BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№106「神国日本」

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本編の末尾に云う「随方毘尼」とは、時宜に随って既定の律を融通させることを云う。「一応決まりではかくかくしかじかなんだけど、ここではケースバイケースでいいよ」ということだ。前にもこれに似たことがちょっとあったけど、日本は神国だから、という編者子登のバランス感覚の察せられるところだ。そしてここがとても注目される所でもある。
 子登の時代、神儒仏の対立はそれなりに鮮明化していて、それぞれの華々しい論争もいくつかあった。そんな風潮にあって子登の場合は神道仏教との折り合いを上手につけていた例だと思う。ことに前回№105から連続するテーマ「忌」は、神道仏教双方の立場に触れる時、赤と青に変わるリトマス紙の反応ほどデリケートな問題だけに、子登の立場が特徴的に感じられておもしろい。
 そしてこここで一つ注意されるのは、子登が神道に対して寛容だというだけではなく「吾が朝は神国」という表現。この言い方№17「寺院に鎮守を安ず」
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/04/14/231755
や№105「服忌」
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2016/11/29/083328
にもあった。これはたんに「日本は神を崇める国」ということかもしれないけど、もしかすると子登の信仰的表明かもしれない。つまり子登自身が「日本は神国だ」と信じているということだ。
 「いやいやちょっとまった、だって子登は真言宗の僧侶だって前に推察したじゃんあんた」とつっこまれそうだな。
 たしかに「ちょっといっぷく(一)」http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/05/05/082311で、そういう推論を述べたのだけど、そのことを今少し考え直してみたい。
 あのときは大阪の生玉神社の前身である 生玉十坊の一つ、真蔵院に関わる「沙門」だろう、と述べた。今でもその見込みに変わりは無いけど、これを最前の「神国」という表現と合わせて考えるなら、子登は真言宗系の修験者で、真蔵院も同じく真言宗系の修験寺院と考えるのが穏当のように思う。このあたり生国玉神社の調査をちっとも行わずに言うのも雑な話なのだが、後に神社化していることを考えればごくありそうな話である。
 こことは別に近世秋田藩の修験者について調べたことがあるのだが、http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-861-5.htm
ここで言う修験者とは、修験という言葉で連想される山岳信仰、山中修行というような〈山の修行者〉というよりも、民間の知識人という側面であり、さらには仏教神道いずれにも通暁している宗教者という側面である。子登の場合もこれに共通する要素が窺われ、さらには商業都市大阪という地方都市を住所としたことから、その知的レベルの一層洗練されていた様子さえ思わせる。
 ともあれ日本国を「神国」と言い、ときに『倭姫命世紀』などという神道書を典拠に持ち出してくるなど、(№7「初穂)
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/03/09/045029
子登の神道への造詣は深い。
 仏教あるいは神道のいずれか一方だけを追求してゆくと、双方の違いが齟齬として意識され、やがてはお互い相容れぬ対立構図となってしまう。それが当時の神仏論争の論客達の大概だったと思う。これに対し、双方にそれぞれ信を置きながらその違いを融通させてゆく一つの回路が「随方毘尼」だったと言えるだろう。
 いずれ生國魂神社についてきっちりした調査をする必要を感じているが、今回は子登について、「仏教神道に通じた真言宗系修験者」という予想を建てておこう。