千葉克一「照井竹泉は照井藤右衛門か-新資料『秋田藩十二所陪臣家筋取調書』からの考察-」石渡博明・児島博紀・添田喜雄編著『現代に生きる安藤昌益』201210(御茶の水書房)
狩野亨吉『安藤昌益』1928、渡辺大濤『安藤昌益と自然真営道』1930にみえる「照井竹泉」を追求するのが本稿の目的。渡辺は照井から昌益に寄せた手紙の署名を「〓右衛門」と読み、〓は未判読としている。
照井竹泉に関する先行研究に三宅正彦「南比内十二所町武田家-安藤昌益と照井氏・武田氏」『北鹿新聞』1993.4.15-17。以下、三宅の要約。
武田三代(武田氏系図から)
久豊-武田三秀
受業師照井窓竹先生、伊藤長胤(ながつぐ・東涯、古義堂二代塾主)に入門
士友-武田三益
受業師照井氏、伊藤介亭(東涯の異母弟)に儒を受く
為忠-武田三省
受業師照井氏、伊藤東所(東涯の三男、古義堂三代塾主)に儒を受く
三宅:「武田三代として名高い十二所町武田家の系譜から、昌益と同じ世代である三秀の医学の師は照井窓竹で、その子三益、孫三省の師も照井氏となっている」ことを見つけたが、「それ以上のことは分からなかった」
千葉は「〓右衛門」を「藤右衛門」と判読する。そして以下の新資料を含む関連資料を用いて分析を進める。
五-1『秋田藩陪臣家筋取調書』(秋田公文、県D-8-4)
(畑中康博「秋田藩陪臣社会の構造-「陪臣家筋取調書」の分析を通じて-」『秋田県公文書館研究紀要』14、2008.3
同「秋田藩十二所所預茂木陪臣考」『秋田県立博物館研究報告』36,2011.3)
秋田藩士六十五家の内の一家『茂木弥三郎家人家筋書上帳』の中に、その家人の一人として「照井藤右衛門」の名がある。
六 『茂木弥三郎家人家筋書上帳』(明治3年10月提出)から
→ 照井藤右衛門の直系子孫、照井健蔵 と 武田氏の直系子孫 武田三祐 の情報
七 『士族卒明細短冊・大館十二所分』(明治6年)
→ 照井健蔵 の情報
八 『十二所町郷土読本』(達子勝蔵編・昭和8年)
→ 照井健蔵 照井藤兵衛 の情報
→ 照井氏戒名
一〇 『大館市史』
→ 俳人・照井尋風 の情報
十一 『大館戊辰戦史・附沿革史』
→ 俳人・照井せき庵
上記資料を分析し、千葉は次のようにまとめる
十六 まとめ
照井竹泉 = 照井藤右衛門、碩庵 とは
1 横手から十二所所預として来た茂木知恒に、元禄3年(1690)、医師として十二所で最初に召し出された家人(陪臣)。
号は竹泉、のち窓竹(推定)。また通称の藤右衛門と実名の碩庵は、家督とともに代々受け継がれたであろう。「三益の師も照井氏、三省の師も照井氏」の意は(二代藤右衛門)(三代藤右衛門)の意である。
2 茂木氏の側医として武田氏がよく言われるが、初めて三益が登用されたのは初代照井藤右衛門登用の七十年後である。だから三益以前の七十年間、照井氏が側医を(二~四代ぐらいか)勤めていて、この間に安藤昌益や武田氏の師となった時期があったのだろう。
3 照井藤右衛門と安藤昌益・武田三秀の年齢差はいくらか。仮に三十歳の登用とすれば四十三歳差となる。もし昌益と三秀が十五歳の時点で学んでいたとすれば、師である藤右衛門は五十八歳となる。なお三秀は二十七歳の時に上京しているので、その時点で藤右衛門は七十歳代か。「窓竹」は晩年の号ではないか・
4 三秀の子三益も、照井氏(おそらく二代藤右衛門)から、初めて医学を教わっているが、のち宝暦10年(1760)に、三益は茂木知輝に医師として召し抱えられる。二十五歳の時である。さらに三益の子三省も照井氏(おそらく三代藤右衛門)から初めて医学を教わり、三益を継いでいる。このように照井氏・武田氏が茂木氏の医師を同時に何代か勤めた時期があったろうということも考えられる。
5 大館の著名な俳人として名を残している照井尋風は、「享和年中(1801~1804)に暇を指出」して引退した(何代目かの)照井藤右衛門・碩庵であろう。
6 照井健蔵とその嫡男廉蔵は、明治初期には十二所にいたことは確かではあるが、その後の消息は不明である。
△三宅の「武田氏が茂木氏の儒医として仕えるのは、三秀・三益・三反の三代」とするのは誤り。それは三益より。
△本稿での、千葉の分析は「家人家筋」関連資料において特に勝れている。
△昌益と同世代である武田三秀以下の三代の関連資料を明らかにすることによって、昌益の成長環境を知る情報を提供している。
△古義堂学統の影響が比内・十二所に色濃いことが伺える。これに関連して宮野尹賢が伊藤東涯の門人であったことも重要となるだろう。千葉は、昌益が宮野に参じた可能性も2014には推定している。
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