魔王   五七日
 弥勒菩薩  変成王   六七日
 薬師如来  泰山王   七七日
 観音菩薩  平等王   百か日
 勢至菩薩  都市王   一周忌
 阿弥陀如来 五道転輪王 三回忌
 阿閦如来  蓮華王   七回忌
 大日如来  祇園王   十三回忌
 虚空蔵菩薩 法界王   三十三回忌
 じつはこの十王信仰、かなり興味あっていろいろ調べていたことがある。それについては本編「送終部」に関連する項目がたくさんあるので、そちらで展開することとしたい。
 そこで、この「よこみち」では標題に掲げた「ふどうさかもんじょう云々」という唱え文に戻って考えを進めることにする。明らかなように、この文句を唱えている人たちは、これが不動明王、釈迦如来文殊菩薩などの具体的な仏名を意味しているとはつゆ知らない(はずだ)。そこに意味があるのか?といういじわるな質問をする人に答えたい。ある、と。
 だがそれは仏号称名の功徳とは違う。集落の人たちは思っているはずだ。この文句を唱え、年寄りたちから伝えられた旋律に乗せて繰り返し口ずさむことによって、亡くなった親たちへ冥福が訪れることを。幼くして死んだ自分の子どもたちがささやかな安らぎと幸せに恵まれることを。文字面の意味がわからなくとも、集落民と心と声を合わせて唱える時、この唱え文が不思議な力を発することを。
 「不動釈迦文殊」という辞書的意味はすでに解体している。だが「ふどうさかもんじょう」という新たな音声記号として人々の口から発せられた時、言霊としての新たな力を帯びるのだ、と思う。

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