【真読】 №109「葬場の華表(とりい)」 巻四〈送終部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)
テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号47
問う、今、葬場に華表(とりい)を構えるは何の故ぞ。
答えて曰く、『古今注』に、華表を釈して「また以て衢路を表識す」と云へり。これに拠れば、元と路筋を知らしむる為に立つ。故に今葬場の華表は、発心・修行・菩提・涅槃の四門にこれを建てて路筋を表すなり。
因みに問う、本邦神前の華表もかくの如くなるものか。
答えて曰く、『紀原』に、「後人、塚墓の前に立てて、以てその識し記すものなり」と云へり。本邦社前の華表も、本(も)とかくの如くの説に依て神廟の路を識すものなり。(『紀原』十に曰く、「『古今注』に曰く、程稚、堯に問う、“誹謗の木を設くるは何ぞや”。曰く、“今の華表、木を以て柱頭に交え、状(かた)ち華の形の如くにして、褐楔の形に似たり。交衢に悉く施す。或いはこれを表木と謂う。けだし堯、これを設くるに始まる。後人、これを塚墓の前に立て、以てその識を記す”)。
然りと雖も神道家には、華表を「一心」の文字の形に取る等の伝あり。また「相応の華表」と云うあり。形ち異なり。しかるに『列仙伝』の図には、華表ただ一柱なり。また他の図に二柱の華表あり。吾が国の鳥居に似たり。
また本朝、華表を鳥居と称(なづ)くるは、丁令威、化して鶴と成て遼東の城門の上に止まりし故事を採て鳥居と名づけたり。
また今、石を以て華表を造ること、極楽寺の忍性、始めて四天王寺の華表を石を以て造りしより始まると『釈書』に見えたり。
しかるに『紀原』の鼈頭に、韋照が説を引いて曰く、「後世、石を以てこれに易(か)う、と云へり」と。然れば忍性は、またこれに依るか。
よこみち【真読】№108「絶句」
生まれてから五歳の頃まで秋田市内の寺町通りにあるお寺で過ごした。そのお寺に県の宗務所という宗派事務局があり、父がそこの職員をしていた。同時にそのお寺の法務手伝いをしており、妻を娶り、妻はお寺のまかない手伝いとして二人一緒に住み込み暮らし。その二人の間に私が生まれた。なんと言うことはない、大寺で働いていた若僧夫婦の子どもだっただけである。ただその寺の住職夫妻には子どもがなく、寺内に住む子どもは私一人ということもあって、可愛がってもらった。
五歳くらいになると小編の経文は憶えるようになる。Eテレビの幼児向け番組で、じゅげむじゅげむや、アメニモマケズなど長文の文章を子どもたちが得意そうに暗誦しているのを見ることがあるが、あれと同じことで、意味などわからずとも子どもの暗記力は高いものだと思う。
そんな5~6歳の頃からだと思うが、お盆になるとお寺の墓経手伝いをするようになった。
そのお寺は本編に掲載した写真のように(同じ寺ではないが)、本堂手前の境内に境内墓地がずらりと並んでおり、お盆に墓参のお檀家さんでたいそうにぎやかになる。墓経というのは、そうした墓参客の要請に応じて、各墓塔の前でお経を唱え、家々のご先祖の供養をするものだった。
一件、約十分足らずだったと思う。墓参客はひっきりなしに訪れるので、墓経に待機している僧侶は四~五人いたと思うが、それぞれ一件終わればまた次のお墓へというように、ほぼ休みなく動いていた。
頃は八月の半ば。三十度を超える炎天下であることがほとんど。私以外はみな大人のお坊さんであったが、「よいでねなあ(※容易なことではないなあ)」とぼやきながらのことだった。
だがお経も憶えたて、僧服姿も初めての私にしてみれば、墓参客たちに珍しがられたり、褒められたりして、子供心にも楽しく誇らしい思いだった(じつのところはその頃の感慨があまり鮮明でないのだけど、きっとそうだったと思う)。墓石の前で一緒に記念写真を撮ったり、読経中の姿を撮られたりしていたのを憶えている。
そうした記憶のもっとも印象深いことがあった。
憶えていた経文は『般若心経』だった。これはその前に憶えた『舎利礼文』よりも三倍くらい長い経文で、自分にとっては一つレベル上のお経を憶えたぞ、と内心得々としていた。墓経の際は、墓石に向かって、手に引磬(いんきん)と呼ぶ携帯用の鳴らし鐘を持って読経する。両手はふさがっているので、経典は基本的には持たない。父からは「お経を忘れたりしないようにちゃんとお経の本を看て読みなさい」と言われていたが、引磬を手にしていると持ちにくいし、なによりももう暗記しているから大丈夫、という気持ちもあって、経典は持っていなかった。なにしろ午前中だけで数十件、夕方まで途切れることなくやって来る墓参客に対応していると、日に百件くらいは読経していることになる。頭で考えなくとも次々と口から経文は出てくるのだった。
で、その時。家族連れの墓参客。小さいのにえらいねえ、かわいいお坊さんだね、などと言われつつ「カンジーザイ」と始めた。と、経文が途切れた。次の言葉が出てこないのである。あせるが、そこは子どもでも何とか回避策をひねり出した。もう一度「カンジーザイ」から始めた。読経のリズムに乗っかっていると、ひとりでに経文が続いてくるはず、と思っての試みだったが、さっきと同じところでまた止まる。さっき以上にあせり、再度「カンジーザイ」から。後ろに立っている墓参客が、こっちの不自然なようすに気づいたのがわかる。それもあせりに拍車をかけたのか、また経文は立ち止まり、もう後が続かない。さすがに始めに戻るのもためらわれた。後ろから声がかかる。「おやおやお経忘れちゃったかな」。私は凝固したまま。暑さのせいではない汗で背中がびっしょりしてきた。経文に続く回向文というものがある。「仰ぎこいねがわくはさ三宝・・」と、読経功徳を先祖の供養にふり向けるしめくくりの唱え言だ。ともかくもそれを読んでお勤めの終わりにした。肝心なお経をすっ飛ばしてしめくくりだけを言ったようなものだ。「もっと練習して、来年もお願いしますね」と笑って言われたが、胸に穿たれた穴は深く大きかった。
爾来50年を経た。今でも読経することを仕事にしているが、ふがいないことにごくまれに経文を忘れてしまうことがある。ごまかし方だけは上手になったが。
【真読】 №108「寺内の葬り」 巻四〈送終部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)
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寺は三宝の住所なれば、死骸を葬ること不浄の咎あらむ。
答う、律に制せざれば苦しからず。『行事鈔』下に云く、
「高僧伝に多く寺中に葬する者の有り。
経律の中にまたこれ有り。『僧祇』に持律の法師、営事の比丘、徳望の比丘には、まさに塔相輪を起て、幡蓋を懸け施す。屏所に在りて安置すべし。経行処に在りてこれを作すことを得ず」。
よこみち【真読】№107「礼塔」
金髪、ピアスで黒革の上下。金属ボタンの革ブーツ。ついありがちなキャラの型にはめたくなりそうなその若い男性が一人で墓参。先年両親を亡くした。小一時間も墓所にいただろうか。また一人帰るその姿に思うところは少なくない。
不在となった人に寄せる思い。その思いの矛先を託す寄る辺の意味は重要だ。本編の「墓」「塚」というモノがそれにあたる。亡き人の魂の依り代。
かつて焼骨を粉及び灰状にして山野や海原に「撒き散らす」ことを、自然葬と呼んで注目されたことがあった。今でももしかするとその名残はあるかもしれない。亡くなるその人自身は自然回帰できるという思いに浸れるのだろうか。しかし残された遺族たちは山野や海原というあまりに茫漠とした寄る辺の無さに戸惑うことが多いという。逝く人自身にとってはreturn to natureの幻想が果たされるのかもしれないが、残される人々にとってその人の「よすが」のないことは不自然unnaturalな思いは拭えないだろう。「依り代」の大切さをあらためて思う。
このよこみち、「礼塔」と題したのは、本編に触れて、師の、あるいは師と仰ぐ人の塔を礼した人々の言葉をふり返ってみたいと思ったからだ。素材は中国宋代の禅僧の詩に求めた。以下、そのいくつかを挙げる。
永明塔 笑堂悦和尚作
宗門を潤色す、幾万言ぞ。
袈裟零落して、行、猶お羶(なまぐさ)し。
言うことを休めよ、破鏡を照らすこと無しと、
月は中峰に在って、夜々円かなり。
永明延寿禅師の墓塔。
延寿は『宗鏡録』百巻の作者。一句目はそれを言う。
延寿また一生袈裟を脱がず、火葬の後、その袈裟壊せずと伝えられる。しかして「行猶羶」とは、延寿生前の道行、今に至ってなお世間に強く影響を与えているとの意。羶は、生臭いというよりも、芳しい。
破れた鏡はもう照らすことがない。「宗鏡」にかけて延寿の死を言う。「破鏡、重ねて照らさず、落花、枝に上りがたし」の語がある。
月は鏡に映じる光の本体。中峰は一説に延寿ゆかりの西湖の東の地とも言うが、ここでは普通名詞・山脈の中央でも意は通じる。
永明延寿は『宗鏡録』百巻の大著を著して宗旨にいっそうの文彩を加えられた。今、その祖塔を礼す。
禅師の袈裟は荼毘の後も、そこなわれることなかったと伝わるが、その袈裟は零落したものの、禅師の遺芳はいまなお香っている。
禅師の宗鏡はすでに破れて、もはや照らすことはないなどとのたまうことなかれ。
山嶺の中央、夜々、月は円かに輝いている。これこそ禅師の宗鏡である。
明覚塔 象潭泳和尚作
智門に見(まみ)え了って、天衣を接す。
何ぞ用いん、低頭して隠之を扣(たた)くことを。
水は画(えが)く、洞庭無字の記、
峰は青し、乳竇(にゅうとう)不磨の碑。
明覚禅師こと雪竇重顕の墓塔。
智門は雪竇の師、天衣は雪竇の弟子。
隠之は雪竇の字(あざな)。
洞庭は蘇州の太湖中にある洞庭山翠峰(岳州の洞庭湖ではない)。雪竇は始めここに住した。無字記は雪峰山にあり、雪竇にもこと寄せて伝えられる。
乳竇は雪竇山のこと。
雪竇禅師は智門師に法を嗣ぎ、天衣師を接化打出された。
あらためて禅師に訊ね智門参禅の意や、天衣打出の意など問うまい。
なぜなら眼前に開ける太湖水上に浮かぶ洞庭山のようすこそ禅師の足跡を印した無字の碑であり、
青々とした山並みをたたえた雪竇山こそ、決して消えることのない禅師の風光を伝える不磨の碑なのだから。
思大塔 松巌秀和尚作
熟処忘れ難し、思大老。
三生、此の地に精魂を弄す。
我れ来たって敢えて低頭して礼せず。
率都婆、嶽帝の門に隣る。
思大は南岳慧思大師。
熟処は住み慣れた所。
慧思大師、三度この世に生まれ出でて南岳に住したと伝えられることを云う。
率都婆は祖塔。嶽帝は岳神の廟、南岳の山神。
いかほど住み慣れた所が忘れ難かったのか、慧思大師。
三度も生れ出でてこの南岳で仏法敷衍の精魂を傾けられたとは。
しかし私はここに詣でて敢えて礼拝しようとは思わない。
祖塔は岳神廟の隣にあり、まるで俗神の仲間のようになっているのだから。
人は亡き人の面影をその「モノ」に託し、時に慕い、時に敬い、時に毒づき。その人ともに生きてゆく。
※参考資料『江湖風月集訳注』編注:芳澤勝弘
【真読】 №107「礼墓」 巻四〈送終部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)
テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号46
『行事鈔』下に、師塚に拝すべきの問答あり。
○『五百問』に云く、
問う「生ける時こそ師なり。死してはその師、枯骨と成る。枯骨を拝して何にかする」。
答えて云く「仏も涅槃後には枯骨なり。しからば仏の滅後には、仏に供養すべからざるか。ここを以て師の報恩に塚を礼すべし」。
よこみち【真読】№106「神国日本」
本編の末尾に云う「随方毘尼」とは、時宜に随って既定の律を融通させることを云う。「一応決まりではかくかくしかじかなんだけど、ここではケースバイケースでいいよ」ということだ。前にもこれに似たことがちょっとあったけど、日本は神国だから、という編者子登のバランス感覚の察せられるところだ。そしてここがとても注目される所でもある。
子登の時代、神儒仏の対立はそれなりに鮮明化していて、それぞれの華々しい論争もいくつかあった。そんな風潮にあって子登の場合は神道と仏教との折り合いを上手につけていた例だと思う。ことに前回№105から連続するテーマ「忌」は、神道と仏教双方の立場に触れる時、赤と青に変わるリトマス紙の反応ほどデリケートな問題だけに、子登の立場が特徴的に感じられておもしろい。
そしてこここで一つ注意されるのは、子登が神道に対して寛容だというだけではなく「吾が朝は神国」という表現。この言い方№17「寺院に鎮守を安ず」
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/04/14/231755
や№105「服忌」
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2016/11/29/083328
にもあった。これはたんに「日本は神を崇める国」ということかもしれないけど、もしかすると子登の信仰的表明かもしれない。つまり子登自身が「日本は神国だ」と信じているということだ。
「いやいやちょっとまった、だって子登は真言宗の僧侶だって前に推察したじゃんあんた」とつっこまれそうだな。
たしかに「ちょっといっぷく(一)」http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/05/05/082311で、そういう推論を述べたのだけど、そのことを今少し考え直してみたい。
あのときは大阪の生玉神社の前身である 生玉十坊の一つ、真蔵院に関わる「沙門」だろう、と述べた。今でもその見込みに変わりは無いけど、これを最前の「神国」という表現と合わせて考えるなら、子登は真言宗系の修験者で、真蔵院も同じく真言宗系の修験寺院と考えるのが穏当のように思う。このあたり生国玉神社の調査をちっとも行わずに言うのも雑な話なのだが、後に神社化していることを考えればごくありそうな話である。
こことは別に近世秋田藩の修験者について調べたことがあるのだが、http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-861-5.htm
ここで言う修験者とは、修験という言葉で連想される山岳信仰、山中修行というような〈山の修行者〉というよりも、民間の知識人という側面であり、さらには仏教と神道いずれにも通暁している宗教者という側面である。子登の場合もこれに共通する要素が窺われ、さらには商業都市大阪という地方都市を住所としたことから、その知的レベルの一層洗練されていた様子さえ思わせる。
ともあれ日本国を「神国」と言い、ときに『倭姫命世紀』などという神道書を典拠に持ち出してくるなど、(№7「初穂)
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/03/09/045029
子登の神道への造詣は深い。
仏教あるいは神道のいずれか一方だけを追求してゆくと、双方の違いが齟齬として意識され、やがてはお互い相容れぬ対立構図となってしまう。それが当時の神仏論争の論客達の大概だったと思う。これに対し、双方にそれぞれ信を置きながらその違いを融通させてゆく一つの回路が「随方毘尼」だったと言えるだろう。
いずれ生國魂神社についてきっちりした調査をする必要を感じているが、今回は子登について、「仏教&神道に通じた真言宗系修験者」という予想を建てておこう。
十日がかりの味わい
12月3日。
豚バラかたまり肉、約1㎏を5枚購入。
2%の塩とブラックペッパー適量をなすりつけ、ローリエを貼り付けてジップロック。
空気を閉め出して密閉し、冷蔵庫に入れる。一~二日に一度、上下を返し、塩分を馴染ませる。
七日目の9日。大鍋に水を張りかたまり肉を入れ細い流水で塩気を抜く。
午前7時半より。途中三時間ほど経って、端の部分を薄く削ぎ、炒めて口にしてみるがまだ塩分が強い。引き続き流水に浸し、午後1時45分。同様に炒めてみると、今度はいい具合。かたまりの中心部分ならばなお薄かろうと水から引き上げる。都合六時間以上の塩抜きだった。
引き上げた肉の水分をタオルペーパーで拭き、フックをさして写真のように深さのある段ボール箱へ並べてつり下げる。箱の底には新聞紙。肉がふれあわぬようにして室内温度の最も低い(ほぼ外気温並み)つなぎの廊下に置く。これで翌日の朝まで放置。
10日、八日目。午前9時30分、燻煙開始。
燻し小屋の中にフックでかたまり肉をつり下げる。
一緒にセットしたものはサンマの塩麹漬け、塩鯖、ツボ抜きイカ、ダイコン。
炭を熾し、リンゴとサクラの木で燻す。
燃焼材は乾燥しすぎず、ある程度生のものがよいとか。
イカが一番早くできそうだな。
約三時間半後、肉の全体に飴色がにじんでいる。
まずは第一陣。約七時間かけて温燻熟成しました。鯖の身がやわらかいままで燻香をたっぷりすっています。激ウマ。でもってこのお酒。堀の井レーベルの最高峰。すきっとキレがよくて相性抜群です。今宵は幸せな夜。でも明日には本命のBACONが上がる。うう、うれし~♪
一晩火を休めた翌朝、出来上がりまでもう一息。
燻煙再開。
ここでトラブル。
あさ再燃させたつもりの薪が燃えきれずに沈下していた。気づいたのは昼前。慌てず再着火。ひっぱるねえ。
もうひといき。これでもまだ中は極レア状態。
12月12日17時。やっと中に火が通りできあがり。先週3日仕込みの今日の上がりだから都合十日間。摂心とか成道会とか今日はお葬式とか、いろいろ物いりの時期にこんなナマグサやってたんだなあ。
完熟ベーコン山盛り。
完熟燻製ベーコンと下仁田ネギ、そしてCHIMAY
今夜はあと何も要らない。
明日のために、
その1 今回は温燻というよりもほぼ冷燻に近い温度だったのだろう。一坪弱の小屋でも熱が行き渡るためにはかなりの燃焼が必要。薪は充分に用意して、こまめに火の管理をチェックした方がよい。
その2 仕込み=塩漬け&塩抜きは初回にしてはよかったのだと思う。今回はあしかけ1週間のつけ置き。肉の重さ2%の塩とブラックペッパー&ローリエ。約6時間以上の流水塩抜き。3時間を過ぎた頃からすこしづつ削いで焼き、味をたしかめた。スパイスの香りはけっこう強めでも大丈夫そう。肝心なのは塩抜きだ。